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選んだ未来6
2人の手が静かに重なった。そして、そのまま、しばらくの間言葉はなかった。静寂が辺りを満たし、先ほど吹いていた風すら、今は吹いていないような気がした。けれど、確かに何かが動いていた。博嗣の中で、長く張りつめていたものが少しずつほどけていく気がした。
真夏は博嗣の手をしっかりと握り返す。過去の痛みでも、懐かしさでもなく、今、この瞬間の”温もり”として。千年前の最後の日。指先がすり抜けてしまった、あの触れられなかった感触が今、ようやく現実のものとしてここにある。
博嗣がほんのわずか眉をひそめた。それは戸惑いの色であり、恐れでもあり、そして喜びにも似た名もなき感情だった。
「お前は全部……思い出したんだな」
呟くように発されたその声には、答えを求めるというよりも自分に言い聞かせるような響きがあった。
真夏は頷く。口には出さずとも、その眼差しが全てを語っていた。博嗣の肩から静かに力が抜けた。長い間背負い続けていたものが、ほんの少し下ろされたように見えた。
ふと博嗣が目を伏せた。風に揺れる長い髪が頬にかかる。その顔に、確かに濡れた光があった。一雫、頬を伝って落ちたものに真夏は目を奪われる。
「……もう、お前を失いたくない」
その声は震えていた。強く、長く生きてきた存在が、心の底から誰かを失うことを恐れている。その感情の重さを、真夏は体で受け止めた気がした。博嗣の瞳が、真夏の瞳を真っ直ぐに捉える。
「私は……あの時、お前を守れなかった。何度夢に見たかわからない。お前の血に染まった姿を、声を、名を呼ぶ瞬間を、何度も……」
その言葉に、真夏の胸の奥も軋むように痛んだ。だけど今は逃げない。もう1人にしない。だからこそ、真夏は小さく笑って静かに答えた。
「でも、今こうして、また会えた。だからもう悲しい夢は終わりです。これからは一緒に生きる夢を見ましょう」
博嗣が息をのむ。その目にまた光が差す。けれど、今度は希望の色だった。
静かに風が吹いた。森のざわめきが戻り、遠くて鳥の鳴く声がする。光が差し、葉が揺れる。止まっていた時間が、再び動き出した。重ねた手を、真夏はそっと両手で包み込んだ。
「夢じゃないですよ。これは、現実です」
「ああ、そうだな」
「俺はあなたと生きるために来ました。だから、これからはあなたも生きてください」
その言葉に、博嗣の目が大きく見開かれる。まるで長い夢から、ようやく覚めたような表情だった。そして、ゆっくりと深く頷いた。
「一緒に、生きよう」
博嗣がそう言った瞬間、風がふわりと2人の間をすり抜けた。沈香と丁子、龍脳の香りが再び立ち上る。光が差し込み、世界は満ちていった。
遠くで笛の音がひとすじ聞こえたような気がした。それはかつて交わした旋律。「もう一度出会えたら、その時は一緒に生きよう」そう願ったあの音だった。
この手をもう離さない。今度こそ終わらない|時間《とき》を生きて行く。心からそう信じられた。もう2度と離れない、そう心の中で誓った。
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