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第一章 1 ちうりっぷ商店街

第一章 1 ちうりっぷ商店街   街灯はどこまでも続いている。見晴るかす限りどこまでも。夜道は果てしがないのだった。  松橋礼司(まつはしれいじ)は行き暮れて足を止める。もはやどう行けばいいのか見当もつかない。自分はいつも道を見失い人生に迷っている。  泣きそうになるが、顔を上げて歩を進める。人生を持ち出すほど大した話ではない。単なる迷子である。  都内のアパートに引っ越して数日。まだこの辺の地理を把握していないのだ。というか住所さえうろ覚えである。天性の方向音痴だというのに。  まして今やスマートフォンが手元にないのだ。部屋に置いて来てしまった。  何故そんな大切な物を忘れたかと言えば、童貞を捨て損ねたからである。有体に言えば勃起しなかったのだ。  大学の教養課程、一年から二年までは新キャンパスという名のド田舎で暮らしていた。大学付属の男子寮住まいだった。  二年生になって同級生の彼女が出来ても女人禁制の男子寮に招くことなど出来ない。だからといって地元住まいの彼女の実家に、親の留守を狙ってヤリに行くなど恥ずかし過ぎる。  田舎ゆえラブホテル類は乱立していたが、礼司も彼女もそういった場所は好まなかった。従って交際一年を経てもキスやハグがせいぜいの清らかな関係なのだった。  専門課程の三年に進級してようやく都内のキャンパスに通うことになった。それに伴い学生課お勧めの不動産屋で民間アパートを借りたのだ。  二年生後期の期末テストが終わるなり友人の車を借りて引っ越しを済ませた。寮住まいだったから大した家具もなく布団袋や衣装ケースなどを車に積んで運べばおしまいだった。  そして机や棚など家具を買うのにつきあって欲しいとの名目で、とうとう彼女を部屋に招いたのだ。  ちなみに彼女も同じく進級するが実家住まいのままである。電車で二時間かけて通学するという。つまり礼司の部屋を訪れても帰るのに二時間かかるわけである。夜遅くまで引き留めるわけにはいかない。  土曜日の昼過ぎにやって来た彼女は、引っ越し祝いと言ってカーテンをプレゼントしてくれた。白いレースのカーテンと青い遮光カーテンを二人で窓にぶら下げた。  うふふと顔を見合わせて微笑んでキスなどしながら真新しいカーテンを閉めた。  そうして布団袋から出してある床を延べれば待ち焦がれたセックスに到るはずだった。  なのに礼司の男は立たなかった。勃起しなかったのだ。ようやく生身の女性と肌を接したというのに。自分一人の時ならば何度でも勃つのに。  空しく愛撫や口づけを繰り返し、 「……ごめん、何か……あれ? えっと……」  意味不明な言葉ばかりを発する礼司に、 「きっと引っ越しで疲れてるんだよ……無理させてごめんね」  彼女こそ申し訳なさそうに謝るのだった。  駅からアパートに来る前にファミリーレストランでお茶をした。帰りもそこで夕食をとるつもりだったのは、情交が成立した場合である。  処女と童貞のまま部屋を出て礼司は彼女をまっすぐ駅まで送って行った。明るい場所で二人顔を見合わせて食事を楽しむ気には到底なれなかった。  彼女の本音は知らないが地下鉄の階段を降りて行く際、 「また来るね。机やテーブルを揃えなきゃね。今日はゆっくり休んでね」  などと殊更に明るく言うのだった。  礼司は暗い地下への入り口に留まったまま彼女を改札口まで送ることもしなかった。ただ消えていく女の背中を見送っているだけだった。  踵を返してコンビニで弁当でも買って帰ろうと思ったのだ。その時になってスマホがないことに気がついた。もはや買い物どころではない。さっさと部屋に戻らなければ。  だがいくら歩いても曲がってみても、コンビニどころかアパートも現れる気配はなかった。冬の早い陽は落ちてとうにあたりは真っ暗になっている。その時点で礼司は自分がいる場所を完全に見失っていた。  人に尋ねようにも住所を覚えていないのだ。〝月光荘〟という名前だけは覚えている。明治時代のような名前だが令和に建てられたアパートである。実は〝がっこうそう〟が正しい読みらしいが、不動産屋も大家のおばさんも〝げっこうそう〟と呼んでいた。  月光荘があるのなら、どこかに日光荘もあるのかと思ったことは覚えているが、この際何の役にも立たない記憶である。  土曜日の夕刻ゆえに呑みに行くのか楽し気な人々の姿も見うけられるが、闇雲に「月光荘はどこですか?」などと尋ねられたものではない。二十にもなって迷子になったと明かすのも恥ずかしい。  松橋礼司の方向音痴はたぶん母親の遺伝である。初めての小学校の授業参観日に、まず家から小学校までの道で迷って辿り着いた校舎内で更に迷って授業が終わる頃に教室にやって来た母の武勇伝(?)は未だに家族や親戚の間で語り草になっている。  初の授業参観に待てど暮らせど母親が現われなかった息子の気持ちはともかく。  ちなみに父親から譲られたのは下戸である。酒を呑めば即座に具合が悪くなる。大学に入学直後、新入生全員がアルコールパッチテストを受けたがその時校医は、 「君にとって酒は猛毒だと覚えておきなさい。ビルから飛び降りたり電車に飛び込んだりしなくても、君は酒を呑むだけで死ねるから。いつでもすぐに自殺できるぞ」  などと不謹慎極まりない発言をしたものだった。  これでもう一つ何か負い目があれば見事な三重苦である。方向音痴、下戸、そして童貞……十八才成人を過ぎてまで童貞を保持しているなど三重苦の一つと言っても過言ではあるまい。  このまま街灯の続く道を歩くべきか。そこの暗い細道に入るべきか。回れ右して来た道を戻るべきなのか。  彼女の言葉ではないが、このところ引っ越し作業で疲れているのは事実である。もはや脚は棒のようになり顎を出してふらふら歩いていた。  アパートの近くに商店街がある。越して来て真っ先に覚えたのはその名前だった。 〝ちうりっぷ商店街〟である。〝ちゅうりっぷ商店街〟ではない。 ちうりっぷ商店街のコンビニエンスストアを曲がった先は住宅街で、小さな児童公園の横に〝月光荘〟がある。  それを思い出したのは天啓だった。〝月光荘〟とピンポイントで尋ねるよりはわかりやすいはずである。  精も根も尽き果ててとうとう礼司は道案内を乞うたのだ。暗い道の奥からやって来た通行人に、 「ち、ちうりっぷ商店街はどこですかっ⁉」  噛みつきそうな勢いで尋ねていた。  相手は一歩退いたが「逆だよ」と改めて先に進んだ。礼司が歩いていたのとは逆の方向である。  導かれるままに路地を右に左に曲がって気がつけば、そこはもう〝ちうりっぷ商店街〟なのだった。 「ほらここだよ」  通りに並ぶ街灯には〝うちりっぷ商店街〟と書かれたぼんぼりがぶら下がっている。  あっさり案内されて、礼司は口を半開きにして腰を抜かしそうになった。  こんな近くだったのか?  さっきから自分はぐるぐると一体どこを歩き回っていたのか?  呆然としている礼司を残して案内人は猫背で元来た道を戻って行った。 あわてて「ありがとうございました!」と叫んだ時には既にその姿はなかった。

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