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第一章 2 児童公園と日本庭園

2 児童公園と日本庭園  小さな児童公園を下に見ながらアパートの外階段を上がる。礼司の部屋は二階の外廊下を歩いて三番目の扉である。  ぐったりとうなだれて歩いていたから誰かにぶつかりそうになった。「すみません」と口の中で呟いて顔を上げて目を瞬いた。 「ああ、失礼」と言った男の顔から目が離せなかった。  外廊下の薄暗い蛍光灯に照らし出されたのはとてつもない美青年だった。ネクタイをぶら下げたありきたりなサラリーマンルックなのに、まるでモデルのように整った顔立ちなのである。  礼司の横をすり抜けて階段に向かう姿を目で追わずにはいられなかった。天然パーマなのかくるくる巻いた漆黒の髪が色白の肌や紅い唇に見事にマッチしていた。  礼司と大差ない身長だからモデルではないだろう。しかし俳優やアイドルなど人に見られる職業に違いない。男が階段の向こうに消えるまで、礼司の目はその姿に釘付けになっていた。  そして姿が消えた後は、その匂いを嗅がずにはいられなかった。何やら妙なる香りが残っていたのだ。洋風な香水ではない。和風なお香のような心落ち着く香りだった。  自分がくんくん鼻を鳴らしていることに気づいてきまり悪くドアの鍵を空けた。あの男が出て来たのはこの扉だった。  一瞬そう思って、いやそんなはずはないと首を横に振った。  あの美青年は階段を降りる足音もしなかった。そう気づいたのは、もっと後になってからである。  月光荘はその古臭い名前に似合わず、新建材で造られた三階建てのワンルームアパートである。各階に四部屋があり、礼司が借りているのは203号室である。  玄関ドアの外側をよく見れば、足元に足で蹴ったような窪みがある。 「修繕を頼んであるんだけど、忙しいらしくて……ごめんなさいねえ」  引っ越した時に大家のおばさんが申し訳なさそうに謝っていた。  部屋に入れば左手に小さな流し台と冷蔵庫置き場があり、右手にはトイレと風呂が別々の間取り。その先にある空間はやはりまだ買っていない洗濯機置き場である。  壁に沿って小さな兵隊のように並んでいるのはまだ開梱していない引っ越し荷物である。  猫の額の玄関に立てばそんな部屋の全容が見渡せてしまう。  遮光カーテンのせいで真っ暗な室内の明りを点ければ、寝乱れた布団が広げたままである。遂に性交渉が成り立たなかった若い男女が寝ていたのである。迷子から脱した喜びでほっとしていた礼司はたちまち激しい疲労感に襲われる。  わざと乱暴に靴を脱ぎ捨てると布団に倒れ込んだ。ごろりと寝返りを打って見上げれば遮光カーテンの隙間からぼんやりとした光が差し込んでいる。  腰高窓の遠くには尖った冬の月が浮かんでいた。迷子になっている時は空など見ている余裕もなかった。  アパートの窓からは大家の庭や屋敷が見渡せる。  いや庭と言うより日本庭園だろう。池や築山があり石灯籠やら庭石が並び松や楓の古木が植わっている本格的なものである。  季節ごとに植木職人がやって来ては手入れをするというのは、不動産屋の売り口上だった。 「賃貸でこんな借景めったにないよ。ここの大家さんは土地持ちだからアパート経営も趣味のようなものでね。家賃も他に比べるとかなり安いだろう?」  言われてみればそのとおりで難点と言えば、大学まで地下鉄と徒歩で三十分程かかることである。  けれど礼司は一目で気に入って契約した。ドアの下に少しばかり凹みがあるなど気にするまでもなかった。  枕の横にスマートフォンがあった。開いて見れば時刻は19:13である。夜七時過ぎ……思わず身を起こして、食い入るようにその文字を見つめてしまう。 確か彼女と部屋を出たのは夕方六時半頃だった。二人抱き合って事が成るべく努力しているうちに、 「そろそろ帰らなきゃ。遅くなっちゃう……」  彼女が呟いたのだ。今すぐここを出ても実家に着くのは夜八時過ぎになってしまう。あわてて部屋を出たからスマホを忘れて、そして迷子になった。 あれだけ見知らぬ街をさまよったのだ。もはや真夜中になっていると思えば、まだほんの七時過ぎなのだ。もっとも三十分以上も迷っていたと思えばそれも大したものだけれど。 〈今日はごめんね。明日またいっしょに冷蔵庫や洗濯機を買いに行こうね〉  彼女からのLINEメッセージは、おそらく地下鉄に乗ってすぐに発信したのだろう。  ようやく返したメッセージは、 〈ありがとう。明日は一人で片づけをするから大丈夫。また今度会おう〉  当分彼女とは会いたくない。それが正直な気持ちだった。  部屋はうすら寒いがエアコンを点ける気にもなれない。明りを消して掛布団を頭から被る。  布団からは妙に甘ったるい香りがする。女の香りだった。シャンプーなのか柔軟剤なのかはわからない。  花のような甘い匂いが染みついた布団カバーやシーツを引っぺがして丸洗いしたい。コインランドリーを探して行かなければ……などと苛々しているうちに眠りに落ちていた。  月が動いてカーテンの隙間から光が消えた闇の中。  お香のような心落ち着く芳香が色濃く漂ったような気がした。  カーテンの隙間から細長く光が差し込んでいた。夜が明けていた。小鳥の声も響いて来る。  礼司はまだ夢の中にいるような気分で、甲高いさえずりを聞いていた。 「おはよう」  ふいに外から声をかけられた。カーテンの隙間を見やれば晴れ上がった冬空を背景に一人の男が見える。漆黒の天然パーマがくるくる巻いた美青年が、こちらに向かって屈託のない笑顔を向けている。 「あ、おはよ……」  挨拶を返しかけて、思わず布団をはねのけてカーテンを開いた。  ここは二階なのだ。外に通行人がいるはずもない。  腰高窓のガラス戸を開けて身を乗り出して左右を覗うも、つい今さっき見たはずの美青年の姿はどこにもない。  戸惑って遠くに目をやれば、借景越しの大家宅でおばさんが雨戸を開けている。昔ながらの木造家屋だから、雨戸も今時珍しい木製である。古くて傷んでいるのか雨戸はキイキイがたがた音をたてている。きっとこの音を挨拶の声と聞き違えたのだろう。  フィギュアのように小さく見えるおばさんをぼんやり眺めているうちに礼司は妙に肌寒いことに気がついた。見下ろした自分の身体は一糸まとわぬ姿だった。パンツも履かないフリチンである。 「ええっ⁉」と声をあげるなりまたカーテンを閉ざして室内を見回した。いや、遮光カーテンを閉め切ると何も見えない。再び細い隙間を作って光を入れてよく見れば、布団の周囲に服が散乱している。寝ぼけて脱ぎ散らかしたのだろうか。  気づけば身体のあちこちに赤い痣のような物が出来ている。寝転がって服を脱いでいるうちに、どこかにぶつけたのだろうか。  慌てふためいて床に散らばっている服をかき集めているうちにもっと奇妙なことに気がつく。  シーツや敷布団がじっとり湿っている。いや、掛布団カバーにも濡れた染みがある。  寝小便でもしたのか?   夜尿症ではないけれど彼女と出来なかったストレスで夜中に漏らしてしまったのか?  正体不明な湿気の中にやがて見慣れた白濁を見つけていた。……精液。  いい年をして夢精をしたのか?   自分一人で裸になって?  確かに何やら色っぽい夢を見た気はする。よくよく考えれば、何度も身を震わせて射精した記憶がないでもない。  現実の女性相手に果たせなかった行為を夢の中で一人再現したのか。浅ましいにも程がある。  腹立ちまぎれに布団カバーやシーツを剥がし始めると耳元で、  「君が女と出来るはずがないよ。だってゲイだもの」  誰かの声が蘇る。  鼻先にお香のような静かな香りが漂ったような気がする。  真夜中に礼司は誰かと肌を合せたのではなかったか?  舌先がねろりと耳朶を舐め回し〝ゲイ〟という言葉を何度も耳に注ぎ込まれたように思う。 「君は完全なるゲイだよ。バイセクシャルでもない。女じゃ全然勃たないでしょう?」  そう言って礼司のものをすっかり包み込む掌は男のものである。 「僕の手の方がずっと気持ちいいでしょう? ほらね。身体はこんなに正直なのに」  細くも骨ばった男の指が逸物を力強く扱き上げる。女の妙に柔らかい手とはまるで異なる感触に礼司はたちまち射精に導かれた。  月が尖ったあの夜に礼司は見知らぬ男と抱き合って嬌声を上げたのではなかったか?  いや見知っている男である。迷子から帰還した時、廊下ですれ違ったあの美青年である。  月明かりに漆黒の巻き毛が光って見えた。赤い唇が礼司の耳元から口へと動き、優しくやがて濃厚な接吻を繰り返した。  妙に取り澄ました女のおちょぼ口ではない。猥らに吸い付く唇から礼司の口に押し入って来る舌はうっとりするほど力強くそして繊細だった。丁寧に歯列や口蓋を愛撫されて礼司は喘ぎながら夢中で舌を絡めていた。  何なら逸物は再びむくむくと頭を擡げ始めていた。 「君はちゃんと自分を認めてあげなきゃいけないよ。ねえ?」  舌を舐め合っているのに男の声ははっきりと礼司の頭の中に響くのだ。今や口元は溢れ出る唾液に濡れていやらしい音をたてている。その音は男が満足げにほくそ笑む声にも少し似ていた。  淫猥な唇や舌は礼司の口元を離れて肌に吸い付き赤い跡を残し、胸の突起をかりっと噛んで脳天に響く快感を与えてくれたのではなかったか?  何なら女よりずっと大きく奥深い口が礼司のものを根元まで咥え込み、舌で舐っては勃ち上がらせて、遂には放った白濁を飲み込んだのではなかったか?   逆に礼司も男のものをまるで自分であるかのように扱いた揚句、咥え込んだのではなかったか? 「そう、上手だね君。んんっ……あはン……男同士のがいいでしょう。どこが感じるかわかるし」  さすがに飲み込むのはためらったが、相手の白濁はシーツの上に撒き散らかされたのではなかったか?  そうして何度も頂点に達した礼司は、しまいには精液ではない透明な液を迸らせて、泣きながら悶えたのではなかったか? 「わかった? 君はゲイなんだよ。男女交際なんかしてる場合じゃないよ。身体が可哀想だよ。こんなにたまってるのにさ」  何度も礼司がイクたびに〝ゲイ〟を繰り返す美青年なのだった。  ぞっと全身が総毛立って剥がしたカバーやシーツに抱き着いた。鳥肌の立った肩口を見れば、明らかに人の歯形とわかる赤い跡が見て取れる。  思わず布類を放り出して風呂場に飛び込んだ。湯が温まるのも待たずにシャワーを浴びる。  冷たい湯を身体にかけては、赤い跡をごしごし擦って洗い流そうとするのだった。  

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