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エピローグ
エピローグ
予備校で講義をして、寄席通いをしているうちに礼司の中で少しずつ醸成されていくものがあった。
以前にも感じた口にするのも恥ずかしい希望、扇子の結界を越えることだった。客席ではなく高座に行ってみたい。
まだ誰にも言ったことのない謎の衝動を礼司は画廊で可音に打ち明けていた。
「弟子入りしようかな……?」
「はあ?」
隣のカフェの女店主(今回の個展の主催者でもある)がデミタスカップで淹れ立てのコーヒーを持って来てくれた。
立ってそれを飲みながら絵を眺めていたのだが、音丸の木炭画を眺めているうちについ礼司は言ってしまったのだ。
「弟子入りって……落語家の弟子入り⁉ 誰に? 何で?」
可音は食い付くように問いを重ねた。
「……それはこれから決めるけど」
「何をどう考えて⁉ 予備校講師と落語家は全然違うよ?」
「違うよ。違うけど……弁護士よりは全然ましだし」
「その比較もっとわかんない」
礼司は実家が弁護士の家系だと伝えて、だから落語家になりたいと説明したのだが、それは我ながら何の説明にもなっていなかった。
春には四年生に進級する。来年度はただ入門すべき師匠を決めるために寄席に通う。前座になれば収入はなくなるからアルバイトに専念して貯金を溜める。
そんな一年を過ごして来年春には誰かに弟子入りする。
そういう計画が特に決めてもいないのに頭の隅に組み立てられているのだった。
そう、まるで自分の預かり知らぬ場所に中園龍平の妖 が棲み付いていたように、今の礼司の頭の隅には落語家志望が住み込んでいる。
多分そこは四畳半一間で、あのポスターの絵にあるような貧乏臭い無精ひげが落語をさらっているに違いない。
ここまではっきり自分の未来が見えたのは初めてのことだった。
たどたどしいそんな説明を聞いて可音は、
「いいのかもね。何がどこに行くか知れないけど。入り口が見えたらその先の行くべき道も見えて来る。最近そう思うんだ」
にやりと笑ったのだった。
夕暮れだった。逢魔が刻とも言う。
初めて来た吉祥寺の街はどこも道がまっすぐで迷う余地などないと思っていた。
なのにカフェの画廊を出て少し歩いた時点で礼司は見事に迷子になっていた。
来る時には見かけなかった小さな書店に貼ってあるポスターを見てしまったのだ。
ポスターには片手で杖をついた男着物の女性が笑っていた。頬には誇らしげなえくぼが浮かんでいる。
〝バリアフリー落語会 柏家たっぱ勉強会
杖の前座があなたの街に落語を届けに参ります!!〟
礼司はかなり長いことその前に立っていたらしい。店の中から毛糸の帽子を被った老人が、
「どうしました?」
と出て来る程だった。
「六月にこの商店街のフリースペースでやるんですよ。よかったら来てください」
「そ、そうですね。きっと行きます」
頷いて礼司は必ずこの落語会に行くよう心に留めた。
だが親切な書店主が会場への道順を懇切丁寧に説明するのが迷子の決定打になった。
それまで頭に留めていた駅までの道順が完全に混乱していた。
その書店を離れてから行ったり来たりしてしまいには住宅街にまで迷い込んでいた。
「吉祥寺駅はどこですか?」
何度尋ねたかわからない。
茜色だった空は気づけばとうに明りの残る濃紺も消え、真っ暗な闇になっている。
隘路に橙色の街灯がどこまでもまっすぐ連なっている。見晴るかす限りどこまでも。夜道は果てしがないのだった。
松橋礼司は行き暮れて足を止める。もはやどう行けばいいのか見当もつかない。自分はいつも道を見失い人生に迷っている。
いや人生を持ち出すほど大した話ではない。単なる迷子である。
「すみません。吉祥寺駅はどっちですか?」
マイバッグに葱を差した主婦にまた声をかける。案内の声を食い入るように聞いて「ありがとうございます」とまた歩き始める。
ふと路地の先に交差しているアーケード街に痩身の人影を見る。煌びやかなネオンのせいか、その人物は黒い服を纏っているようにも見える。
いや、ひょっとしたら五分刈り頭で掌でじょりじょりと頭を撫でているのかも知れない。
思わず足を早めてアーケード街に駆け込んだ途端に、やって来た自転車にけたたましくベルを鳴らされた。
慌てて立ち止まり、辺りを見回すが黒服の人影はどこにも見えない。
礼司は肩を落として、人波が向う方向に歩き始めた。
そして唐突に回れ右した。
にわかに閃いたのである。これは駅で電車を降りた人々が自宅に帰る波である。自分はこの波とは逆方向に歩くべきである。
人の群れに逆行してひたすら歩けば、確かにあの葱差しマイバッグの主婦が言ったように駅が見えて来る。
入り口が見えれば先は見えるのだ。
そうとも。自分にはもう行くべき道がわかっている。
一人で行くのだ。人波に逆行するとしても。泣いたりしないで歩いて行く。
何故だか背後で黒服の五分刈り男が黙って見守っている気がする。
もちろんただの気のせいである。
そう思っても心強さに変わりはなかった。
松橋礼司は駅へ向かう道をゆっくりと歩いて行く。
〈了〉
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