1 / 15
第1話
切り立った島の崖肌を掘り抜いて、そびえ立つその城の名を、知る者はいない。
星も月もない夜には、存在さえ消して、ひそやかに闇に溶ける。
絶海の孤島の、黒き城。
その主人の名も、誰も知らない。
深海のごとく静かに、禍々しさをまとったその城は、島と一つになって、長く海原を見下ろしてきた。
船から見上げる旅人は、近づくことを恐れ、ただ、闇の城とだけ、呼んだ。
城郭の西の端。孤立した尖塔が一つ、崖に半ば埋もれ、絶壁に張り付くようにそこにあった。
岩の割れ目から湧き出る水が尖塔の屋根を伝い、中を流れて海へと垂れ落ちた。
塔には、分厚い鉄の扉が一つ。だが、そこへと続く道はない。城の本館からの跳ね橋がかけられた時にだけ、道ができる。
崖の表面に据え付けられた、孤立した空間。
その塔は、牢なのだと、誰もが噂した。
それは事実であった。
城主の意に背いた者が、ただ死ぬときを待つための場所。
闇の牢獄。
黒い石で築かれたそれは、いつしかそう、呼ばれるようになった。
夕暮れの太陽が震えるように光を波立たせ、海も淡い橙色に染まって岸壁に砕ける時刻。
今日もまた、吊り橋が動く合図の鐘が響いた。
楔が抜かれ、軋んだ滑車が長く細い橋を、尖塔の台座に下ろした。
牢獄が、世界とつながる唯一の道。
二人の兵士が、一人の青年を引きずって、橋を歩んだ。
青年の首には黒い鋼鉄の首輪があった。輪には二本の鎖がつけられ、両肩の上に垂れていた。
尖塔の鉄扉が、ゆっくりと細く開く。
蝶番が擦れて軋む耳障りな音は、まるで生き物の呻きのように塔を震わせた。
牢獄の中に差し込む、外の光。
隅に座り込んでいた男が、開く扉を、目を細めて見つめた。
ここから逃げ出すための、ただ一つの道が開かれている。
だが、男は動かない。希望のない眼差しを向けただけだ。
すべてに憔悴して諦めた表情が浮かぶ。
軽装甲冑の兵士が、連れてきた青年を前に押し出した。
青年の首にかけられた、鉄の輪。
その姿を見るや、男の目が光を帯びた。
飢えた寒空に、獲物を見つけた獣の目。
黒く、らんと輝く。形相が一変した。
兵士は、朦朧とした青年を、中へ放り出した。
青年の体は、背中から石床に叩きつけられた。
衝撃で肺がひゅっと縮み、喉が焼けるような息苦しさに襲われる。
冷たく硬い感触が背骨を震わせ、腕や脚に散った鈍い痛みが遅れて脳に届いた。
吐き出すはずの息が喉で詰まり、浅い咳が小さく漏れる。
二人の兵士が、示し合わせて動いた。
一人は、男の左手首に鉄枷をはめた。枷には身の丈ほどの鎖が繋がれている。もう一人が、鎖のはじを青年の首に引き寄せる。その首の短い鎖と男のそれを、わずかに隙間の空いた一つの鉄の輪ですくいとる。床の上で槌を振るう。
石の部屋に、耳を弄するほどの甲高い音が響く。
輪の隙間を打ち据えて、二本の鎖は完全につながれた。
その様子を、微動だにせず、男はじっと見つめていた。
男の左手と、青年の首とが、一本の鎖で結ばれた。
それが済むと、兵士は部屋を出て、外から閂を下ろした。
兵士たちの足音が、木の跳ね橋を遠ざかっていく。やがて、鐘が鳴り、橋が巻き上げらえる振動が岩壁を通して伝わってきた。
いっときの喧騒が過ぎると、場が再び、静まり返る。
天井から壁を伝う水音だけが、時を刻む。
男は、新しく体に結ばれた枷を持ち上げ、眺めた。鎖は思った以上に重たかった。
太く、強固な鉄の輪。
その先には、獲物が一匹。
青年・ユネは、止まりかけていた呼吸を、浅く取り戻した。苔と鉄錆が混じったような匂いが、息と共に肺の奥まで入り込む。
空気は重く湿り気を含み、まるで水底にいるようだ。
息を吸うたび胸が締め付けられ、苦しさに浅く断続的な呼吸を繰り返すしかなかった。
肺の奥がぎしりと軋む感覚に、神経が逆撫でされる。
首元に硬い鉄輪が食い込む。
肌にじわりと触れ、呼吸のたび微かに擦れた。
擦過傷から滲むかすかな痛みが、現実味を増幅させる。
その輪から伸びる鎖が石床を這い、カチャリと乾いた音を立てた。
小さなその音は、この閉ざされた牢の中で異様に大きく、ユネの耳の中で反響した。
(……ここはどこだ?)
視界の端で、ぼんやりと灰色の影が揺れている。
瞳が徐々に暗闇に慣れると、四方を囲む石壁が浮かび上がった。
冷たい壁には苔がこびりつき、ところどころから水がじわりと滲み出している。
高い天井のどこかから、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる音が聞こえた。
規則正しいようで不規則なその音が、時間の感覚を曖昧にし、ユネの思考に薄い膜をかける。
(くそ……牢獄か。あのジジイ……)
心ひそかに悪態を吐く。
城の主人は、ユネに言った。
『賭けをしよう。お前が勝てば、この城のすべてをくれてやる』
馬鹿げた話だった。
主人がどれほど歪んだ加虐趣味の変人であるか、城の者ならば誰もが知っていた。
それでも、ユネには断ることができない事情があった。
『賭けるか、その場で殺されるか』
その二択だけが、ユネに与えられた選択だった。
(ふざけやがって…… 絶対に、生きて戻る)
ユネは、痛みとは別の苦悶に顔を歪めた。
(次の満月の夜まで、生き残ればいい。それだけで、俺の勝ちだ)
ユネは、深く息を整え、改めて自分の置かれた状況を見た。
指先が無意識に石床を探る。柔らかく、傷つきやすい指。
ピアノ、ヴァイオリン、フルート。
英才教育の元に、仕込まれてきた。
だが、その繊細な感覚は、このざらついた岩肌を余計に荒々しく捉えた。
(怪我なんかしたくない)
あまりに素直な感想だった。
湿り気を帯びた石の面が、皮膚にまとわりつく。
爪の間に入り込む水の感触が、ここが『人のいる場所ではない』と告げていた。
不衛生で、自分には似合わない。
全身がじっとりと冷たい汗に覆われ、繰り返される呼吸が喉の奥を震わせた。
ユネは両手を支えに、上体を持ち上げた。その腕の弱さに、心が締め付けられた。
首が、重たかった。
鉄の輪のためだけではない。
体に、力が入らない。悪寒があった。
何をされたか、記憶がなかった。
明るい部屋で、誰かと一緒だった気がする。
きっとあれは、城主だ。
見目の良かった自分は、誰より可愛がられた。
数多い異母兄弟の中でも、ひときわ、贔屓されてきた。
ねたまれようと、ユネは屈しなかった。
二十歳を迎え、誰もが課される、継承の試練。
『闇の塔で、十五日生きる』
ただ、それだけのことだ。
だが、ユネが知る限り、そこから無事に戻った者はいなかった。
それは、ユネにとっての幸運。
一人先に挑戦した異母兄が、廃人同然で屋敷に戻された時、ユネは悲しみの仮面を被り、そして、笑っていた。
(先を越されてなるものか)
此度、自分の番が訪れ、主人のーー父の部屋に呼ばれた。
十五日間、無事に生き延び、帰還したなら、家督を約束する。
そんなやり取り。執事が、誓約書を認め、それは屋敷に張り出された。
誰もが、証人だ。
一杯の、景気付けの酒。
その赤いワインには、たっぷりと薬が盛られていることを、ユネは知っていた。
逃げはしない。
(僕は、必ず、成し遂げてやる)
一気に酒をあおった。
その後から、ぷつりとすべてが消えていた。
夢であるのは、今か、あの部屋か。
いや、どちらも現実だ。
のろのろと這って、壁に手をつき、震える膝でかろうじて立つ。
岩の隙間が細くあいて、窓を作っている。
そこから差し込む夕焼けの光が、細い筋となって床に落ちている。
外の景色がわずかに覗けた。
眼下に広がる海原、遠くにぼんやりと陸と街灯り。
窓は顔半分の幅しかない。開いているのに、閉ざされる。外界が見えることが余計に閉塞感を煽った。
冬の冷たい風が僅かに入り込み、石牢の空気をさらに冷え込ませている。
ユネは細い腕をその隙間に入れた。
ひらひらと、白い雪が舞い落ち、手のひらに溶けた。
(十五日で終わる)
月は見えないが、ユネは一つ、数を数えた。
鎖が微かに揺れ、首輪に繋がる金属がひやりと喉元を撫でる。
全身が再び強張り、ユネは息を呑んだ。
貫頭衣一枚、裸足だった。
たとえ、逃げ出そうとしても、この姿では凍え死ぬしかない。
ずるずると、床に沈み込んだ。
途端に、震えが身を包む。
足が、いつしか冷え切っていた。
今朝、舞い散った初雪を、綺麗だと眺めた自分を思い出した。
ただ、美しいだけだった雪。
それは今、自分を凍えさせる刃となった。
何か、身を温めるものはないのか。
せめて、布切れ一枚でも。
ユネは弱々しい光を頼りに、牢の暗がりを見回した。
と、自分は動かないのに、鎖の揺れる音がした。
ユネの喉がひくりと上下する。
口の中に広がるのは金属の味。
乾いた唇を噛み切ったのか、それとも何か別の血の香りが漂っているのか、自分でも分からなかった。
音のした方を、静かに振り返る。
気配もなく、男のシルエットがすぐそばでこちらを見上げていた。
生きた男が、そこにいるという事実。
この城の城主は、誰よりも非情であった。
怒りを買えば、何者であろうと、鶏の首をはねるより簡単に始末する。
(こいつ、なぜ、ここにいる?)
男がいることよりも、生かされていることが不思議でならない。
自分と同じ、主人の落胤とは思われなかった。
だとしたら、誰だ?
(もしかしたら……)
ユネは、傷ついて帰還した兄たちを思った。
それぞれに程度は違えど、体には無数の傷があり、顔も無様に歪んでいた。
何より、皆、笑っていた。
まるで、心が壊れた人形だった。
(半月の間、牢に閉じ込められただけで、あんなになるとは思われない)
そんな息子たちを見下ろし、主人はほくそ笑んだ。そして首を振り、始末しろ、と命じた。
ユネは、男を見下ろした。
もしかすると、自分に課せられたのは、単純に生き延びることではないのではないか?
この男は、兄たちにしたように、自分を殴り、生死の境に追いやるのやも……
(僕は……ここで、何をされる……)
主人が、易々と突破させないことは、兄たちの凄惨な末路が証明している。
(生き残るために、どうしたらいい?)
こちらに気づくのを待っていたように、石壁に背を預ける影が動いた。
じゃり。じゃり。
床を伝わってくる小刻みな振動。
影は、左手首に繋がる鎖をゆっくりとたぐり寄せている。
突然、ぐっ、と首が引かれ、体が前にのめる。
「うっ!」
ともだちにシェアしよう!

