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第1話

 切り立った島の崖肌を掘り抜いて、そびえ立つその城の名を、知る者はいない。  星も月もない夜には、存在さえ消して、ひそやかに闇に溶ける。  絶海の孤島の、黒き城。  その主人の名も、誰も知らない。  深海のごとく静かに、禍々しさをまとったその城は、島と一つになって、長く海原を見下ろしてきた。  船から見上げる旅人は、近づくことを恐れ、ただ、闇の城とだけ、呼んだ。  城郭の西の端。孤立した尖塔が一つ、崖に半ば埋もれ、絶壁に張り付くようにそこにあった。  岩の割れ目から湧き出る水が尖塔の屋根を伝い、中を流れて海へと垂れ落ちた。  塔には、分厚い鉄の扉が一つ。だが、そこへと続く道はない。城の本館からの跳ね橋がかけられた時にだけ、道ができる。  崖の表面に据え付けられた、孤立した空間。  その塔は、牢なのだと、誰もが噂した。  それは事実であった。  城主の意に背いた者が、ただ死ぬときを待つための場所。  闇の牢獄。  黒い石で築かれたそれは、いつしかそう、呼ばれるようになった。  夕暮れの太陽が震えるように光を波立たせ、海も淡い橙色に染まって岸壁に砕ける時刻。  今日もまた、吊り橋が動く合図の鐘が響いた。  楔が抜かれ、軋んだ滑車が長く細い橋を、尖塔の台座に下ろした。  牢獄が、世界とつながる唯一の道。  二人の兵士が、一人の青年を引きずって、橋を歩んだ。  青年の首には黒い鋼鉄の首輪があった。輪には二本の鎖がつけられ、両肩の上に垂れていた。  尖塔の鉄扉が、ゆっくりと細く開く。  蝶番が擦れて軋む耳障りな音は、まるで生き物の呻きのように塔を震わせた。  牢獄の中に差し込む、外の光。  隅に座り込んでいた男が、開く扉を、目を細めて見つめた。  ここから逃げ出すための、ただ一つの道が開かれている。  だが、男は動かない。希望のない眼差しを向けただけだ。  すべてに憔悴して諦めた表情が浮かぶ。  軽装甲冑の兵士が、連れてきた青年を前に押し出した。  青年の首にかけられた、鉄の輪。  その姿を見るや、男の目が光を帯びた。  飢えた寒空に、獲物を見つけた獣の目。  黒く、らんと輝く。形相が一変した。  兵士は、朦朧とした青年を、中へ放り出した。  青年の体は、背中から石床に叩きつけられた。  衝撃で肺がひゅっと縮み、喉が焼けるような息苦しさに襲われる。  冷たく硬い感触が背骨を震わせ、腕や脚に散った鈍い痛みが遅れて脳に届いた。  吐き出すはずの息が喉で詰まり、浅い咳が小さく漏れる。  二人の兵士が、示し合わせて動いた。  一人は、男の左手首に鉄枷をはめた。枷には身の丈ほどの鎖が繋がれている。もう一人が、鎖のはじを青年の首に引き寄せる。その首の短い鎖と男のそれを、わずかに隙間の空いた一つの鉄の輪ですくいとる。床の上で槌を振るう。  石の部屋に、耳を弄するほどの甲高い音が響く。  輪の隙間を打ち据えて、二本の鎖は完全につながれた。  その様子を、微動だにせず、男はじっと見つめていた。  男の左手と、青年の首とが、一本の鎖で結ばれた。  それが済むと、兵士は部屋を出て、外から閂を下ろした。  兵士たちの足音が、木の跳ね橋を遠ざかっていく。やがて、鐘が鳴り、橋が巻き上げらえる振動が岩壁を通して伝わってきた。  いっときの喧騒が過ぎると、場が再び、静まり返る。  天井から壁を伝う水音だけが、時を刻む。  男は、新しく体に結ばれた枷を持ち上げ、眺めた。鎖は思った以上に重たかった。  太く、強固な鉄の輪。  その先には、獲物が一匹。  青年・ユネは、止まりかけていた呼吸を、浅く取り戻した。苔と鉄錆が混じったような匂いが、息と共に肺の奥まで入り込む。  空気は重く湿り気を含み、まるで水底にいるようだ。  息を吸うたび胸が締め付けられ、苦しさに浅く断続的な呼吸を繰り返すしかなかった。  肺の奥がぎしりと軋む感覚に、神経が逆撫でされる。  首元に硬い鉄輪が食い込む。  肌にじわりと触れ、呼吸のたび微かに擦れた。  擦過傷から滲むかすかな痛みが、現実味を増幅させる。  その輪から伸びる鎖が石床を這い、カチャリと乾いた音を立てた。  小さなその音は、この閉ざされた牢の中で異様に大きく、ユネの耳の中で反響した。 (……ここはどこだ?)  視界の端で、ぼんやりと灰色の影が揺れている。  瞳が徐々に暗闇に慣れると、四方を囲む石壁が浮かび上がった。  冷たい壁には苔がこびりつき、ところどころから水がじわりと滲み出している。  高い天井のどこかから、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる音が聞こえた。  規則正しいようで不規則なその音が、時間の感覚を曖昧にし、ユネの思考に薄い膜をかける。 (くそ……牢獄か。あのジジイ……)  心ひそかに悪態を吐く。  城の主人は、ユネに言った。 『賭けをしよう。お前が勝てば、この城のすべてをくれてやる』  馬鹿げた話だった。  主人がどれほど歪んだ加虐趣味の変人であるか、城の者ならば誰もが知っていた。  それでも、ユネには断ることができない事情があった。 『賭けるか、その場で殺されるか』  その二択だけが、ユネに与えられた選択だった。 (ふざけやがって…… 絶対に、生きて戻る)  ユネは、痛みとは別の苦悶に顔を歪めた。 (次の満月の夜まで、生き残ればいい。それだけで、俺の勝ちだ)  ユネは、深く息を整え、改めて自分の置かれた状況を見た。  指先が無意識に石床を探る。柔らかく、傷つきやすい指。  ピアノ、ヴァイオリン、フルート。  英才教育の元に、仕込まれてきた。  だが、その繊細な感覚は、このざらついた岩肌を余計に荒々しく捉えた。 (怪我なんかしたくない)  あまりに素直な感想だった。  湿り気を帯びた石の面が、皮膚にまとわりつく。  爪の間に入り込む水の感触が、ここが『人のいる場所ではない』と告げていた。  不衛生で、自分には似合わない。  全身がじっとりと冷たい汗に覆われ、繰り返される呼吸が喉の奥を震わせた。  ユネは両手を支えに、上体を持ち上げた。その腕の弱さに、心が締め付けられた。  首が、重たかった。  鉄の輪のためだけではない。  体に、力が入らない。悪寒があった。  何をされたか、記憶がなかった。  明るい部屋で、誰かと一緒だった気がする。  きっとあれは、城主だ。  見目の良かった自分は、誰より可愛がられた。  数多い異母兄弟の中でも、ひときわ、贔屓されてきた。  ねたまれようと、ユネは屈しなかった。  二十歳を迎え、誰もが課される、継承の試練。 『闇の塔で、十五日生きる』  ただ、それだけのことだ。  だが、ユネが知る限り、そこから無事に戻った者はいなかった。  それは、ユネにとっての幸運。  一人先に挑戦した異母兄が、廃人同然で屋敷に戻された時、ユネは悲しみの仮面を被り、そして、笑っていた。 (先を越されてなるものか)  此度、自分の番が訪れ、主人のーー父の部屋に呼ばれた。  十五日間、無事に生き延び、帰還したなら、家督を約束する。  そんなやり取り。執事が、誓約書を認め、それは屋敷に張り出された。  誰もが、証人だ。  一杯の、景気付けの酒。  その赤いワインには、たっぷりと薬が盛られていることを、ユネは知っていた。  逃げはしない。 (僕は、必ず、成し遂げてやる)  一気に酒をあおった。  その後から、ぷつりとすべてが消えていた。  夢であるのは、今か、あの部屋か。    いや、どちらも現実だ。  のろのろと這って、壁に手をつき、震える膝でかろうじて立つ。  岩の隙間が細くあいて、窓を作っている。  そこから差し込む夕焼けの光が、細い筋となって床に落ちている。  外の景色がわずかに覗けた。  眼下に広がる海原、遠くにぼんやりと陸と街灯り。  窓は顔半分の幅しかない。開いているのに、閉ざされる。外界が見えることが余計に閉塞感を煽った。  冬の冷たい風が僅かに入り込み、石牢の空気をさらに冷え込ませている。    ユネは細い腕をその隙間に入れた。  ひらひらと、白い雪が舞い落ち、手のひらに溶けた。 (十五日で終わる)    月は見えないが、ユネは一つ、数を数えた。  鎖が微かに揺れ、首輪に繋がる金属がひやりと喉元を撫でる。  全身が再び強張り、ユネは息を呑んだ。  貫頭衣一枚、裸足だった。  たとえ、逃げ出そうとしても、この姿では凍え死ぬしかない。  ずるずると、床に沈み込んだ。  途端に、震えが身を包む。  足が、いつしか冷え切っていた。  今朝、舞い散った初雪を、綺麗だと眺めた自分を思い出した。  ただ、美しいだけだった雪。  それは今、自分を凍えさせる刃となった。  何か、身を温めるものはないのか。  せめて、布切れ一枚でも。  ユネは弱々しい光を頼りに、牢の暗がりを見回した。  と、自分は動かないのに、鎖の揺れる音がした。  ユネの喉がひくりと上下する。  口の中に広がるのは金属の味。  乾いた唇を噛み切ったのか、それとも何か別の血の香りが漂っているのか、自分でも分からなかった。  音のした方を、静かに振り返る。  気配もなく、男のシルエットがすぐそばでこちらを見上げていた。  生きた男が、そこにいるという事実。  この城の城主は、誰よりも非情であった。  怒りを買えば、何者であろうと、鶏の首をはねるより簡単に始末する。 (こいつ、なぜ、ここにいる?)  男がいることよりも、生かされていることが不思議でならない。  自分と同じ、主人の落胤とは思われなかった。  だとしたら、誰だ? (もしかしたら……)  ユネは、傷ついて帰還した兄たちを思った。  それぞれに程度は違えど、体には無数の傷があり、顔も無様に歪んでいた。  何より、皆、笑っていた。  まるで、心が壊れた人形だった。 (半月の間、牢に閉じ込められただけで、あんなになるとは思われない)  そんな息子たちを見下ろし、主人はほくそ笑んだ。そして首を振り、始末しろ、と命じた。  ユネは、男を見下ろした。  もしかすると、自分に課せられたのは、単純に生き延びることではないのではないか?  この男は、兄たちにしたように、自分を殴り、生死の境に追いやるのやも…… (僕は……ここで、何をされる……)  主人が、易々と突破させないことは、兄たちの凄惨な末路が証明している。 (生き残るために、どうしたらいい?)  こちらに気づくのを待っていたように、石壁に背を預ける影が動いた。  じゃり。じゃり。  床を伝わってくる小刻みな振動。  影は、左手首に繋がる鎖をゆっくりとたぐり寄せている。  突然、ぐっ、と首が引かれ、体が前にのめる。 「うっ!」

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