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第2話

 恐る恐る手を首元に持って行く。首輪の鎖が張って、影のほうへと繋がっていた。  ゾッとした。まるで、繋がれた家畜。  かすれた息が月光に白く浮かび、ユネは心臓が喉元にせり上がる恐怖を覚えた。  ググッ!  さらに強く、鎖が引かれた。  前に傾いた身体が、軽々と引きずられた。首の後ろに体重がかかり、頚椎がきしむ。 (抵抗したら、死ぬ!)  本能的に、首への負担を恐れて、ユネは四つん這いで影に近づいた。  わずかに、鎖が緩んだ。  床に這いつくばった自分を、強烈に恥じる。  しかし、背中を舐めた死の恐怖が勝る。  これは、脅しなんかじゃない。  ユネは影の男を見た。 (逆らっちゃ……だめだ……)  正体の知れない人影は恐ろしかった。  冷たい石の上を這い、首輪の締め付けが喉を圧しないように、屈辱に耐えて従順に進む。  少しずつ、輪郭がはっきりしてくる。    人影は、男らしかった。  壁にもたれて座っている。  肩幅が広い。片方だけ立てた膝から下が、すらりと長い。  その左手が、ユネの首と繋がっていた。  鎖はユネの身長よりわずかに長い程度で、あっという間に距離が縮まる。 “……怖がるな”  すぐそばで、カサついた音がした。  かろうじて聞き取れるかすかな声。  声というより、高低を帯びた呼吸音に近い。  ひどく荒れていて、肺の奥から搾り出すような音だった。  ユネはそれを頼りに、視線を男の喉元へ向けた。  薄暗い中にも、はっきりとわかる、傷。  無惨な痕が走っていた。  幾筋もの線が喉を横切り、皮膚の上からもその深さが見て取れる。  声を発する器官が徹底的に破壊されたことは明白だった。 (……主人に……か?)  喉の破壊は、ともすれば命をも奪う。  男の傷跡は、それすら厭わずにつけられたものだと見て取れた。 (ここまでされるとは……どんな罪を?)  ユネは、男が受けた罰の壮絶さを想像して、身震いした。  それでもなお、男は生きながらえている。  体の傷の激しさに耐えた心は、どれほどの痛手を負ったのか。  いつしか、ユネは、男を恐れる気持ちが薄れていた。  体格はユネと比べるべくもなく、逞しい。  しかし、どこか雰囲気が弱い。  威圧すれば、抑えられる。  ユネの目が、力を帯びた。 (舐められて、たまるか)  頭の奥に、またあの声が反芻する。 『生き延びれば、お前は自由だ』  この声は約束だ。  ユネには、生きる希望が、ここから抜け出す希望が、確かに与えられていた。  ただし、一つだけ、条件があった。  決して誰かに知られてはならない。それが破られれば、この約束も反故となる。  たった一つの、生きる希望。  それを、胸深くに沈める。  この男も、同じなのだろうか。  数日の、もしくはもっと長くの束縛と引き換えに、自由を手にすることが約束されている?  ユネはいつしか、暗がりの中で、男の顔を見つめていた。  影になったその顔は、近かった。    ユネの目に、嫌悪が浮かぶ。  身を委ねることは好まない。  だが、首の鎖は無情だった。  ユネの意思とは関係なく、男との間が詰まる。  息を潜め、ささやかに抵抗する。  男の腕がユネの腰を掴む。  それは、大きく太く、長い指。  脇腹を包み込むように、易々と握る。  冷たく硬い指が、男の気分一つで、ユネの体を自由にできると言わんばかりに食い込んだ。 (こいつっ!)  睨みつけるが、暗がりでは意味がない。  抵抗する間もなく、膝の上に引き寄せられる。  男の片腿にまたがるように座らされた。もう一方の脚で背中を押さえ込まれた。  屈辱的な体勢に、ユネは眉を寄せた。  押し付けられた男の逞しい腿が、ユネの体の、敏感に弱いところに当てられていた。  太腿が、脚の間を圧迫し、わずかに揺すられる。  ピクリ、とユネの目が揺れる。  意図的なのか、それとも偶然か。   (ふざけるな……)  あからさまな抵抗はしない。しかし、動じたそぶりも見せない。  ユネは呼吸を深く、体の震えを押し込めた。  密着する体から、冷えた体温が伝わって来る。  かすかに息がかかる。  雲が切れ、細い窓から白い月明かりが差し込んだ。  その光の帯は、ちょうど、男の左顔面を照らし出した。  薄く日焼けした肌の中に、黒い瞳が精悍に輝いていた。  整った目鼻と、引き結ばれた唇。  まばらに無精髭が生え、それが数日のものであることを想像させた。  しなやかな黒髪が、腰に届くほどに長い。  頬に垂れた横髪が輪郭を細く切り取り、男の鋭い気配を助長する。  ユネの呼吸が、一層、浅くなる。  男は美しかった。  それは女性的なものではなく、男性として、鋭さと、誠実さ、そしてどことない優しさまでが浮かんだ顔だ。  だが、油断は許されない。この男は、自分を試すための敵かもしれないのだ。警戒心が高まった。 “静かに”  例の、掠れた囁きが耳元に落ちる。  それは命令ではなかった。  子をあやすような、微かな慰めだった。  表情の鋭利さに比べ、声はわずかに儚い。  だがそれは、壊された息のせいだ。 (こいつ……なんだ?)  味方であろうはずがなかった。  ここで生き残ることは、自分に課せられた罰である。容易な相手が待ち受けているとは考えられない。  ユネの背にひんやりとした腕が回される。  体は反射的に強張り、喉の奥で浅い息がひゅうひゅうと音を立てた。  しかし次の瞬間、腕の力は驚くほど穏やかに絡み、ユネの体を無理やり押さえつけることはなかった。  むしろ、その確かな指先は、壊れ物を扱うように優しく背を撫でていた。 “……静かに”  耳の中へ、掠れた声が忍び込む。  その音はひどく弱く、呼吸とほとんど変わらない。  不思議と、命令よりも慰めに近い響きがあった。  ユネの体は、いつしかこわばっていた。  屈辱と焦燥。  その身に、勝手に触れられることは好まない。  肌がざわつき、嫌悪が溢れる。  とはいえ、鎖の呪縛は重たかった。命を握られている現実は、ユネを慎重に、我慢強くさせた。  息を密やかに、表情から感情を消して、淡々と伺う。 (侮られてなるものか)  ユネには譲れない矜持があった。  主人の側近くにあり、期待をかけられてきた者として。  誰が見るではないとしても、己が己の無様には堪え難かった。  だが、そのことは、目の前の男には関係ない。  自らの所有物のようにユネに触れ、距離をゼロにする。  すでに、意図的だと分かるほど、足を扇動的に擦り付け、ユネの反応を見る。  ユネも、負けなかった。  男の肩を無遠慮にわし摑み、指先を突き刺す。  それは威嚇であると同時に、沸き起こる快感を押さえつけるためでもある。  単調な摩擦は、さほどの脅威にはならない。  だが、知らぬ者を相手に、この暗くしめった牢の中で二人きり。  貫頭衣一枚で、露出した場所を直接責められる。一方的に。  この行為自体が、背徳感を強めた。  普段なら平生で乗り切れるものが、沸き起こる痛みにすら似た快感に震え始める。 (負けるものか)  ユネは意地を張った。  高まるにつれ、指に力を込める。  それは訴えるよりも、傷つける目的だった。  表情は変えない。  じっと、強張らせたまま、動かない。  そうしている間にも、男の動きは止まることがなかった。  肩から背骨へと伝わる男の指先の動きは、ひたすらゆるやかだった。  ユネの呼吸は、少しずつ、乱れに堪え難くなっていく。  膝の上に乗せられている身体の揺らぎ。  布越しに伝わる体温が、ユネのこわばった神経をじわじわと溶かしていった。 (ゲスが……僕をなぶる気か?)  怒りが浮かぶが、それを問いただす勇気はなかった。  鎖が微かに揺れ、首元の鉄輪が喉に擦れるたび、背筋を冷たい痛みが走る。  首輪の内面はヤスリのようで、触れるだけで肌を傷つけた。  男に抱きすくめられ、しかし、強くはない束縛。  膝の上で、ただ、からかわれるように試される。  男の意図がわからなかった。  互いに埋没する時間が始まった。  直接的な刺激に加え、隙をつくような背中への接触は、不覚にもユネを震わせ、じっとりと肌をぬらしていく。 「んッ……」  声を、堪える。だが、息を止めた分だけ、すぐに破裂するように声が漏れた。 「はっ! あっ…… くっ!」  自分自身に抗い、苦悶を浮かべるユネの表情を、男はまばたきひとつせずに見つめた。  まるで、ユネの中の快感を、そのまま握るような視線。   「あっ!」 (しまった!)  のけぞった喉で、ユネは顔を歪めた。  それは体の自然な欲求。  自ら、腰が揺れた。  息が荒くなり、その呼吸音が自分すら駆り立てる。  ユネの高まりにつれ、男は動きを緩慢にした。  焦らし、誘う。  ユネの腰を支える男の手が、骨盤を前へと傾け、さらに強く押し付けた。  呼吸が止まり、そして、嬌声がついに石壁に響いた。 「はぁっ! あっ、あっ、うぐ……っっん!」  鋭い閃光を放ち、ユネの体が脈打った。 (引き返せない……!)  おさまらない身体を落ち着けるには、突き抜けるしかない。  だというのに、男はあやうい均衡を保つように、執拗に時を伸ばす。  男の肩に食い込むユネの指。その訴える意味が変わる。 (もっと!)  男の無表情は変わらない。  ただ、冷静にユネの本質を見極めるように見守る。  涙の滲んだ目を、ひたすらに見つめる。  不意に、男の指先がユネの髪をそっと梳く。  反射的に顔を背け、同時に股間に強く体重がかかった。  発しそうになった呻きを、寸でのところで飲み込んだ。  指はさらに追ってきた。  隠さず、ユネは男を睨みつけた。  だが、その視線に、男がひるむことはなかった。  まるで悪いことなど、何もないかのように、男はユネの髪に指を入れた。  ぞわり、と、肌に走る悪寒。 (爆ぜてしまいたい!)  ユネは自ら縋り付くように体を揺すり、すがった。  限界を越える声が喉をついた。    熱が迸る。  脈打ちながら、じわりと広がるものが、男の服に沁み、さらに腿を垂れ落ちた。  羞恥と屈辱と興奮。  息が上がったユネの後頭部を掴み、男はそこに顔を押し付けた。  ユネの目が見開かれる。  全身に恥辱が渦を巻いた。  顔を背けようとしたが、無駄だった。  もとより、腕力で敵う相手ではない。  ユネはただ黙り込み、震える舌を伸ばした。  苦さと涙の辛さが、ユネの中に、闘志に似た何かを植え付ける。 (二度と、こんな真似……!)  臆病と思われるより、むしろ悠然と受けて立ってやる。  わざと音を立てて、ユネは続けた。  男は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。 “生き延びたいか?”  男の声が、願望を煽るように耳に触れる。 (それを、あえて問うのか?)  ユネは理由のわからない胸騒ぎを感じ、それでも、大きくひとつ頷いた。  それに耐えるユネに、男の声がささやいた。 “……ここで、生きるなら、必要なのは二つ”  ユネは反射的に息を詰める。  男の声は低く掠れていたが、不思議とよく通った。 “静かにすること。逆らわないこと”  教え、諭すような言葉。  掠れた声は、喉奥で軋む音を伴った。  肺から漏れる浅い吐息が、ユネの耳朶に熱を残す。 (黙って従えと?)  簡単なようで、絶望的に難しい条件に思えた。 (お断りだ!)  だがユネは、かすかに喉を震わせながら、頷くしかなかった。  優先すべきは矜持よりも、生命。  どちらも諦めたくはないが、しばしの辛抱だ。 (……僕は生き延びる。必ず)  次第と暗闇に慣れた目は、輪郭だけ、あたりを確かめらえるほどに順応していた。 “……水は、あそこだ”  男が、目線をわずかに牢の一角へ送る。  天井から細い滝のように水が絶え間なく流れ落ち、床に沿って掘られた溝を流れる。隅に深い凹みがあり、水はそこに溜まっていた。  その溜まりは一定の水位を保ち、そこから溢れて、塔の下の海へと流れ落ちていく。緩やかな循環。  流水音が牢内に反響し、白いノイズのように耳を満たす。  それは絶え間なく、いつしか耳に馴染んで沈黙の一部にすら思われた。  水場を見つめるユネに、男はささやいた。 “飲むのも、拭くのも、すべて。……他にない”  ユネは息を呑む。  飲み水、体を拭く……  だが‥‥  ゾッとして、ユネは牢の中を見回した。  匂いはない。それらしき器もない。  心が、人としての何かに怯えるのを感じた。 (……まさか、ここでしろ、と?)  羞恥と絶望が一瞬にして胸を締めつけ、胃の奥が冷たく重くなる。  男は表情を変えず、視線も逸らさずに続ける。 “恥じるな。それすら無意味だ”  その言葉は慰めなのか、諦めなのか分からなかった。  ただひどく淡々としていて、感情の起伏はほとんど感じられない。

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