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第3話

 なにもかも、暴かれる。  ここにきて、“見られる”現実は、人としての尊厳をも叩き落とされた気がした。  あっという間だ。  機能を確かめるように体を弄ばれ、その始末まで強制され、踏み躙られた。  ここまでの転落など、予想していなかった。  あまりの変化に心が追いつかなかったが、このままで済ませるつもりはない。  ユネは、仮にも、この城の城主の息子である。 「食事は?」  まさか、男の吐瀉を喰らえとは言わないだろうと、一瞬臆した。  城の暮らしのような、豊かなものでなくて構わない。  生きるために必要な最低限だけでも。 “扉が開く時に投げ込まれる”  男の息が静かに言った。  その一言が、すべてを表していた。 “時間は決まらない。日に一度もないこともある”  ユネの胃がきゅうっと縮む。  先ほど、放り込まれた自分の姿が、頭の中にフラッシュバックする。  投げ入れられる食事。  慰みものにされる時間。  昼も夜もなく暗い廊の中。  たったひとつの水源。  ここでは、城とは何もかもが違う。  人であることさえ、意味を持たない。 (ここで生き延びること……それと引き換えに、僕は全てを手にいれる……)  環境が過酷であればあるほどに、約束の信ぴょう性が増すように思われた。 (負けるものか!)  指先が男の外套の襟を掴み、かすかに震える。  外套の奥に感じる低い体温が、わずかな安堵を呼んだ。  いつしか、ユネの体は男よりも冷え切っていた。  ほんのいっとき、煽られるままに燃え上がった体は、あまりにあっけなく力を失っていた。  心がずしんと重く、抵抗することさえ、今は気だるい。  震えるよりも先に、眠気が重くのしかかってきた。  こわばる体が、そのまま意識を手放そうとする。  すべてを忘れることを選ぶように、急速に自我が遠のいていく。  疲労が極限に達し、ユネのまぶたが何度かかすかに抵抗しつつ、やがて屈して閉じられる。  膝の上で体が少しずつ重力に従い、男の胸板に頬を預けていく。  信用できる相手などでは到底ない。  しかし、一人では凍え死ぬ。  それが、やむにやまれぬ行動を、ユネに強要した。  鎖が微かに揺れ、冷たい金属音が牢内に響く。  その響きが遠のいていくのを感じながら、ユネの意識は暗闇へと沈んでゆく。  眠りに引き込まれながら、ユネは微かな記憶の断片を見た。  赤い絨毯。  高い天井に吊るされた豪奢なシャンデリア。  そして、ゆったりとした歩幅で近づいてくる主人の黒靴。  いつも整えられていた光沢のある髪と、微笑を湛えた唇。  その唇が、すぐに毒を吐くことをユネは知っていた。 「お前が裏切るとは思わなかったよ」  喉元に突きつけられた、言葉の刃は、そのまま切り裂く力を持っていた。  たった一言、“やれ”とさえ呟けば、自分の世界は終わるのだ。  だがーー 『いや……よかろう。ひとつ、賭けをしよう』  その声が、薄ら寒い笑いとともに脳裏に響き渡る。  そうして、与えられた、命の可能性。  ユネの目尻から一滴の涙がこぼれた。    しばらくの間、男は何もせず、ただユネの背を撫でていた。  指先は驚くほど優しく、だが情熱や欲望といった熱は微塵もない。  そこにあるのは、生かすための行為、あるいは無意識の繰り返しに過ぎなかった。 (この人も、何かを奪われ、ここにいる……)  ユネの脳裏に、朧げながらそんな考えが浮かんだ。  だが眠気に引きずられ、その思考すら霧散していく。既に眠りは深く、石牢の冷気すら意識の外へ押しやられていた。  男は黙ったまま、その様子を見下ろしていた。  長い黒髪がかすかに揺れ、月明かりに濡れたような光を帯びる。  その瞳には何の色も宿らず、夜そのものの深い闇を映している。  鎖が微かに揺れ、金属がぶつかる澄んだ音が牢内に響く。  細長い窓から差す月光が、二人の影を石の床に長く落とす。  男はその影を見つめながら、ユネの髪に指を通した。  やがてゆっくりと、手のひらで後頭部を支え、呼吸の乱れが落ち着いていくのを感じ取る。  牢の中は変わらず静かだった。  天井から落ちる水滴が、途切れることなく床を穿つ。  月光は細い窓から差し込み、二人の影を黒く染める。  ユネは静かな呼吸を繰り返しながら、男の膝の上で眠っていた。  その額にかかる髪が、吐息にかすかに揺れる。  顔は幼さすら感じさせるほど無防備で、寝息が規則正しく胸を上下させていた。  男は無言で、その眠る顔を見下ろしていた。  瞳は深い夜のように暗く、そこには感情らしき色は宿っていない。  けれども、ほんの一瞬だけ、その黒い瞳の奥に微かな熱が灯った。  ゆっくりと男の指がユネの額に触れる。  かかった前髪を払い、耳にかける。  その指先が肌に触れる瞬間、ユネのまぶたが僅かに動いたが、すぐに再び静かになる。  男の指先は一度止まった。  微かに動く睫毛と、わずかに開いた唇。  そこにある無防備さが、薄い渦のように心を揺らした。  男の視線が唇に落ちる。  その柔らかな形に、一瞬だけ指先を伸ばしかける。  だが次の刹那、男は自らの動きを止め、眉をわずかにひそめた。 (……悪いな)  喉奥でかすれた息が漏れる。  それは情欲の吐息ではなく、自分を律するための呼吸だった。  男は指先を顎へと滑らせ、喉元まで降ろす。  そこに食い込む鉄の首輪に触れると、鎖が微かに揺れ、金属が乾いた音を立てた。  冷たい感触が指先を刺し、理性を呼び戻す。  ユネは微かに息を詰めたように見えたが、目を覚まさなかった。  肩がひくりと震え、すぐに再び静まる。  男は息を整え、手をユネの細い腕へと移す。  布越しに伝わる骨と、柔らかな筋肉。  今はまだ、弱り切った獣のように頼りないその体を、ゆっくりと撫でる。  情欲は消え、指先に残るのはただ生かすための温度だけだった。  「…………」  声にならない吐息が、男の喉奥で小さく震える。  それは誰にも届かない音。  黒髪が肩から滑り落ち、月光に光った。  男の手は、ユネの冷たい指先へと移動する。  その細い指を一つひとつ包み、自分の掌に収めた。  夢の中ですがるように、ユネの指がわずかに動く。  男はユネの手の甲を親指で撫でる。  その動きには、ただ生きている証を確かめるような静けさがあった。  牢の空気は冷たく、外界から隔絶された密室で、二人の間にだけかすかな温度があった。  鎖が小さく鳴り、金属の冷たい光が月明かりに反射する。  ユネは寝返りを打つように微かに身じろぎする。  頬が男の外套に触れ、呼吸が少し乱れる。  男はその様子をじっと見下ろし、ゆっくりとユネの背に手を回した。  背中を撫で、僅かに縮こまった肩を軽く抱き寄せる。  外套越しに伝わる体温は冷たい。  男からユネへと、熱がしみていく。   (俺の糧になれ)  男の記憶にある、ひとつの約束が蠢きだす。 『首輪を持つ者を堕とせ。それが生かす条件だ』  男は沈黙の中で無意識に、その言葉を繰り返していた。  それが希望なのか呪いなのか、自分でも分からない。  ユネが何者なのか、男は知らない。  首輪。  ただそれが、ユネが彼の獲物であることを教えていた。 (すまない)  男は無言で、再びユネの髪を梳く。  その指先にあるのは情熱でも哀れみでもない。  ただ、静かな執着のような気配が滲んでいた。  牢内には水音と微かな金属音、そしてユネの寝息だけが続いていた。  男の瞳は、夜そのもののように深く、どこまでも静かに揺らいでいる。 (俺は、生きる)  その決意は、塔を飲み込む闇よりも深かった。   ・  ユネは、ぼんやりとした意識の中で目を開けた。  冷たい石の感触が背中にじわりと染み込んでくる。頬に触れる石床は微かに湿っていて、吐息が当たるたび、冷えた水気が肌を伝った。  薄闇の中、空気は重く、鼻腔の奥に苔と鉄の匂いがしみついている。一晩のうちに、すっかり感覚が染められ、意識しなければ感じられないほどに麻痺していた。  微かに漂う生臭さが、昨日自分がここに放り込まれた時の記憶と重なった。  初冬の外気が、細い岩窓から忍び込んでくる。床に低く冷気がたまる。  こんなに惨めな気持ちになる朝は初めてだ。  屋根裏に押し込まれた時でさえ、擦り切れたクッションが体を支えていた。  今は、薄い麻の服の背が一枚だけ。  首元がひりつく。無意識に手を伸ばすと、硬い金属が肌に触れた。首輪。呼吸のたび微かに擦れ、薄い痛みを残す。 (……夢じゃないんだ……)  ユネは目をゆっくりと瞬かせた。  瞼が重い。体も鉛のようだ。  男の膝の上で眠っていた記憶が、まだ朧げに残っている。だが今、自分は床に寝かされている。 (……いつの間に……)  体を起こすと、鎖が床に触れてカチャリと鳴った。  ユネは反射的に肩を震わせた。 (そうだ、僕は一人にすら、なれない)  視線を上げると、壁際に男がいた。  短い鎖が届く、ギリギリの距離。  長い黒髪が夜明けに照らされ、滑らかに揺れている。  膝を立てて座り、無言で鎖を手に取っていた。  指先が鉄の繋ぎ目を丁寧になぞり、小さな金属音が時折、空気を震わせる。  軽く手繰れば、ユネの喉が引き寄せられるほどの、絶妙な距離。 (何をして……?)  ユネは息を潜める。  声をかけるべきか迷ったが、喉が張り付くように乾いていて、何も言えなかった。  昨日、出しぬけに味わされた恥辱が蘇って、途端に体が総毛だった。  男になぐさまれるなど、ユネの生涯でなかったことだった。  ましてや、望まぬ相手、鎖の束縛。   (殺してやりたい)  瞳の奥で、ユネの怒りが静かに火を灯す。 (いや、そんなもんじゃ足りない)  自分を貶めた償いはさせてやる。  生来のユネの気質が熱を帯びた。  喉元の首輪が冷たく重い。  その先、男の左手首に繋がる鎖が白く鈍く光る。  空気が動かない。  湿気が絡みつき、髪も衣服もじっとりと冷たい。  体の奥が痛む。寝返りも打てないほど硬い床で眠ったせいか、背中がじわじわと痺れていた。  胃が鳴った。  小さな音が、牢内に情けなくはっきり響く。  ユネは思わず唇を噛んだ。 『……食事は、扉が開く時に投げ込まれる……日に一度もないこともある』  男の掠れた声が頭の中でよみがえる。  ユネは膝を抱え、喉の奥に溜まる唾を無理に飲み込んだ。 (食べなくても、生きられる)  劣悪な環境とはいえ、昨日よりも眠れたせいだろうか。  頭は少し冴えていた。 (半月程度なら、水だけでも……)  たとえ、男が自分に食料を渡さなかったとしても、持ち堪えられる。  いやむしろ、こちらからお断りだ。  石牢に、気まぐれで投げ込まれる“餌”を欲するほど、落ちぶれてなるものか。  そして何より、それが“安全”である保証などない。  ユネは、部屋の隅の水源を見た。  飲み水になる、と、男は言った。  だが、問題は、そこまでの距離だ。  水場は、ユネが触れられない距離にあった。  鎖を握る男が動かなければ、そこまでたどり着くこともできなかった。  男は鎖を弄んでいる。  繋ぎ目に小さな石片が噛んでいたのか、指先で払い落とし、ゆっくりと手元に巻き取った。  その静かな仕草に、ユネは言い知れぬ嫌悪を覚える。  命も、行動も、握られている。 (何を考えている……?どうして、何も言わない……)  男の瞳は朝日に照らされて鈍く光った。  だがその奥には、まるで感情の揺らぎがない。  長い時間この牢で“待ち続ける”ことが日常になった者のように。 (この状況で、どうやってこいつを……)  復讐は、かすかな希望だった。  ユネは首輪を指でなぞる。  金属の縁に沿って薄いかさぶたができているのを感じた。

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