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第4話
生温い恐怖が喉の奥を這う。
(ここで、僕は……生き延びる……)
心の中でその言葉を繰り返す。
希望のようでいて、それは恐ろしく冷たい呪いにも思えた。
その先に自由が待っている保証などないのだと、誰かが囁いているかのように。
鉄の鎖が再び小さく鳴った。
ユネは思わず身を縮める。
それは、逃げ場のない現実を告げる音だった。
(……外の空気が吸いたい。海の匂いが、風の匂いが恋しい……)
ユネの視線は塔の壁に空いた細長い窓へ向かう。
縦に裂けたその隙間から、わずかに風が入り込む。
外界は遠かった。
泣けるほどに青い海の向こうに、蜃気楼のような街が揺れている。
(……見えるのに……触れられない)
空腹と、首輪の冷たい重みと、湿った空気がユネを押し潰すように包み込む。
この塔での生活は、確実に現実となりつつあった。
鎖がわずかに引かれ、金属が石床を擦る乾いた音が牢内に響く。
ユネはぎくりと肩を揺らした。
男が壁際に座ったまま、左手の鎖をゆっくりとたぐる。
その動きには急かすような気配はなかったが、ユネの心臓は鼓動を早めた。
ギン! と、鎖が張った。
男がゆっくり、手首に巻きとるにつれ、ユネは体を起こし、這って男の元へ行く。
犬が強引な飼い主に引きずられるようだった。
惨めよりも憎悪が勝る。
男は、目を細めて、ユネを見つめた。
朝の光に、ユネの柔らかく緩やかに巻いた短い金色の髪が、キラキラと光った。
牢の陰鬱な雰囲気にはあまりに似つかわしくない。
男はじっと、緑の瞳を見た。色が薄く、わずかに青みが混ざる瞳は、稀有に違いなかった。事実、主人はこの瞳を愛した。
値踏みするように見つめられながら、ユネはふと、あまりに単純な問いを浮かべた。
自分は、男の名前を知らなかった。そして、自分も名乗ってはいなかった。
閉鎖された場所に二人きり。
名など必要ないと言わんばかりに、興味すら示さない。
(違う。僕は人間だ)
ユネは、ともすると飲み込まれてしまいそうな、異常な感覚に抗った。
「あなた、名前は?」
自分から、ユネは尋ねた。
案の定、というべきか。
男は表情を変えなかった。
「僕は……ユネ。あなたは?」
数多い主人の落胤の名など、誰も覚えてはいない。
だが、せめて、人として呼ばれたい。
たとえわずかな日数であろうと、もののように扱われる思いはたまらない。
男はじっと、ユネを見つめた。その表情には、諦めとも無関心とも取れる色があった。
ユネは食い下がった。
「偽名でもいい。あなたを何と呼べばいい?」
男はわずかに目を細め、何かを思案している。
本名を答えるつもりがないことは、明らかだった。
ユネにとっても、それが真実の名である必要はなかった。
人として、互いを呼ぶ。それだけで、一つの救いのように思われた。
“ヴァス”
緩やかに、ユネの唇が形を作った。この牢獄に来てから、初めての、柔らかな感情だった。
「では、よろしく、ヴァス」
ユネの声はどこか弾んだ。同時に、薄黒い気配も混じった。
(思い知らせてやるよ、ヴァス)
従順なふりをして、牙を突き刺す瞬間を狙う。
ユネの心には、鋭い棘がある。
だが、ヴァスの表情は動かない。依然として、感情を見せない冷徹な顔。
ただ静かに立ち上がると、ユネとの鎖のたるみに目をやりながら、じりじりと壁伝いに移動した。
「……清めろ」
掠れた音がそう言って、ヴァスはまた、床に座る。
ユネは視線を泳がせる。
彼が座り込んだのは、牢の一角。
天井から細い滝のように水が落ち、溝を満たしている水場。
そこが唯一、身体を清めるための場所だった。
昨日、ここで過ごすためのルールをヴァスに教えられた時から、ユネはこの瞬間を恐れていた。
(ここで、裸に……?)
喉が詰まり、肺の奥がひりつく。
しかし身体にまとわりついた汗と汚れは、牢に立ち込めた湿気で重く、息苦しい。
ユネは両手をぎゅっと握り、床の冷たさが爪先に伝わるのを感じながら立ち上がった。
鎖が再び鳴った。
首輪から伸びる鉄の輪が、石床を引きずる音を立てる。
その音は空間に異様なほど響き、ユネの羞恥を煽る。
ユネはヴァスに背を向ける。
ヴァスは相変わらず石壁に寄りかかり、長い髪が肩から垂れていた。
その顔は髪に隠れ、表情は読み取れない。
だが、背後に感じる視線が幻覚であってほしいと願う。
(……見ていない……きっと)
ユネは震える指で衣服の裾に手をかける。
脱ぐまでもないほど、あっけない。
湿った布地は冷たく、指先がかすかに滑った。
たった一枚の、貫頭衣。下着すら、剥ぎ取られた姿。
衣擦れの音が耳について離れない。
肩、背中、そして脚。
一気に皮膚が露わになり、牢の冷気がひりつくように刺さる。
ユネは喉奥で息を詰め、急いで水際に膝をついた。
流水が冷たい。
天井から落ちる水は、山からの湧き水だ。勢いが弱く、身体を打つというより、撫でるように流れていった。
ユネは両手ですくい、顔を、首を、そして肩を拭った。
ヴァスの気配は動かない。
だが、いつ、その手が伸びてきて触れられないとも限らない。
(早く……終わらせたい……)
焦りが体内で膨張し、頬に火が走る。
だが、汚れたままでいるよりはましだった。
体を流すのは、気持ちの問題ばかりではない。
昨夜から、石の窪みを這い回る虫を見かけていた。匂いも汚れも、奴らを誘うだろう。
中には、毒を持つものもいるかもしれない。
虫に怯えて眠るなど、今までのユネの人生では、ありえない悲劇だった。
ユネは腕、胸、腹と、震える手で順に水をかけていく。
鎖が微かに揺れる。
首元に伝わるその動きに、ユネの背筋が凍った。
ヴァスは動いていない。
背を向けているのか。
それとも……
確かめる勇気はないが、想像だけで、無言の存在感はユネの羞恥心を冷たい恐怖に変えていく。
(指一本でも触れてみろ……噛みちぎってやる)
ユネは小声で自分に言い聞かせ、腰から脚へと水を流す。
そっと、しかし、避けがたく、足の間に水を絡めた時、フツリ、と頭が熱くなった。
一瞬、寒ささえ遠のいた。
縮みあがり、力なく垂れてはいたが、不意にピクッと蠕くのを見た。
昨日の残滓が、こびりついていた。
(こんな惨め!)
背後に感じるヴァスの気配。
すぐそばで、すべてを見られているという現実。
危うい何かが目覚める前に、ユネは目をそらした。
ひざまずいた体勢のまま、指先が自分の足首に触れる。
濡れた足裏が、冷たい石に吸いつき、そのまま凍りつくようだった。
流水音が牢内に反響する。
それに混ざるのは、首輪の金属が鳴る微かな音。
ユネは呼吸を整えようとしたが、胸の奥が早鐘のように鳴り止まなかった。
(最悪だ……)
怒り、寒さ、飢えと渇き。
だというのに、明らかにそれは容を変え始めていた。
ユネは震える指で濡れた髪を絞り、急いで衣服を拾い上げた。
湿った布が肌に貼りつき、冷たさが骨に沁みる。
“終わったか”
低く、掠れた声が背後から落ちる。
びくりと肩を震わせ、振り返らぬまま答えた。
「……はい……」
声がかすれる。
それを聞いたヴァスは何も言わず、鎖をたぐる音だけが続いた。
服を整えると、ユネはヴァスの背中を恐る恐る見た。
そこには動く気配がなかった。
長い髪が光に濡れ、背に広がる。
(……何も、されなかった……)
安心と屈辱が入り混じり、ユネは複雑な息を吐いた。
願望にも似た、分析。
そしてすぐに、そんなはずはない、と打ち消す。
(何が狙いだ?)
昨夜から、幾度となく繰り返している問い。
遠くから、岩壁を伝って、あの鐘の音が聞こえてきた。
はね橋が動く合図。
重たい滑車の軋み、ギィギィと近づいて、バタリ、と道が繋がる。
コツコツと響く、兵士の足音。そして……
鉄の扉の向こうから、金属の重い音が響いた。
それは塔全体に反響し、ユネの胸骨を小さく震わせる。
扉の一部の小窓が開き、次の瞬間、ぼたり、と鈍い音と共に何かが床に転がる。
ユネは反射的に身をすくめた。
扉の下部に開いた小さな隙間から、干からびたパンが二つ。
転がって、床の砂埃が薄く付着していた。
(……食べ物……だって?)
胃がきゅう、と音を立てて縮む。
唾を飲み込む喉が痛い。
ユネはゆっくりとヴァスを見た。
壁際に座り、無言でこちらを見ているようだった。
お前は、どうする?
そう、聞かれたような気がした。
それは、人としての誇りを試されているようですらあった。
答える代わりに、ユネは顔を背けた。
ややあって、視界の隅でヴァスが立ち上がるのがわかった。
鎖の範囲でじりじりと動く。
ユネの背後に回る。
ぞくっと不安を覚えたが、振り返らなかった。
少しだけ距離がある気配。
カサカサ、と、もの音がした。
バリッと引きちぎられたのは、渇ききったパンだろう。
乾いた音が指先に響く。
それを口に運び、ゆっくりと砕く音。長く、噛み締めるような、まったりとする時間。
ごくっと、ユネの喉がなった。
先ほど飲んだ水が、余計に空腹を訴えた。
(僕も……)
そんな気持ちを殺すように、手を握りしめる。
いやだ。
物乞いなんかしたくない。
第一、こんな場所で与えられる食い物に、何もないはずがない。
ユネには、時間の限りがある。
半月生きれば、でられるという期限。
だからこそ、食べないという選択ができる。
それをしないヴァスには、終わりが見えていない……
背後から静かに伝わる、咀嚼の音。乾いたパンを無理に飲み込む、低く短い呻き。
決して旨そうだとは思えないのに、惹きつけられてやまない。
ユネの視線がちら、と肩越しにヴァスへ向かう。
ヴァスは体の片側をこちらに向けて、無心で頬張っていた。
(浅ましい)
投げ入れられた、飯に群がるなど……
そして、羨ましかった。
恥も見栄もなく、生きるためにすべてを引き換えにできる精神。
長い黒髪が肩にかかり、影の奥の瞳は動かない。
だが、ほんの一瞬だけユネの動きに反応したように見えた。
「……あなたは、平気なんですか?」
ユネの声は小さく、喉の奥で擦れるようだった。
沈黙が数拍続く。
ヴァスは口の動きを緩めた。
やがて、微かに喉の奥で飲み込む音。
喉が傷ついているヴァスに、今、答えを求めても意味がない。
耳に寄せた囁きを聞き取るのがせいぜいだ。
ユネは小さく息を吐き、再び視線を下げた。
そのまま、水場に目をやる。
先ほどから、水は徐々に回り、体を洗った水はすでに塔の外へ流れ落ちている。
(水さえ、あれば……)
それは、自分を奮い立たせるようだった。
だが、その命をつなぐ水を飲みたくても、ヴァスとの鎖が自由にはさせない。
彼が動かなければ、水場まで行くこともできない。
ユネの体では、屈強に見えるヴァスを、力づくで引きずることは無理だった。
そのとき、ぞくっとした感覚が下腹部を撫でた。
それは、生きている以上、避けられない衝動。
水が塔から流れ落ちる先を見る。
(直接、あそこに……)
想像して、ユネは胸が震えた。
(こんな動物同然のこと……)
せめて一人なら、誰にも見られることがないのなら、いくらかましだと思われた。
だが、それが叶わない。
視線が自然と、ヴァスの喉元へ落ちる。
そこには深く刻まれた傷が走っている。
線は幾重にも重なり、皮膚の上からでも残虐な痕跡が感じられる。
その喉が、硬いものを飲み込むたびに蠢く。
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