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第5話
傷が開くのではないか。
そんな危うさまでがあった。
(……声を……奪われた)
ユネは唇を噛んだ。
ヴァスの罪、ここに入れられた理由を、ユネは知らない。
一つ、確かなのは、それが主人の怒りを買った、ということだけだ。
しかも、その場で斬り伏せるのではなく、こうして長く苦しめようと思われるほどに。
かつてヴァスがどのように叫び、抗おうとしたのか。
そして、どれほどの苦痛でその声を失ったのか。
想像の先で、あの主人の冷たい微笑みが浮かび上がる。
『いい、眺めだ』
かつて、主人が呟いた言葉が思い出された。
あれは、城の角にある部屋だった。
そこからは、ちょうど、この牢獄の尖塔が見えた。
大扉の上、鉄格子のはまった窓から、遠眼鏡で中の様子が見えるのだ。
主人はそれを眺め、愉悦に浸っていた。
(今も、僕たちを見ているのだろうか)
そう思うと、縮んだ胃袋がさらに萎縮した。
自分たちは、主人の玩具だ。
自分をここでヴァスに会わせたのも、二人がどうするか、見物するために違いなかった。
(僕は、絶対に屈しない。そして、ここを出る)
ユネの決意は強固だった。
空気は冷たいのに、皮膚だけが火照るようだ。
鎖がわずかに動き、金属が床を擦る音が響いた。
ヴァスは姿勢を変え、壁際に座った。
どんなに鎖を引いても、ユネが水に届かない距離。
手に入らないと思うほどに、喉が乾く気がした。
(水さえあれば、生きられる。けれど……)
その水すら、飲ませてもらえないとしたら?
ユネは、しばし石床の模様を見つめた。
それは苔に覆われ、過去に何度も水が流れた跡が筋状に残っている。
石畳のわずかな苔と、沁みた泥水をすする想像がよぎった。
知らず知らずに、目を見開く。
(そんなの、絶対に嫌だ!)
現実は、ユネの想像以上に残酷を呈していた。
自分より屈強な男に、首輪を握られ、支配される。
水一滴すら、自由にならない。
冬の冷気が、石牢を満たしていた。
縦の窓から流れ込む風はわずかで、壁に溜まった湿気の匂いが鼻を刺す。
その忌まわしい湿気すら、貴重な水分だ……
ああ! と、ユネの心が叫んだ。
(こんなことになるなんて…)
騙された。嵌められた。すっかり踊らされて、ここでこうしている。
命を奪われなかった幸運と、ここで晒されることへの屈辱。
だが、耐えてみせる。
主人が覗いているのだとするのなら、なおさら、情けない姿を見せるわけにはいかない。
失望させたが最後、ここから生きて出られる望みは消える。
ユネは床に横たわり、目を閉じていた。
しかし眠気は訪れない。
冷たい石が背骨を凍らせ、首輪の重みが喉に絡みつく。
鎖は短く、寝返りを打つたびに金属音が鳴る。
その音が、ここが牢獄であることを繰り返し告げてくる。
(……眠れない……)
無駄に動いて体力を消耗するのは愚かだ。
水に手を伸ばすこともできず。
ただ、時が過ぎるのを待つ。
耳を澄ますと、水が落ちる音だけが続いていた。
ぽたり、ぽたり。
まるで時間がそこに閉じ込められているようだ。
目を開けると、うす闇の中にぼんやりとヴァスの影があった。
動かず、長い髪がかすかな風に淡く揺らいでいる。
その姿は石像のようで、息をしているのかさえ分からない。
(少しの辛抱だ)
そう自分に言い聞かせる。
体が震える。
寒さのせいか、それとも恐怖か。
ユネは腕を抱き、体を丸めて石の冷たさを防ごうとした。
しかし、その僅かな防御では、胸の奥から這い上がる孤独を止められなかった。
(……くそ……このままじゃ凍え死ぬ!)
思わず視線がヴァスに向く。
無言のまま座る影。
そこに命のぬくもりがあることを、ユネは本能で感じ取った。
昨夜、確かに自分は敗北した。
逆らう気力がなかったとはいえ、ヴァスの腕に抱かれた。
それはあまりにささやかだったが、ぬくもりを与えてくれた。
(触れていれば、あるいは……)
体を温めるものは、互いの体だけだ。
ユネはハッとした。
(それが、ヴァスをここに置いた理由か!)
主人のいやらしい笑みが浮かぶ。
声すら、聞こえるようだ。
『おまえのために用意した。せいぜい、利用するがいい』
ユネは、手を握りしめた。
(生き延びるために、抱かれろというのか!)
屈辱感が身を焼くようだが、実際に体は刻一刻と熱を失っている。
自ら体を委ね、慰まれる代わりに一夜を生き伸びろと?
葛藤が心に渦巻く。
(そうまでして、生き延びたいか?)
否!
ユネが求めるのは、勝者としての生存である。
尊厳と引き換えになど、意味がない。
(ならば……やることは一つだ)
ユネの目に、静かに意思が燃える。
(……できるか?)
感情が囁く。
(やるしかないんだ)
理性が命じた。
ユネはゆっくりと体を起こし、鎖が床を擦る音を響かせながら、ヴァスの方へ這うように移動した。
(これは、生きるためだ……)
ヴァスは動かない。
ただ、じっと、待ち構えるようにこちらを見ていた。
ユネは恐る恐る、ヴァスの膝元まで進み、細い息を吐いた。
暗がりでは、気まぐれに差し込む月明かりの他に、相手の委細は見えない。
見えないからこそ、やりやすいこともある。
「ヴァス」
ユネは渾身の弱さを見せて、ささやいた。
「……お願い……」
自らヴァスの前に座り、無防備に背を向ける。
首輪の鎖がわずかに動き、金属が冷たい音を立てる。
ヴァスは何も言わず、長い指がゆっくりとユネの背を撫でた。
(そうだ、来い)
冷たく、腹の中で算段を組む。
ヴァスの指は温かいわけではない。
だが、氷のような牢獄の中では、十分すぎる温もりだった。
ユネの体が震え、喉から小さな嗚咽が漏れる。いや、あえて止めない。
「……ここから……出られる、よね……?」
掠れた声で、ユネは問いかけた。
答えを求めるというより、すがるように。
ヴァスは答えなかった。
しかし、その代わりに長い指がユネの髪を梳いた。
ゆっくりと、繰り返し。
その動きには慰めも、約束も、何も込められていないようで、同時に全てが含まれているようだった。
(愛撫なんていらない。さっさと熱をよこせ)
醒めた思考がユネを動かす。
手探りにヴァスの膝に触れ、確かめるように撫でる。
強すぎず、弱すぎず、切なく甘えるように。
「あなたはいつ、出て行くの?」
そう言って振り返り、まるで追いすがるような眼差しを向ける。
「一人にされたら凍えてしまう」
だが、ヴァスは静かだった。答えるつもりもなく、ただ、時折、くるりと指先でユネの髪を捻った。
(イラつく……)
ユネが凍えていることを知りながら、あえて触れないヴァスのやり方に腹が立った。
(焦らして、楽しんでるのか?)
だが、そんな悪言は微塵も出さず、ユネはただ、甘い表情を浮かべた。
ちょうど、ユネに味方するように、月明かりが差し込み、ヴァスの目に、ユネの浮かべた涙が光った。
「……この温もりを……手放したくない……」
言いながら、なおも大切そうにヴァスの脚を撫で、さらに背中を胸に傾けた。
どこまでも、弱くはかない演技をする。
ユネは、ヴァスが決して乱暴を好むたちではないことを見抜いている。
このような相手を利用するには、こちらが弱者であることが特効だ。
隙を見せ、庇護欲を刺激する。
自分を抱かせるように仕向け、実際にはこちらが主導権を握る。
(やってやる)
ユネの目の奥に、強い輝き。
(生死も、寒さも、熱も、支配するのは僕だ)
そう思う心と裏腹に、その仕草はどこまでも繊細に、さりげなく、弱々しい。
「お願い……」
乞い願う。背中でほくそ笑みながら。
ユネの嗚咽に気づいたのだろうか。
大きなヴァスの手のひらが、ユネの両肩をそっと包み、もたれ掛けるように引き寄せた。
背中に、ヴァスの胸が触れる。
途端に、ぬくもりが広がって、皮膚を覆っていた薄い氷が解けるようだった。
ヴァスの手は、ゆっくりと動き、そして、常に、ユネの体のどこかに触れていた。
ぬくもりを感じる場所が少しずつ移動し、冷え切った体に、暖かな血潮が蘇るようだ。
ユネは、ぼんやりとした顔をして、されるに任せていた。
やはり、人の体は暖かい。
(……こいつを、うまく使えれば……)
目を閉じて、そう思った時だった。
自分の体を撫でている指先が、ごくわずかな圧力で衣服の上を滑る。
首筋から肩へ、そして腕。
まるで無防備な獣の体毛を梳くように、ゆっくりと。
(好き者め……)
昨夜のことも重なって、ユネは心の中で蔑んで笑う。
理由がなんであれ、肌が触れれば自然と滾る。
この閉塞の檻の中で、快楽と呼べるものは身体しかない。
心にかかるストレスは、自然と肉体へと解放の先を求める。
ヴァスの触れ方が次第と変わる。
手のひらではなく、指先。
じんわりとではなく、くすぐるような、辿り方。
(……よし……)
ユネの心臓がぴくりと跳ねた。
最初から、これを誘っていた。逃げる気など、毛頭ない。
それでもしおらしく、様子を伺うように、かすかな呼吸を続ける。
ヴァスの指が止まった気配はない。
指先が鎖に触れる音がした。
かすかに金属が擦れ、冷たい音が牢に響く。
ユネは微かに眉を震わせる。
ヴァスは、ユネの心に気づいていない。
あるいは気づきながらも、無視しているのか。
指先は今度、鎖の先の首輪の縁をなぞった。
その行為に、優しさと支配の狭間のような感覚があった。
それが、凍えたユネを温める行為ではないことは、明らかだった。
(……なんだよ……)
ユネは心の中で文句を言ったが、声にはしない。
支配権は常に自分にあり、ヴァスの思い通りにはさせたくない。
(さて、どこで転じてやろうか)
ユネはヴァスの出方を伺った。
喉の奥がしびれ、冷たい汗が背を伝う。
指先が肩から腰へと滑り、布地を通して皮膚の温度を測る。
ごく浅い呼吸。
ユネの抵抗を警戒するように、ヴァスの動きはひどく慎重だった。
(じれったい……)
ユネの心臓は早鐘のように脈打つ。
ヴァスは何も言わず、ただその指先でユネの髪を梳き、頬を撫で、鎖に戻る。
その繰り返しが、空間の冷たさとは対照的に妙な熱を帯びていく。
金属音がまた小さく鳴った。
ヴァスの指先が首輪を確かめるように押さえる。
そのまま、ゆっくりと喉元を下り、鎖の引き具合を試すように軽く引いた。
(こいつっ……)
思わず眉をしかめたユネの顔を、闇が隠す。
同じように鎖に繋がれていようと、二人が受ける精神的な圧力はまるで違った。
喉元を抑えられているユネと、左手首のヴァス。
ヴァスがユネを支配する。
ユネの体がごく僅かに浮く。
鎖が喉に食い込み、浅い息がひゅっと漏れた。
その微細な音に、ヴァスの指がぴたりと止まる。
ユネはヴァスを支配したい。
細い腕を伸ばして、ユネは頬を探りあてた。
顔をたどり、背中に伝わるヴァスのわずかな変化を読み取る。
ユネの指が耳朶に触れた。
次の瞬間、ヴァスの指がすっと離れた。
空気が動き、長い髪がかすかに頬をかすめる。
ユネはわずかに目を細めた。
(……そう、ここが……)
背を撫でる指先が、もう一度ゆっくりと移動する。
そこには欲望の熱はない。
だが、妙に冷静で、どこか『所有』を思わせる圧があった。
(教えろ。おまえを従える場所を)
ユネは体を強張らせながらも、自らもヴァスの体に触れ続ける。
肩、二の腕、ひじの内側。
牢の中の静寂に、ユネの心臓の音だけがひどく大きく響いている気がした。
脇腹をなぞった時、腰の後ろに圧を感じた。
(……ここも、いいんだ……)
背中に当たる肉が膨れる。
そのわずかな変化を、ユネは逃さなかった。
ユネの全身が、小さな勝利に震えた。
長い指がゆっくりと伸びる。
ヴァスの頬に触れ、耳介を包み込む。
耳は冷たくはなかった。
かといって温かいわけでもない。
感情を宿さない、ただ生きる者の温度だった。
ヴァスは息を潜める。
左手が引かれ、鎖が微かに首に食い込む。
冷たい金属の感触と、指先の柔らかな圧力が、混ざり合う。
(……その気になったか?)
ユネの指が、さらに耳を撫でる。
ゆっくりと、何度も往復する。
その動きはひどく穏やかで、まるでヴァスを慰めているかのようだった。
だが、その優しさの裏側に潜む何かが、ヴァスの背筋を冷たくした。
ユネは瞼を震わせ、演技を続ける。
唇が微かに開き、呼吸が浅く乱れる。
指先は今度、耳を緩く握って留まり、親指の腹でゆっくりと中に触れた。
鎖が微かに鳴る。
首輪がわずかに引かれ、皮膚に冷たい痛みを走らせる。
その痛みにさえ、ユネは恍惚が混じる感覚を覚えていた。
(……ほら、感じてきただろ?)
ユネの胸が早く打つ。
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