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第6話

 だがヴァスは変わらず無言で、その黒い瞳をじっとユネに絡みつかせる。  長い睫毛が影を落とし、その表情は読めない。  ユネの頬を撫でる指先が、今度は髪へと滑る。  髪を梳き、頭部を優しく支えるように添える。  指先の圧力は極めて軽い。  それなのに、ユネには拘束されているように思えた。 (……こういうのが、憎たらしい……)  心の叫びは声にならず、牢の冷気に飲み込まれた。  ヴァスの親指が最後にもう一度、頬を拭い、かすかに唇の端に触れた気がした。  だが、その行為もすぐに止まる。  空気が動き、ヴァスの長い髪がユネの頬に垂れた。  ユネはわずかに身じろぎしたが、それを受け入れる。  鎖がかすかに鳴り、音が牢の冷気の中に消えていく。  ヴァスの体が、包み込むようにユネを壁際に追い詰めた。  視界が闇に慣れるまで、ほんの一瞬。  すぐに黒い瞳が目に飛び込んだ。  ヴァスが至近距離で、無言のままユネを見つめている。  その感情を映さない黒の瞳の奥に、どこか空洞めいた揺らぎを見せた。  (……したいんだろ?)  ユネの目は何も語らない。  ヴァスの唇も何も言わない。  ユネの指は、まだ耳に触れている。  その指先には、押し付けるほどの力はない。  ただ、生きていることを確かめるように、静かに。  焦らし、探るように、見極める。  ユネは喉を鳴らし、声にならない息を吐いて煽る。  ヴァスは微動だにしない。  喉の傷がぼんやりと、影が幾重にも走る。  その傷跡が、言葉を奪われた痛みを物語っていた。 (……こいつには、希望がない)  ユネの胸に奇妙な感覚が芽生えた。  自分にはまだ外の世界がある。  ここを、出て行ける可能性がある。  だが、ヴァスにはない。  この塔に閉じ込められ、声さえ奪われ、朽ちていくだけ。 (こいつには今、僕しかいない)  ユネは目に、突然、涙を浮かべた。  それは音もなく頬に落ちる。   ヴァスの指先がそっとを拭う。  その優しさに、ユネは確信した。 (……こいつは、甘い……やれる)  ユネは呼吸を整え、喉奥で掠れるように声を出す。  それはほとんど囁きだった。 「……いいよ。許してあげる」  ヴァスの瞳が僅かに揺れる。  だがその奥に宿ったのは喜びではなく、深い虚無のような色だった。  ユネの許しの言葉に、ヴァスは一拍遅れて指を動かした。  頬を撫で、髪を梳き、そして喉元の鎖に軽く触れる。  金属音が冷たい空気に溶け、二人の間の緊張をさらに際立たせた。  ユネは目を閉じた。 (来い……)  思考は、あくまでも醒めていた。  ヴァスの唇が、無造作にユネの唇を塞いだ。  かすかに、ユネは瞼を震わせた。  口づけは嫌いだ。  だが、今は…… (……もっと、大きなものを、手に入れるために……)  ユネは体に残った力を解いた。  ヴァスはユネの頭を抱き、さらに引き寄せた。自然と重なりが確かになり、ユネはその隙間から暖かく触れるものを感じた。  今までにないほど、熱い感触。それはまちがいなく、生き物だった。  ぬるりと蠢き、意思を持ってユネを侵食する。  伸ばされた熱に、自らも答える。  気づけば、ユネの両腕もまた、ヴァスを抱いていた。  絡まりながら、次第に濡れ、喉を伝う。  潤いに似た充足に満たされる。  そして、夢中になればなるほど、寒さも恐怖も遠くなった。 (これだ。こうしていたら、耐えられる)  ユネは思った。 (利用してやる。どうせ、死ぬ男だ)  それは、堕落の予兆、しかし、ユネには生きるための確かな手段だった。   ・  それは何度目の夜だったか。  日に日に、牢は凍えていった。  塔の石壁は夜の湿気を吸い込み、わずかな月明かりが差す頃にも、空気はなお冷えたままだった。  眠れない。  もう、眠れない。  このまま意識を手放せば、二度とは戻ってこれない予感があった。  ユネは目を開けた。  まず映ったのは、鎖の鈍い光。もうすっかり見慣れて、そこにあるのが当然のような印象すらあった。  首輪の縁が、うっすらと赤く腫れているのを自覚しながら、ゆっくりと身を起こす。その傷は、毎日ひどく、耐え難くなっていく。  振り返ると、ヴァスは外套に腰を下ろし、膝に腕を置いていた。  長い指が静かに絡み合い、ただじっとユネを見ている。  その視線は、欲か、慈しみか、それともただの空虚か。  ユネには分からなかった。  塔の空気は重く、しかし昨日までとは違う静けさに包まれていた。  ユネは溝の水を両手で掬い、冷たい液体を喉に流し込んだ。  だが、首輪の締め付けがわずかに食い込み、飲むたびに意識が喉元へ引き戻される。  首に、痛みはある。だが、触れるのは、時とともに恐ろしくなった。  触れるとひりつく痛み。それは次第に、肌が炎症を起こして、摺り切れ、血が滲み、渇き、剝がれ落ち、より深くえぐれるさまを、指先に強く感じさせた。  触るのも怖い。  ユネの体に傷はない。  そのように、大切に囲われて育てられてきた。  主人の父の血を継いだ、跡取り候補の一人として。  しかし、蹴落とさねばならない兄弟は多かった。 (こんな傷、残すわけにはいかないのに)  できる限り動かず、痛めないよう、ユネは注意を払った。  視線だけ、ヴァスに向ける。  ヴァスは座り、鎖を指先でなぞっていた。いつものように。  その長い指が、繋ぎ目を確かめるように滑る。  まるでこの塔の冷たささえ、そこに吸い込まれていくようだった。  ユネの胸が微かに疼いた。 (……こいつは、ずっとここにいる?)  外界を知らず、ただ鎖と水音に囲まれたこの場所で。  ユネとヴァスの間に、会話らしいものは何もない。  パンが投げ込まれれば、ヴァスが食べた。  鎖が届く範囲に水があるときは、ユネも飲んだ。  肌を流すのも、排泄も、隠すことはなくなった。  無関心だけが、二人の均衡を保ち、心をかろうじて“人”であらしめた。  すべて何の変化もない、薄暗い世界が続いていた。  ただ一つ、ユネの体力を除いては。  すでに、空腹を感じることはなくなった。  ただ、緩やかに惰眠だけを求めていた。  体は小刻みに震え、体温を保とうとしたが、それも限界が迫る。  華奢なユネに、寒さに耐えるだけの余力はない。 (最初から、死ぬとわかっていたのか)  ユネは、頼りない約束を恨めしく思った。 (くそ……)  始めの頃の楽観は消え去り、失望と、自分の浅はかさを呪った。  ヴァスは何も言わない。  ユネが求めれば、パンを分けてくれる気がした。  だが、彼の方から勧めることは、一度もなかった。  ユネの中にある、プライド。  ヴァスには、それが見えていた。  何度も、かわした口づけと、抱き合うようにして眠る時間が、それを証明していた。  愛も情もない。ただ、孤独に怯え、寒さに怯え、現実を忘れたいと願ったユネの心の隙。  そこに、ヴァスは差し入れ、求めるものを与えてやるだけだ。  それとて、そう頻繁にくれてやる気はなかった。   (意地をはるなら、はればいい。その分、俺はやりやすくなる)  そんな魂胆を秘めながら、ヴァスは黙って、弱っていくユネを眺めていた。  ヴァスの約束。 『首輪の者を堕とすこと』  その最も有効な手段は、こちらから突き落とすことではない。  相手が、堕ちてくるのを待てばいい。  そして、その崩れた自尊心も羞恥も、矜持も、何もかをすくい上げ、粉砕し、自分にはただ、堕落以外にないと思い知らせること。  それは残虐を極める。  人一倍誇り高いユネの心を、完膚なきまでに破壊し尽くすこと。  それで初めて、ヴァスは許され、ここを出ることができる。  ユネの目には、ヴァスが静かな岩壁の一部のように見えた。だとしても、彼の心は生きていた。  もしかすると、ユネ以上に激しく、感情に揺らめいていた。  ヴァスはユネを知らない。  いかなる理由でここに来たのか。  ユネがヴァスの理由を想像したのに対し、ヴァスは関心を持たなかった。  重要なのは、ユネの首に鉄の輪があるということだ。 『鉄の首輪の者を堕とせ』  それが、ヴァスが生き残る条件だ。  ユネが塔に投げ込まれた時、歓喜した。  時を数えることもしなくなった数日の先に、ようやく、チャンスが与えられた。  だが、ヴァスは焦らなかった。  主人の言葉を、慎重に吟味し、ユネを、ひたすら観察した。    一見すると、おとなしい華奢な青年だった。  金色の髪は上品にまとめられ、青い宝石飾りが似合いそうだ。  肌は白く傷もない。  手足もすんなりと伸びて、美しいと言えた。  胸板は薄く、骨盤も細いが、その内側には無駄なく活発な筋肉があった。  顔立ちは静かに整っていて、青緑の瞳は暗がりでもその美しさを感じさせる。    だが──  ヴァスにとって、最も興味深かったのは、その気質である。  とかく、気位が高い。  そして、苦労を知らない。  どれだけ甘やかされてきたのか。  この城にあり、ユネのような容姿を備えていれば、まず間違いなく、主人の手にかかる。だというのに、折檻の痕がない。  主人の加虐性は、誰もが知るところであり、私兵であったヴァスも度々、後始末をさせられた。  ユネには、その痕跡がまるでない。 (別の目的で、飼われていたか)  ヴァスは、簡単に判断することはない。  想像力は必要だが、根拠なき想像は目を曇らせる。  ユネが、手塩にかけて育て上げられた穢れを知らぬ人形なのだとすれば、主人が自分に命じたことも、合点がいった。  時をかけ、手間と金を費やし、自尊心を満たして完成させた生きた玩具。それが、ユネ。  そして、そのユネが心砕かれて劣情に落ちていくさまを見るのが、主人の快楽。  自分は、そのために選ばれた、駒。  ヴァスは、ゆっくりと、その筋書きに納得を覚えていった。  裏付けるように、ユネの気性はきつかった。  寒さに震え、肌を重ねなければ凍えると解っている状況においてさえ、ヴァスにすがることはない。 『お前がしたいなら、許してやる』  その態度を崩さない。 (それがどこまで持つか)  ヴァスは冷静に時を計った。  ユネが弱りきってしまえば、殺してしまう。  役を果たせなかった自分は、鎖に繋がれたまま、斬られて終わるだろう。  ヴァスには、ユネを恨む理由はない。  手荒くするつもりもない。  ただ静かに、その心と体に忍び入り、支配するだけで良い。

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