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第7話
不味いパンを食らうのも、体を温めるためだった。
ユネよりも暖かな体は、何も持たないヴァスにとって、獲物を引き寄せる餌である。
自分自身が、生贄だ。
恨むではないが、ヴァスにはユネの気質が鼻につく。
情け深く、まるで、おまえのために付き合ってやる、という顔をする。
触れることを『許して』やる、と。
その実、凍えてたまらないのはユネのほうなのだ。
弱いふりをして、こちらの良心に付け入ってくる。
腹の中では、優越感に浸りながら。
ヴァスには、それが一番、気に入らない。
だが、裏を返せば、それは好都合だった。
もし、首輪の相手が、本当に心弱った優しい人間であったなら、ヴァスは己の命と引き換えに、蛮行に及ぶことをためらっただろう。
ヴァスとは、そういう男であった。
城に囲われた、数知れぬ娼婦の息子として、父も知らずに生まれ落ちた。
恵まれた才能で私兵として徴用されたが、それを疎んじた他の女に、母を殺された。
大切な相手を守れるほどに強く。
ヴァスはその一念で腕を磨いた。そして、主人の性暴力に苦しむ執事を愛した。二人で誓いを立て、その逃亡を手助けした。だが、それはあえなく失敗に終わった。
主人をなじった声を潰され、色のために裏切るならば、色をもって支配を成せば助けてやると命令を受けた。
(ここを出れば、あの人を、救うことができる)
それはあまりに儚く、壊されてしまうかもしれない希望。
しかし、ヴァスには唯一の道だ。
(ユネ、すまないな)
ヴァスは大扉を見上げた。
格子の窓の向こうに、東の塔が見える。
あそこで、主人は自分たちの苦しむ様を見物しているに違いなかった。
(見ていろ)
たとえ、道化だとしても、最後まで足掻いてやる。
ヴァスは、鎖の先で手足を縮めているユネを見た。
ユネの体には、昨日の夜、ヴァスが自分を撫でた指先の感触がまだ残っている気がした。無意識に喉を鳴らし、手で膝を抱える。
心臓の鼓動が、鎖の小さな揺れと同じくらい規則正しい。
指先が、潰されるように冷たく傷んだ。
体を寄せ合い、かわした熱。
乾いた喉にしみこむヴァスの気配は、ユネの内側に柔らかく熱を生んだ。
直接触れずとも、牢の寒さが遠のいた夜。
(あれくらい……どうということもない)
言い訳を、正論に置き換え、自分を正当化していく。
布越しに触れ、唇の熱を交わし、寒さをしのぐ。
それがどうだというのだ。
生き残るために、誰だって同じことをするだろう。
ヴァスに向ける目に、今までとは違う期待がちらついた。
(触れるだけ……昨日と、同じだけ……)
ユネの心に、毛筋ほどのヒビが入る。
その隙間から、闇に似た色をした感情が這い出し、裂け目を溶かすように間を広げていく。
それは徐々に、ゆっくりと。
ユネ自身にさえ、わからぬほどに。
(こいつは、どんな顔をするだろう)
その考えが、ほんの一瞬ユネの中に生まれた。
まるで、魔がさしたような、危うい願望。
外に助けを求めることもできないこの塔で、ヴァスは唯一の人間だ。
感情が通じ合う、たった一人の知性。
それは他に得難い刺激だった。
(自分に好きにされたら、どんな顔をするだろう)
それが見てみたい。
ヴァスは、パンを、食べた。
もう、十分なほどに。
(効いているはずだ)
ユネは膝をつき、床の冷たさを手のひらで感じながら、そっとヴァスへ近づいていく。
鎖が短く鳴り、ヴァスの黒い瞳がゆっくりとユネに向けられる。
二人の視線の交差。
ヴァスはユネに、ほころびを見る。
ユネはヴァスに、余裕を向ける。
噛み合わない、想いの交差。
緊張と期待がユネの喉を締め付ける。
ヴァスは何も知らないのだ。
ユネが待ち続けた意味を。
(もう、僕に勝てない)
ヴァスの体の内側から、ユネに味方する目に見えない力を感じる。
今だ。
ユネが手を伸ばし、ヴァスはそれに遅れた。
二人の間合いが重なった。
数秒、見つめあう。
牽制と、支配が、どちらからもうかがえた。
指先が指先に。
冷たくも、温かくもない。
ただそこに生きている証のような微かな熱。
互いに容赦なく、願望が衝突する。
(生きる価値を、証明する)
(ここを出るために、お前を堕とす)
知ることのない、相手の胸の内。
ユネの呼吸が、浅く弾んで腕を引き戻そうと震えた。
だが、ヴァスはそれを譲らない。
その瞳は、何も語らずただユネを見つめている。
ただ、腕力だけならば、ユネに勝ち目はない。
その、はずだった。
だが、ユネを抑えるヴァスの力は、想像よりはるかに弱い。
どこまでも、自分は上に立つ。
凍りついた小さな歪みが、笑うようにユネの口元を綾どった。
(やはり、な)
ユネの想像は正しかった。
(もう、壊れ始めているんだろう?)
冷静なユネの思考が、無慈悲に見極める。
ユネはもう、逃げなかった。必要がない。
そっと、ヴァスの手に自分の手を重ね、ゆっくりと握りしめた。
まるで、こちらから与えるというふうに。
ヴァスの指先が素直にそれを受け入れ、撫でるように絡めてくる。
甘えか、優しさか、情欲か。ユネには分からない。
一つだけ譲れないこと。
それは、自分が与える側であり、ヴァスが自分にすがりつく存在であるということ。
ユネのこわばった去勢は、すでにヴァスの知るところであった。
しかし、ヴァスは焦らない。
力づくで何をするのも自由だ。
だが、できるならば、ユネが望んで堕落へ身を投じるように。
主人はそのために、ユネの心をここまでに仕上げたのだ。
力で奪うのは生ぬるい。その程度のことで、あの狂った男が納得するとは思われなかった。
牢内には水の音と、金属の小さな反響だけが続いた。
その中で二人の手が繋がり、しばし時が止まる。
ユネの手は、ひどく冷たかった。
けれども、ヴァスが重ねた指先の下に、確かに脈動する微かな熱があった。
ユネの心臓が、鎖の金属音と同じリズムで早鐘を打つ。
長い指が動いた。
ヴァスはゆっくりと、ユネの手を握り返した。
その圧力は弱く、あまりに静かで穏やかだ。
それはユネをいたわっているようでもあり、生殺しにする加減でもあった。
ユネの喉奥で息が震える。
自分が優位に──
その思いが、ほんのわずか、揺らいだ。
ヴァスの黒い瞳が、初めて僅かに細められた。
月光が瞳の奥に差し込み、深い夜の色の中に何かが一瞬灯る。
(……こいつも、何かを……)
企み。
ユネはそう思ったが、同時に胸の奥が奇妙な期待に染まり始めていた。
ヴァスの指先に込められた力が、わずかに強まった。
優しさにも、支配にも取れる圧。
(違う。満たすのは僕のほうだ)
ユネは目を逸らせずにいた。
ヴァスの瞳が、まるでこちらを試すように動かず、ただ真っ直ぐにユネを見据えている。
鎖が、ガラリと鳴った。
金属の冷たい音が、二人の間の沈黙を引き裂く。
しかし、どちらも口を開かない。
この塔では、言葉はあまりにも軽い。
(……こいつを……)
ユネはゆっくりと、ヴァスの手にもう一度力を込める。
ヴァスの指先が、反応するようにユネの指を包み込む。
ユネの心に震えが走った。
優位なはずの自分に、得体の知れない焦りがあった。
どこまでも、ヴァスの仕草に惑わされていく予感が、胸をかすめた。
ヴァスの視線が一瞬だけ逸れ、また戻る。
そのわずかな動きが、ユネにはヴァスの内面の乱れのように思えた。
(こいつは、何を思っている……?)
わずかな仕草、その眼差しから深く想像を巡らせる。
(僕が、全て取る)
次の瞬間、ヴァスがゆっくりとユネの手を引いた。
ユネは抵抗しなかった。引かれるまま、ヴァスの膝元まで体が滑る。
ヴァスの指が、ユネの髪に絡まる。
かき分け、後ろに回り、頭を優しく抱き寄せた。
ユネはヴァスの膝に頬を寄せ、そこから伝わる微かな体温に身を任せる。
(……僕は、ここで生き延びる。そのためなら、どんな役目でもいい)
ヴァスの指先が背中を撫で、ゆっくりと腰まで下る。
ユネの体が僅かに強張るが、ヴァスは何も言わず、ただ無言でその動きを続ける。
(いいさ、甘えればいい……)
牢内の空気は冷たい。
だが、ユネが触れているヴァスの体には、確かに生きている者の温度があった。
(残り、どれだけあるか知らないけれど……)
時折、ぞくっと震えるたびに、ユネは自分に言い聞かせる。
(その時間を、少しでも、楽しませてやるよ)
夜が深まれば、塔の空気はさらに冷え、湿気が肌を刺す。
細い窓の向こうには、ちらちらと白い雪が舞い始めていた。
ユネはヴァスの膝に頭を預けたまま、微かに瞼を震わせた。
眠気があるはずなのに、体の奥が妙な緊張で熱を帯びている。
(また……)
ユネは伏せたままの顔を歪めた。暗い感情が、徐々に内側からせり上がってくる。
(与える存在、与える……)
繰り返す言葉は、次第に心の揺さぶりに負けて弱くなる。
ヴァスの指先が、ゆっくりとユネの髪を梳いた。
その動きはいつもと同じはずだった。
けれど、どこか違う。
指の腹が耳の後ろを通り、首筋に沿って滑るたび、ユネの体は無意識に微かに反応した。
(……きみが悪い)
ユネは吐き捨てた。
どこまでも甘やかすようなヴァスの態度。
指先の軌跡は、徐々に髪から肌へ移り、首筋の柔らかな皮膚を軽く撫でた。
(どうするべき……?)
髪にも、頬にも、百歩譲って首にも、触れることは許そう。
だが、それ以上は危うい。
危害が及ぶとは思わないが、ユネの体の望まない変化が誘発される。
呼吸が乱れる。
ヴァスは気づいているのか、いないのか。
何も言わず、ただ指を肩へ滑らせる。
ひくっと、肩が縮む。
服越しに感じるその圧力は、これまでより少しだけ強い。
荒い麻の、頼りない布一枚。
ヴァスの手に合わせて、鎖がわずかに鳴る。
金属音が牢内に響き、ユネはその音に胸が震える。
(なんだよ、これ……)
期待、という言葉が、真っ先に脳裏に浮かんだ。
慌てて打ち消しても、残像のように離れない。
ヴァスの指が今度は首輪の縁に触れた。
そこから首元へと沿う動きに、ユネは喉を詰まらせる。
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