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第15話

   体の前に抱くのは、あまりに柔らかく儚いシアド。  背後を支配するのは、かつて己が蹂躙した獣のごときヴァス。 「……あぁ……ユネ……」  遠くで、けれど確かにシアドの声がする。  あの声は、まだユネを呼んでいる。  必死に。切実に。  だが答えられない。  返す気力はもう、ユネには残っていなかった。  耳元に後ろからかかるのは、滲んだ吐息。  生温かく、粘つくように首筋を舐めるその音が、ユネの脳裏に不快にも甘い震えを走らせる。  言葉にすらならない、低く唸るような声。  ――そうしてしまったのは自分だ。  ぼんやりとした意識の奥で、ユネはそう思った。  自分が選び、自分がこの檻に導いた。  そして今、その代償を払っているだけ。  涙が溢れる。  それが誰への、何に対する恨みかも、もう分からなかった。  ただひたすら、胸の奥が苦しく、嗚咽を堪えるたび、熱いものが喉に絡まる。  シアドの声が、ユネの崩れかけた精神を辛うじて繋ぎ止めていた。  背後から這い寄る支配の影が、その細い糸をも容赦なく断ち切ろうとしていた。  時間はもう、ユネの中には存在しなかった。  一秒が永遠に伸び、永遠が刹那のように縮む。  唯一、時を刻むはずの水の滴る音さえも、いつの間にか耳に届かなくなっていた。  代わりに、聴覚を満たしているのは――  甘く、えぐるようなシアドの声。  どこかで聞いた、切なくも美しいその響きが、ユネの内を震わせ続ける。  そしてもう一つ、低く唸るヴァス。  濁った深い底から湧き上がるそのあぶくのような音が、ユネの皮膚を通して骨にまで伝わり、全身を蝕んでいく。  二つの音が絡まり合い、まるで世界のすべてがそれだけで成されているかのようだった。  外界の気配は遠く、色も温度も消え失せ、残ったのはただ、音と震え、そして締め付ける鎖の感覚。  ガチリ、と微かに鎖が鳴る。  首元を締め付けるその硬質な束縛が、ユネをこの現実に繋ぎ止めていた。  鎖に抱かれている――  ユネはそう、思った。  逃れられない。  この冷たくも甘い鉄の感触が、いつしか腕の温もりよりも愛しいとさえ。  月が静かに空を回してゆく。  ユネの意識はただ、響き渡る声と音に支配されていた。 ・  自分は、何度限界を迎えただろうか。  肉体が軋み、魂が震え、そのたびに胸の奥深くから甘美で生々しい熱が迸る。  それはシアドとの間に蕩けるように満ち溢れ、ユネの中を柔らかくも狂おしい光で照らした。  背後のバスは止まらなかった。  冷酷なまでに一定のリズムでユネの体を貪り、骨の奥にまで響くような衝撃が繰り返し押し寄せる。肉が揺れ、神経が焼け、意識が白濁していく。  放たれる一瞬、痛みが遠のく。  代わりに襲ってくるのは、激しい熱――  体内に溢れ出すその灼熱が、ユネを溶かし、形なきものに変えていった。  果てしなく繰り返される激情の波は、寄せても返すことはない。  どこまでもせり上がり、上下も左右もわからぬほどに、すべてを飲み込んだ。  全身を覆う汗は冷めることなく、吐息と混ざり合い、籠の中にむせ返るような生温かさを生む。  呼吸が浅くなり、脳の奥で熱が膨れ上がる。  思考の輪郭が崩れ、ただ甘い痺れだけが残った。  外では雪が、ひたすらに、しんしんと降り続いていた。  その白い静寂は、この世の音を優しく消し去り、まるでこの籠だけを別世界に隔てているかのようだった。  そして籠の中は――  あまりにも熱かった。  吐息の湿度、肌の温度、鎖さえも今は熱を帯び、三つの魂が一本の鎖に絡め取られ、吊るされていた。  ユネはぼんやりと、遠い意識の奥で思った。  このまま時が、終わるのだ、と。  肉体も、心も、世界さえも。  全てがこの籠の中で溶け合い、消えてしまえばいい、と。  閉じたまぶたを開ける気力すら残っていない。  時折、首がぐいと引かれるが、もう慣れきってしまった。首輪によって傷ついた喉の柔らかな皮膚は赤く腫れ、めくれている。このまま無惨な跡が残るだろう――それだけが涙を誘った。  自分に触れるものは何もない。  熱も冷気も、吐息も匂いも、何一つ感じられない。  それなのに、すぐそばに気配があった。  押し殺したような声が、静かに自分の脇で響く。  これにも、もう慣れていた。  鎖で縛られる日々は、一人になることを許さない。  何をするにも、すべて相手に見られ、相手のすべてを目に映しながらも、心には残さない。そうして、自我を保ち続けて――  短い吐息が、何度も耳の奥に響いた。  聞き覚えのある声。そう、それは自分を呼んでいた。 ――あの声、だ。  その時、大きく鎖が揺れ、ユネは思わず目を開いた。  うっすらとまぶたの影が視界を覆う。少しずつ、あたりの様子が映し出されていく。  闇の中で、何かが揺れた。  白い二つの塊。それが人間だと、徐々に意識が追いつく。  自分のすぐ片側に、シアドが横たわっていた。  体をこちらに向け、あの醜く歪んだ顔を、恥じることもなく晒している。  その表情は恍惚として、しかし既に感情を表すだけの機能はなく、半開きの口から何かが垂れていた。  そして、その声は苦しげに――それなのに、甘く響いた。 「……ごめんなさい……」  か細い声が、ひたすら、一言を繰り返していた。  何に対する謝罪なのか、想像する気さえ起きなかった。  頭がしびれ、考えることを放棄していた。  シアドの体は、鼓動するように、全身が揺れていた。  まるで、剥き出しにされた心臓のようだ。  時折、その白い肌が不規則に波立ち、言葉の端を嬌声が裂いた。    ユネの目が、さらに動くものを捉えた。  シアドの下腹部のあたりに、もう一人――自分の左手の先にいる男。  初めて見る光景だった。  掲げられたシアドの脚の間で、ヴァスはゆっくりと動いていた。水音と、肌が打ち合う音が、鈍く、湿った響きを立てる。大きなヴァスの手が、シアドの白く柔らかな腿を押さえ込み、そこに深く、濃いつながりを生んでいる。  薄く開かれていたヴァスの目が、ちらりとユネを見た。  ユネの全身が硬直する。目の前で行われている、そのすべてが現実とは思えなかった。何より、それを受け入れているシアドが――。 「……ごめんなさい……」  それは、自分に対してなのか。    何が起きているのか。ユネは、混乱の極みにあった。  薄ぼんやりとした月の光が、白く空気を染めていた。  その中で、断続的に響くシアドの快楽の声と、素直に受け入れる腰の揺れ。  ひたすらに与え続けるヴァスの動き。  ユネは細く息を吐いた。  ヴァスの目は、はっきりとユネを見つめていた。 『これは、最初から、俺のもの』  ――そんな声が頭の中に響いた。  ユネはヴァスを見返した。  そして、ふと異変に気づく。  ヴァスの目の奥に、今まで見たことのない、淡く暖かな光があった。  自分から獲物を奪った獣――ただそれだけではない。そこには、明らかに何か違う感覚が宿っていた。 (ああ、そうか)  ユネに確証はなかった。  だが、自分を通して、左右の手をつなぐ鎖の因果が閃いて見えた。  既にシアドは、ユネのものではない。  だが、ユネはそのことに落胆しなかった。 『いらない』  ただ、それだけだった。  自分には、もっとふさわしいものがある。  このように傷つき、損なわれたものは、もういらない。  父が切り捨てたように。  もっと与えられるべき、ふさわしいものが、自分にはある。  ひたすら耳の中に響く、シアドの声。  今は、ただ、耳障りなだけ――  その時、遠くから音がした。月の光に導かれるような、長く尾を引く鐘の音。  すでに聞き慣れた、はね橋の合図。  一度、二度、三度……ユネはぼんやりと数えた。  そして、それが最後の十五回目の響きをもたらしたとき、ユネの体に命が蘇った。  それは、ユネが待ち続けてきた瞬間だった。  解放の時――。  ユネは力を振り絞り、肘で床を這った。体が擦れて傷つくことも、鎖で繋がれた二人のことも、もはや意識になかった。  腕を伸ばし、石の扉の端に爪をかける。倒れ込むようにして、扉を押し開けた。  閉ざされていたその扉は、重く軋む音を立ててあっけないほど簡単に開いた。  解放への道。  空には、煌々と照る月があった。  丸く、明るく、満ち足りて、完璧な月。  自分は、あの月になる。  ユネは手を伸ばした。  そして――身を乗り出した。  鎖が激しい摩擦音を響かせ、のたうつ音を立てた。  ユネの全身が宙に浮いた。頭上には、黒々とした海がうねり、波が低く呻いていた。扉の先に道はなく、黒い風だけが、そこに待ち受けていた。  本能のままに、ユネは腕を伸ばした。触れたものにしがみつく。  それは暖かくはない。だが、冷たくもない。  柔らかくはない。だが、傷つけるほどの硬さもなかった。  ユネが掴んだのは――ヴァスの腕だった。  崖の中腹、扉から垂れ下がるユネの体を、ヴァスの腕一本が支えていた。その向こうで、かすかに自分を呼ぶシアドの声がした。だが、彼には何が起きているのか、きっとわからない。  ヴァスは、じっとユネを見つめていた。  ユネもまた、それを見返した。  二人の間には、わずか数日の記憶。  支配と屈辱、そして噛み合わない二つの心。  だが――今、その二つは一つになった。  しっかりと握られた、その手。  一つの言葉。  一つの思いが、そこにあった。 「――生きる」  ユネは微笑んだ。  それは、彼がヴァスに見せた初めての本心だった。  ヴァスもまた微笑んだ。やつれた顔に浮かぶ、彼自身の真実の心だった。  そして、ヴァスは静かに、指を開いた。  時が、一瞬だけ止まり、一気に動き出す。  凄まじい音が響き、ユネの体重は首輪一本にかかった。  聞き覚えのない、粉砕の音がユネの首で鳴った。  ユネはそれを、どこか遠くで聞いていた。  首輪はちぎれ飛び、月光を弾いた。  支えを失い、ユネは、待ちわびた解放を迎えた。  鎖から解き放たれ、風の中へ。はるか、はるか闇の風の中へ――。  海はユネを飲み込み、黒い波の底に沈めていった。  ヴァスの腕に、ゆっくりと、鎖が音もなく揺れていた。  暗闇を見下ろすヴァスの後ろに、シアドが立っていた。  ヴァスはシアドを振り返った。  焼けただれたシアドの目が、歪んだ形に開かれている。  その目が何を見ていたのか、あるいは何も見ていなかったのか――真実は、永遠に闇の中である。 <完> <あとがき> やってしまった、闇夜に舞い散るカラスの羽のごとき闇のファンタステッィク! すべては、本命「新月の光」のための練習作! 【新月の光】https://fujossy.jp/books/29689 「やおい」とはまた全く違うものとして、外して書きました。 「闇〜」いかがでしたでしょうか。 この、新月対称作品群は、その名の通り、新月では絶対にやらない展開をあえてやる、という目的で作成しております。 あえて真逆を行うことで、自分自身の作風を広げるための訓練です。 「闇〜」が気に入らない方にこそ、新月を読んでいただければ嬉しいです。 今後、書き直しの上、書籍化いたします。 最後までご覧いただきまして、まことにありがとうございます。 また、どこかでお会いできれば幸いです。 2025年夏 恵あかり 拝 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― 【これより、考察の答え合わせとなります】 ・完全ネタバレなので、読みたくない方は回れ右してください。 ここに、それぞれの姿を暴露します。 考察したい方は読まないでください。 行間・関係性・一言に気づく、など、細かい読解をしないと、ギミックを読み解けないため、どうしてもわからない、という方だけ、ご確認ください。 普段はやらないのですが、敢えて書きますよっ! ↓注意! ↓注意! ↓注意! ↓注意! ↓注意! ●ユネの正体  城主の子供(大量にいるうちの一人)。  子供の頃からプライドが高く、自分が欲しいと思ったものは譲らない性格。  シアドのことは気に入っていたが、父である城主の支配下にあったため、なかなか手を出せない状態にいた。  父のものを奪ってやる! という欲望も湧いて、結果、シアドをいきなり寝とる。シアドはすでに城主に洗脳状態にあり、自分に言い寄ってくる相手は拒まない心理状況。  ユネのこともまるで「恋人」のように献身的に尽くす。そのため、ユネはシアドを手に入れたという錯覚を覚え、シアドが城主よりも自分を選んだと思い込む。  城主に勝った、と優越感を覚えるが、すぐに城主に見つかり、引き離される。  城主はユネに「素質」を期待しており、牢獄のチャンスを与える。  牢獄でシアドに再会するものの、城主が「不要」と判断したことを知り、自分も興味をなくす。  作中で、「支配の快感に目覚めていく」。 ●ヴァスの正体  城内に囲われている娼婦の息子。城主の身辺の警備に当たっていた。  城主からひどい仕打ちを受けていたシアドに恋をする。助けるために逃亡の手引きをするが、シアドにその意思はなかった。シアドはヴァスに騙されたふりをして裏切り、反逆者して城主にヴァスを突き出した。しかし、ヴァスはシアドが脅されているのだと思い、一途にその愛を信じる。  ユネを堕とせばシアドも助けられると思ったヴァスは、ユネを手にかけようとするが、元々の優しさのために非情になりきれない。  やがて、シアドが投獄され、目の前でユネと睦み合う姿を見る。シアドが登場してから、ヴァスはユネを見ているようで、実はすべてシアドに向けての目線と心内語として書かれている。  自分が騙されていたこと、を知り、心が崩壊する。  どこまでも非情に転換し、崩れていく。 ●シアドの正体  城主の執事であり、性奴隷。城主に完全に支配されており、ユネに対してもヴァスに対しても本気にはならない。  二人を翻弄した張本人。  牢獄でユネと再会し、生き延びるためにユネの思いを利用、従順に振る舞う。  一方、ヴァスの恨みを買っており、その執着によって犯される。 「ごめんなさい」と訴えるシーンがあるが、あれはユネに対してではなく、ヴァスに対する言葉。  目の傷が見えているかどうかは不明。 絶対的に城主に服従している彼が、本当に無残な傷を負わされるだろうか。  崖っぷちに佇むヴァスと、それを突き落とすこともできる位置に立つシアド。  そのすべてを城主が見ているとしたら?

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