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第14話

 だが同時に――背後から迫るのは、正反対の破壊だった。  冷たく、しかしどこか粘ついた圧力が、脳髄まで這い上がり、ユネの呼吸を鈍らせる。ヴァスの存在が、ユネの誇りの奥底にまで踏み込み、打ち砕く。  痛み、屈辱、そして圧倒的な敗北――  守り通してきたはずのものが、ヴァスの一動作ごとに、粉々に砕け散っていく。  ヴァスの律動は冷酷で、ユネが己の誇りに縋ろうとするたび、それを無慈悲に叩き潰した。 「……っ」  ユネはシアドを抱く腕に、爪が食い込むほどの力を込めた。  崩れかけたものを、この柔らかな存在から受け取り、どうにか取り戻そうとする。しかし、そのたびに背後からヴァスの冷たい圧が押し寄せ、奪い取っていく。  ユネの中に積み重ねられるのは、もはや言葉にならぬ感情だけだった。  それはひと所に溜まることなく、流れる水のようだった。  ようやく手に入れたものも、ヴァスの無機質な動きに粉砕される。  得るそばから崩れ、満たされるはずの空洞は再び黒く、深く広がり続ける。  何も残らない。  通り過ぎる、形の定まらぬ感情。  怒りか、憎悪か、絶望か、それとも――  ヴァスが自分を突く動きのままに、シアドを突いた。  いや、ユネの意志ではなく、ヴァスの意志がシアドまで支配する。  いつしかユネは、声を上げて泣いていた。  己の涙の意味すら分からず、ただ、シアドの肩に頬を押し当て、壊れかけた心の破片を拾い集めようとしていた。 「嬉しい……」  切れ切れに、真実の見えないシアドは声を震わせた。  ユネは、こんなにも必死に自分を求めるてくれている。  シアドには全てが幸福の結果として受け取られた。  その熱情は、シアドの心深く、決して外れることない鉤として食い込んでいく。  抱き締める腕の中で、シアドが甘くすすり泣く。  その泣き声はユネを慰めるはずのもの。しかし、今や胸の奥を鋭く刺す刃のようだ。  ユネはその細い肩に顔を埋め、滲む涙が白い肌を濡らすのも気づかぬまま、ひたすら己の存在が崩れていく音を聴いていた。  背後から迫るヴァスの冷たい身体が、ユネの背中を蝕む。  肉を貫き、骨まで侵食し、やがて心臓にまで喰らいつく感覚。  それがユネの精神を削ぎ落とし、守り続けた何もかもが、音を立てて瓦解していく。 「……もう……やめ……」  喉の奥で掠れる声。  しかし、それは自分に向けられた哀願だった。 「いやだ……」  震える声は、もはやユネ自身のものかすら分からない。  抗う術はどこにもなかった。  ヴァスの動きが、また一つ、ユネの奥底を砕く。  砕け散った破片は、シアドの肌に溶け、ヴァスの冷たい圧力に押し潰され、音もなく泥のように崩れていく。  ユネはかすれはてた声で、泣き続けた。  それは涙であり、嗚咽であり、もはや断末魔に近いものだった。  体の奥深く、二つの自分がひしめいている。  食いつく自分と、食われる自分。  望む自分と、望まれない自分。  満たされる自分と――そして、引き裂かれる自分。  その二つが、絡み合い、軋み、血が滲むほどに噛み合っては、またすれ違う。  まるで、鎖でつなぎ留められた三匹の獣が、互いの肉を裂き合うかのように。  ユネは胸の中で、心臓の鼓動を数えていた。  だがそれは、もう彼自身のものではない。  心も、肉体も、すべてはとうに掌から零れ落ちていた。  誰のものなのかも分からない。  熱が、痛みが、甘い痺れが、彼の思考をじわじわと蝕んでいく。  ユネの唇から漏れる吐息は、焼けつくように熱いのに、肌を撫でる掌は冷たい。  柔らかく、愛おしいと思えるはずの体が、自らを苦しめる枷となり、その奥深くから溢れ出すのは、抑えきれぬ衝動。  背中を這い上がる粗い掌。  乾ききった、まるで年老いた木肌のような皮膚が、ユネの柔らかな肌を荒々しく削る。その感触は、ヤスリが骨にまで届くような苛烈さで、過敏に澄んだ神経は悲鳴をあげ、快楽と苦痛の境目は朧げになった。 「……あぁ……ユネ……」  耳元に、甘く、切なく、融けるような声が忍び寄る。  シアドの声。  それは懇願にも似た響きで、ユネの心をいっそう締め付けた。  自分がここに生きているという実感が、胸の奥で確かな形を持ち始める。  もっと欲しい。  もっと深く、もっと強く、自分のものにしたい。  甘やかな声が一滴ずつ心に落ち、やがて胸の奥で熱を孕んだ海となる。  シアドの体温、微かな吐息、そのすべてが、ユネの内側を埋め尽くし、支配の色を濃くしていく。  外の世界は遠く霞み、ここには二人の体と、甘美な罪だけがある。  自分が、確かにここに生きている――  その実感が、骨の髄までありありと満ちていた。  呼吸一つごとに、喉の奥から熱が滲む。  指先がわずかに震え、肌の下を血が奔るたび、ユネは己の存在の輪郭をひりつくような鮮烈さで感じていた。  この悦楽の海に、溺れていくことが許されるなら――  あまりに深く、あまりに甘美に。  骨が軋み、筋肉が微かに痙攣するその感覚に、ユネはひたすら身を委ねていた。  その二つが渾然一体となって、ユネの精神を柔らかく溶かしていく。 「……このまま……」  吐息に乗せて漏れ出す、消え入りそうな声。  自らも気づかぬうちに、ユネは願っていた。  この刹那が終わらないことを。  自分がここに、生きている――。  その確かな実感が、皮膚の内側からじくじくと湧き上がり、骨の髄まで染み渡っていく。  呼吸するたび、喉の奥で熱が跳ね、胸郭が震えるたびに、ユネは己の存在をいやおうなく思い知らされる。  この感覚を、決して手放したくはない。  このまま、生涯が過ぎてゆくならば、どれほど幸せだろう。  背徳的で、狂おしいほどに甘美なその希望が、ユネの目の前にぼんやりと浮かぶ。  輪郭は歪み、陽炎のように揺らぎながら、しかしその色だけは驚くほど鮮やかだ。  紅、紫、黒――混ざり合いながら滲む色彩は、ユネの視界をじわりと塗り潰していく。  悦楽の海に溺れることができたなら。  もしもこの熱が永遠に続くのなら――  ユネは体の半分で、その陶酔に浸りきっていた。  腰から上は、柔らかな愛撫に満たされ、胸元は甘く痺れるような疼きに囚われる。  だが、背中では粗暴な掌が攻め上がり、粗雑に指先が肉を抉る。  その相反する感覚が、体の内奥でせめぎ合い、甘美な戦慄となって神経を焼いた。 「……あぁ……」  喉奥から洩れる声は、もはや自分のものではない。  押し出されるように、背後から与えられる熱がユネの体をじわりと貫き、快楽と苦痛の境界は消えた。  ユネは知っていた。  この深淵に堕ちることが、自分の破滅を意味することを。  だが、それでも――溺れたいと願った。  この暗く昏い悦楽の海の底へ。  ユネは体の前半分で思い、背中では別の男が自己を貪っている現実を飲み込んでいた。  背後の存在はあまりに冷徹で、情に欠けている。  使い古されたボロ切れのように、かつては役に立ったものだが、今となっては不要で、触れられることすら拒絶したいはずの存在。  それなのに、背中を這い、腰を無遠慮に撫で回すその手は、ユネの深奥にまで楔を打ち込んでくる。  その衝撃は、まるで鋭い鉄杭が内側に突き刺さるかのように容赦がなく、柔らかく愛しいシアドの感触とは対極にあるものだった。 「……っ……!」  喉奥で声が詰まる。  ユネは目を閉じ、必死に前を見ようとする。  愛おしい体を抱きしめながら、後ろにいる獣を忘れようとする。  だが無駄だった。  背後から与えられるそれは、快楽でも、喜びでもない。  そこにあるのは、支配と屈辱。  ユネの心の奥深くまでねっとりと絡みつき、彼の尊厳を少しずつ、しかし確実に削り取っていく。  それはあまりにも強烈だった。  突き上げるように繰り返される衝撃が、ユネの体を内側から破壊し、骨と肉の境界を乱暴に踏みにじる。  思考は、燃え盛る鉄で脳髄を抉られたように鈍く、まともな言葉も、理性も、すべてが熱に呑まれていく。  許しがたい。  信じがたい。  だが、なおもユネの神経はそれを感じ取り、皮膚の下で、絶えず苛烈な快楽と痛みが絡まり合い、心臓が無遠慮に打ち鳴らされる。 「……ぁ……!」  ユネの喉奥から、切り裂かれるような声が洩れる。  荒々しいその激流は、ユネが抱いていた憶測を、薄い紙片のように易々と破り捨てた。 (自分は支配される側ではない。これは一時の屈辱だ)  そんな小さな反抗の火種も、背後の存在が与える痛みと支配の熱に焼き潰され、灰になっていく。  支配を求める自分が、支配される悦びに打ち震える。  狂気は狂喜に変貌し、自己崩壊が止まらない。  ユネは歯を食いしばった。  まるで背骨ごと裏返されるように、衝撃が容赦なく押し寄せ、筋肉の奥深くまで震わせる。  体はもう、とっくに手放した。  自分で動く必要はなかった。何もかも、操られて高められていく。  快楽と苦しみが渦を巻き、ユネはひたすらに翻弄され続ける――  理性も、尊厳も、無防備に散らされながら。  体が、真っ二つに裂けていく。  背骨から、心臓から、すべてが裂かれ、肉と精神が断絶するような感覚に、ユネは必死に喉奥の声を飲み込んだ。  そして、そこから与えられるものは――  快楽という軽々しい言葉ではとても追いつけない、体のもっとも深い場所から湧き上がる、抑えがたい衝動。  胸の奥で弾け、脳髄にまで届き、やがて限りない浮遊感へと変わっていく。 (ああ、堕ちる!)  ユネは、己がどこまでゆけるのかを知りたかった。  いや、もう知ってしまったのかもしれない。

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