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第13話
ユネの指は、ゆっくりと、そして執拗にシアドの柔らかな部分をなぞり続ける。その動きは愛撫というにはあまりに濃密で、まるで細胞の一つひとつに自らの存在を刻み込むかのようだった。
シアドは素直だった。
否、素直であるよう、すでに教え尽くされている。
主人のために快楽に身をゆだねることを、彼の体は覚えきっていた。わずかな刺激にも過敏に応じ、肩を揺らし、幽かな吐息を漏らす。
その声は、欲望に呑まれた浅ましい喘ぎではない。むしろ、ユネの渇きを慰めるためだけに紡がれる、無垢で甘い音色だった。
まるで、夜明け前の林に響く小鳥のさえずり。
乾ききった喉から絞り出されるヴァスの濁声とは、比べることすら冒涜に思える。
ユネは薄く笑った。
「おまえと……まるで違う」
ユネはシアドの柔らかな体を腕に抱き寄せながら、なおもヴァスを見据えていた。
その視線は、鋭い刃のように張り詰め、暗がりの中で鈍い光を放つ。
「おまえとは違う」
こちらが果実だ。甘い蜜を滴らせ、指先が触れるたびに新たな命を宿す芳醇な果実だ。
おまえはもう不要だ。枯れて、干からび、齧り尽くされた皮だけを残す、おぞましい残滓だ。
言葉にせずとも、ユネの思いはその目に宿り、ヴァスの心に突き刺さった。
だが――それでも。
一本の鎖が三人の体を繋ぎとめる。
鈍く冷たい鉄の感触は、ユネの首筋にもヴァスの手首にも、等しく食い込んでいる。それは逃れようのない現実であり、どれほどユネがシアドを欲し、その温もりに溺れようとも、わずかに腕を伸ばせば、すぐそこにヴァスがいる。
湿り気を帯びたその目は、夜の獣のように、微動だにせずこちらを見返している。
ユネはじっと、息を殺して睨みつけた。これは牽制だ。
(近づけば――覚えておけ。ただでは済まさない)
ユネの目の奥に宿るのは、相手を威嚇する、冷たい焔だった。しかし、ヴァスの目は一向に逸らされることなく、むしろより深く、ユネの核心を抉るように射抜いてくる。
「……羨ましいか?」
ユネの脳裏を、冷たい皮肉が掠める。
だが、すぐにそれは打ち消された。
ヴァスの目に映るものは、ユネではない。欲望に濁った視線でもない。
むしろ、深く澄んだ、ある種の執念に似た光が揺らめいていた。
凍てつき、そして燃えるような光だ。
それはユネが慣れ親しんできた、従属や渇望とは全く異質なものだった。
ヴァスが静かに動いた。
鈍い鎖の音が、石の床に、ジャリ、と低く、耳障りに響く。ユネの背後へと忍び寄るその気配は、蛇が獲物を狙うときのそれに似ていた。
ユネの腕は一層強くシアドを抱きすくめ、逃すまいと密着を強くする。代わりに、背中は無防備に空き、そこに、ヴァスの視線が落ちる。
ヴァスの手がそっとユネの首筋に触れる。
指先は氷のように冷たく、しかしその動きは恐ろしいほどに穏やかで――首輪の金具に沿ってなぞり、硬質な鉄と血肉の境界を確かめるようだった。
ピリリ――。
かさぶたの剥がれるような痛みが走り、ユネは僅かに顔を歪める。
反射的に首をひねり、その手から逃れようとする。しかし、ヴァスの手は決して離れない。
むしろしつこく、這うように追いすがる。
指先は狂おしいほどに執拗だ。まるでユネという存在を、皮膚の下から掴み取ろうとするかのように――。
「……やめ……」
ユネの声は低く震えていた。それは怒りの震えか、それとも、初めて感じる恐怖の震えか、自分でも分からない。
ただひとつ確かなこと。それは、決して口にしてはならない言葉だということだ。
(負けなど、ない)
ユネは唇を噛んだ。
ジャリ……ジャリ……
ヴァスの手が揺れ、鎖が石床を擦るたび、低く冷たい音が闇に滲んでいく。その単調な響きが、かえって不穏な予感を煽った。
シアドの耳がぴくりと動く。
光を奪われたその瞳の代わりに研ぎ澄まされた聴覚が、微かな音をも逃さず拾い上げる。
「……誰か……いるんですよね?」
シアドの声は震えているようで、しかしどこか熱を孕んでいた。
それは恐怖の震えではない。もっと柔らかく、湿った感情――
ユネはその響きに耳を傾け、薄く笑む。
(声だけは、まだ美しい)
そう思うと同時に、胸裏を焼くような焦燥が募る。
自分の腕の中で、今まさに溶けようとしているこの存在は、完全にユネのものであるべきだ。
だが、鎖の向こうに潜む影が、ふたりの世界に入り込もうとしている。それがわかる。
「気にするな」
ユネはシアドを抱きすくめた。まるで、もう二度と奪わせまいとするかのように。
露わになった肌は、夜の闇の中でかすかな光沢を帯び、ひどく無防備だ。触れた瞬間、ユネの掌が、心地よい熱で焼かれる。柔らかく、しかし確かな弾力がある。そこに宿る温もりは、人間であることの証――ユネの荒んだ指が、かつてこれほどまでに生を感じたことがあっただろうか。
指がわずかに握り込むと、シアドからは甘い吐息がこぼれ落ちる。艶やかな声が暗闇を震わせ、まるで長く耐えた痛みや苦しみさえ忘れてしまいそうな、蕩ける響きだった。
「……それでいい」
ユネは低く呟く。その声は自らへの宣告のようでもあった。
「お前はただ、感じていればいい」
シアドの反応が、ユネの中で何かを満たす。空洞だった心の奥に、熱い酒が注ぎ込まれていくようだ。
ああ、これだ。これこそが自分の存在意義――。
片手は突起を器用に転がし、指先で軽く摘まむ。その刺激にシアドは小さく肩を震わせ、口元から吐息が零れた。
ユネはシアドの胸に唇を落とし、柔らかな肉を捕らえて歯を立てた。
はじめは優しく、続いて貪るように強く――そのたびにシアドの白い肌に紅い跡が浮かび上がる。まるで花弁が一枚ずつ散り落ちるように、そこにユネの存在を刻みつけていく。
もう一方の手は、ゆるやかに脚の間を撫で続ける。熱を帯び、脈打つそこに触れるたび、シアドの体は抗うことなくユネにすべてを委ねていく。
完全なる従属。
ユネは深い満足に頬を緩めた。これでいい。これが正しい。
――だが。
ジャリ……ジャリ……と鎖が擦れる。
冷たい金属の音は、まるでユネの恍惚を嘲笑うかのように、静かに、執拗に鳴り続けた。
低く、冷たく、不可避の足音のように。
ユネの背に薄い汗が滲む。
ヴァスの指先が背をたどり、骨をひとつひとつ数えるように輪郭を辿る。
それがユネを苛つかせた。振り払いたいが、弱みを見せるようで動けなかった。
ひたすらに、ヴァスを無視し、ユネは伸ばした腕をシアドの腰に押し当てた。
反対の指先がシアドの下腹部へと滑り込む。布の抵抗は弱く、指先のわずかな力だけで音もなく剥がれ落ちていく。
「……してほしいのか?」
一瞬、そんな嘲りが心をよぎった。
だが、すぐに違うと悟る。
ヴァスの目はユネを欲するものではなかった。
その黒い双眸には、もっと別の、圧倒的な光が宿っていた。渇望でも憎悪でもない。言葉にできぬ強烈な何かが、じっとユネの存在を見透かすように燃えている。
「邪魔をするな」
視線だけでヴァスを睨みつける。だがヴァスは微動だにしない。むしろそのまま音もなく膝をつき、ユネの背後に身を寄せた。
冷たい指先が背をくだり、脇腹をなめてあやうく落ちていく。その動きは恐ろしく慎重で、だが決して拒むことを許さぬ強制力を帯びていた。
次の瞬間、ぞわり――。
ユネの背筋を冷たい何かが這い上がった。それが恐怖だと気づいたのは遅すぎた。
背後から押し寄せる圧は、決してユネが欲するものではない。それは異物だ。ユネの内側を侵食し、彼の誇りや理性を一瞬で侵す、異質で耐えがたい熱だ。
ヴァスの手が滑り、ユネの秘めた箇所に無遠慮に触れる。その刺激にユネは体を硬直させる。必死に震えをこらえるように、シアドの体を締め上げた。何も知らず、シアドは歓喜に身震いし、ヴァスの手は止まらなかった。
鎖が、無造作にユネの背に冷たく触れた。
ヴァスが軽んじる手つきで、ユネの腰骨を軽々と掴む。その冷たさに反射的に脚が閉じる。
「大丈夫……?」
瞬間、シアドの声が闇の中に響いた。
視えぬ瞳がユネの方を向く。その優しさは、あまりに無垢で、あまりに残酷だった。ユネの胸奥に針のように刺さる。
「黙れ……感じろ」
ユネの唇から漏れた声は、命令というより悲鳴に近かった。
シアドに向けたはずのその言葉が、まるで自分自身に言い聞かせるものになっていると、ユネは気づいていた。
その背後で――
ヴァスは静かに、確実に、ユネの奥へと体を沈めていく。
熱と冷たさがないまぜになった異質な感触が全身を這い、ユネの理性を凍てつかせる。
(冗談じゃない……こんな真似、許すものか……!)
ユネのプライドが、必死に抗い、暴れ、最後の一線を守ろうと足掻く。
低く唸るような声が喉奥から絞り出される。
しかし、ヴァスには何の意味もなかった。
その無言の動きはあまりにも冷酷で、まるでユネが自分に与え続けてきた屈辱を、そっくりそのまま返すかのようだった。
ユネの脚の間に、凶暴な力で侵入してくる圧迫感。
その重みが腰骨を貫いて響くたび、ユネの口から無様な呻きが押し出される。
「……ぁ……っ……」
同時に、ユネもまたシアドの中へと深く沈み込む。
肉と肉、熱と熱が、三人の体を鎖よりも強く繋ぐ。
ジャリ……ジャリ……と。
鎖が揺れ、三人の体が揺れる。
その鎖は、深く絡みつき、三者の運命をねじり合わせる。
ユネは視界の端に、奇妙な光景を見た気がした。
一つの影に溶け合い、もはや誰が誰に身を委ね、誰が誰を侵しているのか判別もできぬ。
背徳と絶望が交じり合う、得体の知れぬ塊。
その姿は、まるで運命という名の枷に絡め取られ、どこにも逃れられぬ生贄のようだった。
絡まり合う三人の体、蠢く肉、冷たい鉄。
そこには絶望の予感しかなかった。
「――やめろ」
ユネの喉奥でかすれる声。
だが、既に遅い。背後から押し寄せるのは、ただの暴力ではない。
誇り、支配、愉悦――ユネが信じてきたすべてが、ヴァスの手によって崩されていく。
ユネは、生まれて初めて『敗北』を知った。
それは冷たい毒が血管を這うように、ゆっくりと全身に広がっていく。
腕の中で、シアドが微かに震えながら泣いている。
灼かれた涙腺は涙を流さない。
しかしその声はあまりに優しく、痛みを鎮める聖水のようだった。
喉を焼く熱さえも、シアドの声が溶かしてくれるように感じる。胸の奥から湧き上がる温もりが、ユネの全身を包み、崩れかけた心をどうにか繋ぎとめていた。
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