12 / 15

第12話

 一歩膝を送り、腕を伸ばせば届く距離で、二人は互いに涙を浮かべ、そして、真心を口にしていた。  疑う余地のない、互いを思いあう心。  ヴァスの胸が、さらに亀裂を深める。  愛する人のために、ユネを(おとし)めねばならないと知りつつも、残酷にはなりきれなかった。  それがヴァスの敗因だ。  やるべきことはわかっていたはずなのに、思い切れなかった。  罪のない、ユネへの思いが、良心を忘れさせてはくれなかった。  その果てに、自分は男として――いや、人として破壊され、こうしてバラバラにされたまま、打ち捨てられる。  理不尽といえばそこまでだったが、それを招いたのは自分自身なのだ。  そうして、思い知らせられる現実は、どこまでも残酷だった。  シアドの指が、ユネの頬を撫でる。  シアドは見えずとも、その仕草に迷いはなかった。  鎖がわずかに揺れ、二人を繋ぐ金属音が牢内に低く響く。  ヴァスの目は、ただ、空虚にそこへ向けられていた。  「……ユネ」  名前を呼ぶ声はかすれ、しかし深い情が込められていた。  ユネは涙を拭い、シアドの胸元に顔を埋める。  「ごめん、でも……会えて、よかった」  シアドはユネの頬に口付けた。  唇が触れるだけの軽いそれに、ユネは体を震わせる。  先ほどまで、獣のようにヴァスの肌を貪っていたとは思えぬ、その変貌ぶり。  だが、シアドがそれを知ることはなく、また、ユネにも自覚がない。  ただひとり、ヴァスだけが、かすかに震えていた。 「……どこだろうと、あなたがいれば……」  シアドの囁きが、鎖の音に混じって落ちる。  ユネはかすかな笑みを浮かべ、指先でシアドの髪を梳いた。  外の光は届かない。  だが、二人だけの世界がこの塔の中に閉じ込められていた。  暗がりの隅。  ヴァスは無言のまま二人を見つめる。    鎖が引かれ、金属音が乾いた空気を震わせる。  三人は物理的に近づき、ヴァスの視界に二人の幸福が大きく映り込む。  一本の鎖でつながれた、三人の男。  三様の運命。  シアドの手がユネの髪を梳き、額に口付ける。  その仕草は優しく、しかし確かに『恋人』のものだった。 (……俺には、何もないのに……)  ヴァスの黒い瞳にかすかな狂気が滲む。  指先が膝の上で僅かに動くが、まだ何も起こらない。  ユネとシアドは互いの温もりに寄り添い、微かな吐息を交わす。  幸福の檻。その響きが、ヴァスの胸を締め付ける。  シアドの指先が、ユネの顎に触れる。  繊細で長いその指が、微かに震えるユネの頬を撫でた。  「……怖かったでしょう」  掠れた声。  目は見えていないのに、シアドの指先は確かにユネの涙をぬぐう。 「僕は……あなたがいれば、それで……」 「私も……」  ユネの声は細く、震えていた。  それでも頬を寄せ、シアドの唇に触れる。  鎖が小さく鳴り、二人の距離がさらに詰まる。  シアドの唇が額に落ちる。  次に頬、そして口元へ。  淡い、だが確かな口付けが交わされる。 「……ここがどんな場所でもいい」  シアドは唇を触れ合わせたまま、ささやいた。 「あなたがいれば……」  ユネの目からまた涙がこぼれた。  それをシアドの指がそっと拭い、首筋を撫でる。  鎖が絡まり、金属音が牢内に広がる。  その動きのせいで、ヴァスがいる暗がりと二人の間の距離がより狭まった。  ユネとシアドを繋ぐのは、硬い愛情の鎖。  ヴァスとユネとを繋ぐのは、束縛と服従の枷。  ヴァスは何も言わない。  膝の上の指先が僅かに動く。 (……見たくなかった)  だが、黒い瞳は二人を見つめ続けている。  そこに灯ったのは、静かな黒炎のような感情。  ユネとシアドは互いに額を押し付け、小さく囁き合う。  その温度と吐息は、ヴァスの胸に焼けつくような痛みを残した。  シアドの指先がユネの頬を撫でる。  血の滲む布が巻かれた目元、しかし、その仕草は迷いなく、愛おしむようだった。 「ごめんね……」  かすれたユネの声が、狭い牢の空気に溶ける。そっと、慈しむ手つきで目元を撫でる。そして、すがるようにシアドの胸元に顔を押し付けた。 「その目……僕のせいでしょう?」 「心配ありません。痛みは、もう、ひきましたから」  どこまでも、シアドの声は優しかった。  鎖がかすかに揺れる。  金属音が、三人の間に緊張を生む。  暗がりの隅。  ヴァスは無言だ。 (もっと早くに、心を決めるべきだった)  ヴァスは激しく後悔した。  様子を見ようと、ユネに好きにさせたのがそもそもの過ちだった。まさか、ここまで翻弄されるとは思わなかった。  そして、シアドが現れた。 (でも、もう、何もかも、意味はない)  ヴァスは、吸うことも忘れ、ただ、息を吐き続けた。  その間にも、目の前の睦言はやむことを知らず、かつて城で交わしたと同じ情愛が、時も場所も超えてそこにあった。  シアドの指がユネの唇をなぞり、そっと触れる。  ユネは瞼を閉じ、震える吐息を漏らした。  吸い寄せられるように重なる口付けを、止める者はいない。  ヴァスの喉奥で、乾いた息が漏れる。  黒い瞳が揺れ、狂気のような光を宿した。 (……もう、全部……)  石牢に似つかわしくない甘い空気がたゆたう。  この数日の、脅迫と支配と暴力が嘘のように、静まり返った空間に変わる。  流れ落ちる水音までが、清いせせらぎだった。  だがヴァスの黒い目だけは、じっと動かない。  鎖が絡まり、三人の距離は近すぎる。  ユネとシアドはお互いの温もりにしがみつき、微かな吐息を交わす。  幸福のようで、地獄のような、甘い檻の中。  ヴァスは傍観者であり、ユネとシアドはふたりだけの空間に閉じこもる。  鎖が鳴った。  金属の響きが、閉ざされた境界を示すようだ。  唇が噛み合う水音に、微かに吐息が絡まって、そのまま崩れ落ちそうなほどにふたりは近かった。  ユネは幼い頃から、シアドに憧れてきた。  美しく、賢く、優しいシアド。  いつしかそれは、憧れから独占欲へと形を変えたが、その時すでに、彼は父のものだった。  狂おしい声が夜通し続き、震えながら部屋を開けたユネは、穢されたままに放置されたシアドを、そのまま抱いた。  その、ただ一度。  それが、ふたりの運命を裂いた。  父に気づかれ、この現実を招いた。 (生きて戻れば、シアドを手にいれることができる)  そう信じ、生き延びる道をひたすら追った。  しかし今、ユネの希望は、遠かった。  シアドがここに来たということは、このままで終わるとは思えなかった。 (あの男は、何を企んでいる?)  ユネは冷えた手のひらで、シアドの目を包み、何度も口付けを落とす。そして、そっとシアドの頭に腕を回した。  目を覆っている布を緩め、ゆっくりと巻き取る。  カサついて、よごれた布を、そのままにしておくことは忍びなかった。 シアドは静かに、されるに任せていた。  全幅の信頼がそこに見えて、ヴァスは手を握りしめた。    布の下から、火で炙られた凄惨な痕が現れた。  思わず、ユネの顔が歪む。  美しかったその容貌は、形なく破壊されていた。  ユネの胸のうちから、ゾッと熱が冷めていく。その表情を、ヴァスは見逃さなかった。だが、何も言わない。  ガチャ……    鎖を引きずり、ユネは水場に布を浸した。  いや、浸そうとして、直前で手を止めた。  布の裏に、明らかに文字があった。  赤黒い、血痕でえがかれたような筆跡は、あの男のものだった。 『くれてやる』  小さく、ユネの胸が鳴った。  これが、城主のやり方だ。  自分を裏切り、ユネに身を委ね、美貌を失い、盲目となり、もはや、何の価値もない男を、たった一言で切り捨てた。  ふたつの、小さな感情の渦が、ユネの心でぶつかり合った。  ひとつは、明らかな怒り。  そしてもうひとつは…… (僕だって、いらない)  父のものだから、欲した。  奪ってみせたかった。  今のシアドには、価値はない。  ユネの白い横顔を、ヴァスは見つめ続けた。手元の布の文字が、かろうじて、彼にも読み取れた。 「ユネ?」  不安だったのだろう。  シアドがそっと、声をかけてくる。  無表情のまま、ユネはシアドを振り返った。  感情はぶつかり、そして、決着はついていた。    濡らし、絞った冷たい布で、ユネは歪んだシアドの目元を丁寧に拭った。  火傷の火脹れが白く浮き、ケロイドの艶が、差し込む光にてかりを見せた。鼻の付け根から、両目、額まで、無惨に崩れていた。 「痛くない?」  そっと押し付けるように拭いながら、ユネは手が震えた。  シアドは少し無理をするように、しかし、それでも微笑んだ。  ユネの乾いた表情を、シアドが見ることはない。  ちら、と、ユネはヴァスを見た。  まるで、二人を天秤にかけるような目線。    ユネの腕が、シアドの首にかかる。  ゆっくりと背中に周り、後ろから抱きしめる。  髪に顔を埋め、その柔らかく美しい光沢を愛でる。  だが、その目は、じっと、ヴァスを見ていた。    ヴァスに見せつけるためか、それとも、シアドから目を背けたいのか。  安心しきっているシアドは、だまってユネを受け入れた。  背後から回された手が、喉もとを辿って、胸におりる。  乾いたヴァスの体とは、比べようもないほどに、しっとりと吸い付く素肌は心地よい。  顔を除いては。  ぞくっとする震えが、ヴァスの全身に走った。  それは、彼に残されていた、ほんの微かな、最後の小さな炎を、一瞬で燃え上がらせた。  ユネの指先は、迷いなくシアドの胸を撫で回した。  それは恐ろしいほどに柔らかく、微かな湿り気を帯びて肌に吸いついた。滑らかで、瑞々しく、指先を這わせるたびに微かな熱が立ち上る。その感触は、まるで熟れた果実が蜜を滴らせるさまのようで、指の腹に甘美な余韻を残す。  乾き、色褪せ、ひび割れたヴァスの肌――長い飢えに耐え、掠れた掌の荒れ果てた感触とは、何もかもが違っていた。シアドはまるで別の生き物だ。芳醇で、潤いに満ち、生命そのものを宿す。  ユネはその頬をシアドの背に寄せ、唇をそっと滑らせた。吐息とともに、甘く官能的な香りが肺を満たす。全身で味わうその感触は、肌と肌の密着によって際立つ温もりとともに、確かにそこに脈打つ『命』を伝えてくる。  シアド――この命は、まだ奪われていない。  まだ、穢れていない。  ユネの胸裏に、得体の知れぬ渇望がわき上がる。  もうヴァスはいらない――その思いが、ユネの内奥にひたひたと満ちていく。  かつて飢えと渇きの中で手にしたものは、すべて仮初めの代償にすぎなかったのだと、シアドの体が教えてくる。

ともだちにシェアしよう!