11 / 15

第11話

 ユネは低く嗤い、指先でヴァスの鎖の跡を撫でる。ぞくりと男の肩が震え、鈍く鉄が鳴る。  それはユネの勝利の証。肉体に、魂に、永遠に刻みつけた支配の印だ。  そして――  唐突に、鐘が鳴り響いた。  重たく、湿った牢の空気を裂くような低音。  ユネははっとし、扉のほうに鋭い視線を向ける。  まだ満月ではない。  ならば、これは何の合図だ? 「食事か…いや、違う」  部屋の隅には、誰も手をつけなかったパンがいくつも転がっている。カビが生え、湿気でべっとりとした塊に変わったそれは、もはや食べ物とは呼べない。  口にすれば意識を失う――媚薬だけではない。既に毒が盛られていてもおかしくない。  空腹を誤魔化すために水を飲む。それも、ユネは決して不用心にはしない。  必ず先にヴァスの唇へと器を押し当て、かろうじて残った筋肉に無理やり嚥下させる。その後、数分、じっと待つ。痩せた喉が苦しげに蠢き、やがて細い息を吐くのを確認してから、ようやく自分も口をつける。  ヴァスの命――それはユネが生き延びるための道具。ぬるく濁った水を毒味させるためだけの、ただの肉袋。  それ以上の意味など、とうに失われていた。  鐘の音がいつもより、どこか長い。  低く、鈍く、石壁に反響し続け、まるで牢内の空気まで震わせるようだった。  妙だ。  ユネは無意識に息を呑む。  薄暗い空間に、微かに冷たい風が忍び込み、血の匂いに混じる見知らぬ香が漂った。  ごとり、と靴音。  続いて、閂が外れる硬質な音。 「……何だ?」  ユネの背筋がわずかに震えた。  隙間から何かが投げ込まれる。予想していたパンではない。暗がりの中でそれは、小さく白い塊だった。次の瞬間――  シュウッ、と低い音と共に、白い煙が牢の中に広がり始める。 「クソ…!」  鋭い匂いが鼻腔を突き刺す。苦い金属臭と、甘ったるい花の香が混じったような、異様な匂いだ。  めまいがした。頭の奥がずきりと痛む。思わずユネは膝をつき、冷たい石床に手をついた。  咳き込む。  肺が焼けるようだ。息を吸い込むたび、視界が滲む。喉が締め付けられ、声にならない呻きが漏れる。 「――ッ…!」  すぐ近くで、ヴァスも苦しげに呻いた。  潰れた喉から漏れる掠れた音は、もう悲鳴ですらない。細い息が引き絞られ、喉の奥でひゅうひゅうと音を立てる。その音がやけに大きく、牢の中に反響する。  ただでさえ呼吸が辛いヴァスにとって、この煙は致命的だ。 「死ぬな……死体と繋がれたままなんてごめんだ!」  ユネは乱れた呼吸を必死に整え、隣にいるヴァスの顎を掴んだ。  息を吐かせ、何とか空気を取り入れさせようとするが、肺は既に白い毒に満たされつつある。  冗談ではない。  まだ二日ある。まだここで死ぬわけにはいかない。  月が満ちるまで、絶対に死なさない――。  視界の端にちらりと黒い影が揺れた。  背筋に冷たいものが走る。  これは――煙のせいで幻覚を見ているのか?  それとも、何者かが入ってきた――。  ユネはヴァスに寄り、その割れた唇を強引に塞いだ。  白く濁った息が互いの口腔を満たす。炭のように苦い味と血の鉄臭が絡み合い、ユネの舌先を刺した。 「……吸え。僕の息を吸え」  吐き出すと同時にヴァスの肺へ押し込む。自分もまた、ヴァスの肺から漏れ出す薄い呼気を啜り取り、肺の奥まで染めていく。  息を止めないように――そうするしかなかった。  この白い毒気に満ちた牢で生き延びるためには、互いの命をつなぎ合うしかない。  その時だった。  背後で、何かが動いた。  金属の冷たい音。ユネの首に短く垂れていたもう一本の鎖が、微かに引かれて小さな音を立てる。 「…っ誰だ」  声にならない声が喉で引き攣る。  振り返るより早く、背後から襲いかかる気配。  次の瞬間――  ユネの体は、あえなく床の上に引き倒された。  石の冷たさが背中を打つ。肺に残る僅かな空気が、苦悶の吐息と共に絞り出された。  白い煙の間をぬって、大きな影が寄る。  ごう、と空気を切る音。顔のすぐ横に、重たい何かが振り下ろされた。  石床に響く低い衝撃音。  ユネは瞬きすらできず、全身が硬直する。  鎖が再び引かれる。首元に食い込む冷たい鉄の圧力。誰かが、確かめるように――まるで家畜の繋ぎを確認するかのように――鎖を撫で、引き、緩める。 「放せ……!」  心の中で叫ぶが、喉からはかすれた息しか漏れない。  視界の端で、煙の中に影が揺れる。  それは人とも獣ともつかぬ、異様な存在。  ゆらり、と白い霧の向こうで動き、そして――  再び、閂が重々しく下ろされる音。  牢の外の世界が閉ざされ、空気が圧し掛かるように重くなる。  橋が巻き上げられていく滑車音。  鎖がぴんと張り、首元を締め上げた。  ユネは思わず、掠れた声で叫ぶ。 「……空気が……吸いたい……っ」  肺が白い毒気で焼ける。  喉が千切れそうに痛んだ。  必死に細い窓に這いより、清浄な空気を求めて立ち上がろうとする。  それを邪魔するのは、首元に引っかかる異物――ヴァスの重さだ。  鎖が食い込み、鉄の冷たさと肉の温もりが混じり合い、ユネの皮膚をじわじわと蝕む。  だが、その時。  ぞわり、と背骨を這い上がる感覚。  妙だ……重さが、違う。  ヴァスだけではない。  首に伝わる張力が、二方向に分かれている。  今まで短く垂れていたもう一本の鎖。  その先にも――何かが繋がれている。 「……もう一人……?」  頭の奥で誰かの声がささやく。  違う。声ではない。  恐怖だ。  息を吐き、少しずつ吸う。酸欠寸前の肺が軋むたび、脳裏に奇妙な幻覚が差し込む。  ゆっくりと、ゆっくりと白い煙が外へと流れ出す。  霧が薄れ、視界が開けていく。  左側にはヴァスがいる。獣のように床に伏していた。  首と左手首が鎖で繋がれている。  その感触は変わらない。  だが――反射的に、もう一方の鎖に手をかける。  短かったそれは、奇妙に長く、伸びている。 「……ッ」  ユネの指が鎖を伝い、その先を辿る。  冷たい鉄を撫でる指先が、異質な温もりに触れた。  誰かの手首だ。  はっとして、ユネはその先を目で追った。  白い手首――血管が透けるほど色の薄い肌が、鎖の先でかすかに震えている。  その右手首をさらにたどる。指先に触れるのは、細く繊細な骨格、柔らかな皮膚。  そして、目のあたりに薄く血の滲んだ布を巻き付けた男が、足元でうずくまっていた。  プラチナの髪がわずかに揺れ、煙の切れ目に見えた顔は――  微かな光に照らされるその姿は、獣のように無防備で、しかし人形のように静謐だった。  喉奥が熱くなり、ユネは唾を飲み込む。  自分の首に、二人目の男が繋がれている――。 「こいつも……」  ユネの目は、自分と対になった男に注がれた。  それは絶望か、もう、逃げ道を塞がれてすべてを閉ざされた眼差しだった。  ユネの唇が勝手に動く。 「こいつも、食っていいのか……?」  新しく、新鮮な肉。  汗や血にまみれ、腐臭を放つヴァスとは違う。  この男はまだ触れられていない。  処女地のように無垢な香が、白い煙の間から微かに漂う。  その想像だけで、体が震えた。  腰の奥が疼き、下腹に鈍い熱が溜まる。  だが、次の瞬間――その昂ぶりは氷の刃で断ち切られた。  白い煙がゆっくりと薄らぎ、うつむいていた眼帯の男が、音もなくこちらに顔を向ける。  布で覆われた両眼。視線はない。見えていないはずだ。  だが、ユネは感じた。  この男は確かに“見ている”。  ユネの奥底まで、薄笑いを浮かべる心の芯まで、射抜くように。  プラチナの髪が柔らかく揺れ、光を反射する。  その美しい白みを帯びた髪に、ユネは見覚えがあった。  顔の、鼻から下。  やや細い体の線。  すらりとした手足――  腰布だけの裸身は、冷たい石の上でもなお神聖で、同時に淫靡だった。 「シアド…」  かすれた声がユネの喉から漏れた。  その名を呼んだ瞬間、肺が急に締め付けられる。  冷たい汗が背筋を伝う。  腰の熱は引き、代わりに戦慄が全身を貫いた。  シアドは、微動だにせず、ただそこに座している。  だが、その静寂こそが、ユネの支配の幻想を崩す刃だった。  ユネの声は震えていた。  目の奥が熱い。  体が勝手に動き、鎖を乱暴にゆすって、シアドの胸元に顔を埋める。 「ユネ……無事でよかった」  シアドの声もまた掠れていたが、そこには確かな安堵が滲んでいた。  焼かれた目は虚ろだが、その指先はユネの頬を確かめるように触れていく。 「ユネ……ごめん……あのとき、守れなくて」  ユネの頬に涙が伝う。  背中を撫でるシアドの手が、ひどく優しい。 (……私たちは、ここでまた…)  シアドはユネを引き寄せる。  鎖が揺れ、金属音が二人の間で小さく鳴る。 「ユネ……私が、主人に気づかれなければ……」 「違う。僕は、あなたをあのままになんて……」  会話の中で、断片的に過去が明らかになる。  主人の執事であり、同時に性奴隷であったシアドと、代わりなどいくらでもいる跡取り候補のユネ。  その二人が恋に落ち、関係が露見し、ユネは塔に放り込まれ、シアドは目を奪われた。 「ユネ。あなたを巻き込んだのは私だ」 「違う、僕は、本気で……」  牢獄の冷たい空気の中、二人の抱擁だけが暖かい。  暗がりの隅。  ヴァスは何も言わず、ただじっと見ている。  長い黒髪が顔にかかり、表情は読めない。  鎖は短く、逃れようのない現実と、見たくもない真実が突きつけられる。  ヴァスの呼吸は浅い。わざと潜めずとも、シアドには聞こえない。  それでも、抱きしめたユネから漂う、男の匂いに、シアドは気づいていた。 「……そばに、誰かがいる?」  シアドはわずかに首を傾けるが、塞がれた目で追うことはできない。 「いいんだ、気にするな」  ユネは低く呟くだけだ。  シアドの温かな胸。それは生き返る命のぬくもりだった。  ユネは顔を擦り付け、泣きじゃくるように声を震わせた。  その様子を、ヴァスは石のように見つめていた。心までが、色をなくし、動きを失った。  ヴァスの瞳がわずかに揺れる。  胸の奥で何かがひび割れる音がした。  その感情に名前はまだつかない。  だが、それは確かに『嫉妬』と『執着』の原型だった。  シアドは再びユネの頬を撫でる。 「もう離さない」  その囁きに、ユネは涙を零す。  ヴァスは鎖の先で、唇をわずかに歪めた。  だが、何も言わなかった。

ともだちにシェアしよう!