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第11話
ユネは低く嗤い、指先でヴァスの鎖の跡を撫でる。ぞくりと男の肩が震え、鈍く鉄が鳴る。
それはユネの勝利の証。肉体に、魂に、永遠に刻みつけた支配の印だ。
そして――
唐突に、鐘が鳴り響いた。
重たく、湿った牢の空気を裂くような低音。
ユネははっとし、扉のほうに鋭い視線を向ける。
まだ満月ではない。
ならば、これは何の合図だ?
「食事か…いや、違う」
部屋の隅には、誰も手をつけなかったパンがいくつも転がっている。カビが生え、湿気でべっとりとした塊に変わったそれは、もはや食べ物とは呼べない。
口にすれば意識を失う――媚薬だけではない。既に毒が盛られていてもおかしくない。
空腹を誤魔化すために水を飲む。それも、ユネは決して不用心にはしない。
必ず先にヴァスの唇へと器を押し当て、かろうじて残った筋肉に無理やり嚥下させる。その後、数分、じっと待つ。痩せた喉が苦しげに蠢き、やがて細い息を吐くのを確認してから、ようやく自分も口をつける。
ヴァスの命――それはユネが生き延びるための道具。ぬるく濁った水を毒味させるためだけの、ただの肉袋。
それ以上の意味など、とうに失われていた。
鐘の音がいつもより、どこか長い。
低く、鈍く、石壁に反響し続け、まるで牢内の空気まで震わせるようだった。
妙だ。
ユネは無意識に息を呑む。
薄暗い空間に、微かに冷たい風が忍び込み、血の匂いに混じる見知らぬ香が漂った。
ごとり、と靴音。
続いて、閂が外れる硬質な音。
「……何だ?」
ユネの背筋がわずかに震えた。
隙間から何かが投げ込まれる。予想していたパンではない。暗がりの中でそれは、小さく白い塊だった。次の瞬間――
シュウッ、と低い音と共に、白い煙が牢の中に広がり始める。
「クソ…!」
鋭い匂いが鼻腔を突き刺す。苦い金属臭と、甘ったるい花の香が混じったような、異様な匂いだ。
めまいがした。頭の奥がずきりと痛む。思わずユネは膝をつき、冷たい石床に手をついた。
咳き込む。
肺が焼けるようだ。息を吸い込むたび、視界が滲む。喉が締め付けられ、声にならない呻きが漏れる。
「――ッ…!」
すぐ近くで、ヴァスも苦しげに呻いた。
潰れた喉から漏れる掠れた音は、もう悲鳴ですらない。細い息が引き絞られ、喉の奥でひゅうひゅうと音を立てる。その音がやけに大きく、牢の中に反響する。
ただでさえ呼吸が辛いヴァスにとって、この煙は致命的だ。
「死ぬな……死体と繋がれたままなんてごめんだ!」
ユネは乱れた呼吸を必死に整え、隣にいるヴァスの顎を掴んだ。
息を吐かせ、何とか空気を取り入れさせようとするが、肺は既に白い毒に満たされつつある。
冗談ではない。
まだ二日ある。まだここで死ぬわけにはいかない。
月が満ちるまで、絶対に死なさない――。
視界の端にちらりと黒い影が揺れた。
背筋に冷たいものが走る。
これは――煙のせいで幻覚を見ているのか?
それとも、何者かが入ってきた――。
ユネはヴァスに寄り、その割れた唇を強引に塞いだ。
白く濁った息が互いの口腔を満たす。炭のように苦い味と血の鉄臭が絡み合い、ユネの舌先を刺した。
「……吸え。僕の息を吸え」
吐き出すと同時にヴァスの肺へ押し込む。自分もまた、ヴァスの肺から漏れ出す薄い呼気を啜り取り、肺の奥まで染めていく。
息を止めないように――そうするしかなかった。
この白い毒気に満ちた牢で生き延びるためには、互いの命をつなぎ合うしかない。
その時だった。
背後で、何かが動いた。
金属の冷たい音。ユネの首に短く垂れていたもう一本の鎖が、微かに引かれて小さな音を立てる。
「…っ誰だ」
声にならない声が喉で引き攣る。
振り返るより早く、背後から襲いかかる気配。
次の瞬間――
ユネの体は、あえなく床の上に引き倒された。
石の冷たさが背中を打つ。肺に残る僅かな空気が、苦悶の吐息と共に絞り出された。
白い煙の間をぬって、大きな影が寄る。
ごう、と空気を切る音。顔のすぐ横に、重たい何かが振り下ろされた。
石床に響く低い衝撃音。
ユネは瞬きすらできず、全身が硬直する。
鎖が再び引かれる。首元に食い込む冷たい鉄の圧力。誰かが、確かめるように――まるで家畜の繋ぎを確認するかのように――鎖を撫で、引き、緩める。
「放せ……!」
心の中で叫ぶが、喉からはかすれた息しか漏れない。
視界の端で、煙の中に影が揺れる。
それは人とも獣ともつかぬ、異様な存在。
ゆらり、と白い霧の向こうで動き、そして――
再び、閂が重々しく下ろされる音。
牢の外の世界が閉ざされ、空気が圧し掛かるように重くなる。
橋が巻き上げられていく滑車音。
鎖がぴんと張り、首元を締め上げた。
ユネは思わず、掠れた声で叫ぶ。
「……空気が……吸いたい……っ」
肺が白い毒気で焼ける。
喉が千切れそうに痛んだ。
必死に細い窓に這いより、清浄な空気を求めて立ち上がろうとする。
それを邪魔するのは、首元に引っかかる異物――ヴァスの重さだ。
鎖が食い込み、鉄の冷たさと肉の温もりが混じり合い、ユネの皮膚をじわじわと蝕む。
だが、その時。
ぞわり、と背骨を這い上がる感覚。
妙だ……重さが、違う。
ヴァスだけではない。
首に伝わる張力が、二方向に分かれている。
今まで短く垂れていたもう一本の鎖。
その先にも――何かが繋がれている。
「……もう一人……?」
頭の奥で誰かの声がささやく。
違う。声ではない。
恐怖だ。
息を吐き、少しずつ吸う。酸欠寸前の肺が軋むたび、脳裏に奇妙な幻覚が差し込む。
ゆっくりと、ゆっくりと白い煙が外へと流れ出す。
霧が薄れ、視界が開けていく。
左側にはヴァスがいる。獣のように床に伏していた。
首と左手首が鎖で繋がれている。
その感触は変わらない。
だが――反射的に、もう一方の鎖に手をかける。
短かったそれは、奇妙に長く、伸びている。
「……ッ」
ユネの指が鎖を伝い、その先を辿る。
冷たい鉄を撫でる指先が、異質な温もりに触れた。
誰かの手首だ。
はっとして、ユネはその先を目で追った。
白い手首――血管が透けるほど色の薄い肌が、鎖の先でかすかに震えている。
その右手首をさらにたどる。指先に触れるのは、細く繊細な骨格、柔らかな皮膚。
そして、目のあたりに薄く血の滲んだ布を巻き付けた男が、足元でうずくまっていた。
プラチナの髪がわずかに揺れ、煙の切れ目に見えた顔は――
微かな光に照らされるその姿は、獣のように無防備で、しかし人形のように静謐だった。
喉奥が熱くなり、ユネは唾を飲み込む。
自分の首に、二人目の男が繋がれている――。
「こいつも……」
ユネの目は、自分と対になった男に注がれた。
それは絶望か、もう、逃げ道を塞がれてすべてを閉ざされた眼差しだった。
ユネの唇が勝手に動く。
「こいつも、食っていいのか……?」
新しく、新鮮な肉。
汗や血にまみれ、腐臭を放つヴァスとは違う。
この男はまだ触れられていない。
処女地のように無垢な香が、白い煙の間から微かに漂う。
その想像だけで、体が震えた。
腰の奥が疼き、下腹に鈍い熱が溜まる。
だが、次の瞬間――その昂ぶりは氷の刃で断ち切られた。
白い煙がゆっくりと薄らぎ、うつむいていた眼帯の男が、音もなくこちらに顔を向ける。
布で覆われた両眼。視線はない。見えていないはずだ。
だが、ユネは感じた。
この男は確かに“見ている”。
ユネの奥底まで、薄笑いを浮かべる心の芯まで、射抜くように。
プラチナの髪が柔らかく揺れ、光を反射する。
その美しい白みを帯びた髪に、ユネは見覚えがあった。
顔の、鼻から下。
やや細い体の線。
すらりとした手足――
腰布だけの裸身は、冷たい石の上でもなお神聖で、同時に淫靡だった。
「シアド…」
かすれた声がユネの喉から漏れた。
その名を呼んだ瞬間、肺が急に締め付けられる。
冷たい汗が背筋を伝う。
腰の熱は引き、代わりに戦慄が全身を貫いた。
シアドは、微動だにせず、ただそこに座している。
だが、その静寂こそが、ユネの支配の幻想を崩す刃だった。
ユネの声は震えていた。
目の奥が熱い。
体が勝手に動き、鎖を乱暴にゆすって、シアドの胸元に顔を埋める。
「ユネ……無事でよかった」
シアドの声もまた掠れていたが、そこには確かな安堵が滲んでいた。
焼かれた目は虚ろだが、その指先はユネの頬を確かめるように触れていく。
「ユネ……ごめん……あのとき、守れなくて」
ユネの頬に涙が伝う。
背中を撫でるシアドの手が、ひどく優しい。
(……私たちは、ここでまた…)
シアドはユネを引き寄せる。
鎖が揺れ、金属音が二人の間で小さく鳴る。
「ユネ……私が、主人に気づかれなければ……」
「違う。僕は、あなたをあのままになんて……」
会話の中で、断片的に過去が明らかになる。
主人の執事であり、同時に性奴隷であったシアドと、代わりなどいくらでもいる跡取り候補のユネ。
その二人が恋に落ち、関係が露見し、ユネは塔に放り込まれ、シアドは目を奪われた。
「ユネ。あなたを巻き込んだのは私だ」
「違う、僕は、本気で……」
牢獄の冷たい空気の中、二人の抱擁だけが暖かい。
暗がりの隅。
ヴァスは何も言わず、ただじっと見ている。
長い黒髪が顔にかかり、表情は読めない。
鎖は短く、逃れようのない現実と、見たくもない真実が突きつけられる。
ヴァスの呼吸は浅い。わざと潜めずとも、シアドには聞こえない。
それでも、抱きしめたユネから漂う、男の匂いに、シアドは気づいていた。
「……そばに、誰かがいる?」
シアドはわずかに首を傾けるが、塞がれた目で追うことはできない。
「いいんだ、気にするな」
ユネは低く呟くだけだ。
シアドの温かな胸。それは生き返る命のぬくもりだった。
ユネは顔を擦り付け、泣きじゃくるように声を震わせた。
その様子を、ヴァスは石のように見つめていた。心までが、色をなくし、動きを失った。
ヴァスの瞳がわずかに揺れる。
胸の奥で何かがひび割れる音がした。
その感情に名前はまだつかない。
だが、それは確かに『嫉妬』と『執着』の原型だった。
シアドは再びユネの頬を撫でる。
「もう離さない」
その囁きに、ユネは涙を零す。
ヴァスは鎖の先で、唇をわずかに歪めた。
だが、何も言わなかった。
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