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第10話

 衰えゆく筋肉、冷えていく体温。互いの体だけが唯一の熱源だった。ぬるりとした汗が混じり合い、骨張った腕が痩せた腰に回り、指先が擦り傷に食い込む。皮膚と皮膚がこすれ合い、乱れた吐息が絡みつく。  ユネはヴァスの鎖骨に歯を立て、浅い傷からにじむ塩辛い血を舌でなぞった。甘い苦悶の声が震え、空気を震わせる。 (……そう)  ユネは喉の奥で笑い、唇を湿らせた。 (僕は……もう少しだ)  窓の向こうには、既に半分を超えて丸みを帯びた月が冷たい光を注いでいた。それを見上げながら、ユネの腰がわずかに跳ねる。繋がれた体がかすかに揺れ、鎖が、かしゃりと鳴った。  あと二日、三日。  それさえ乗り切れば、ユネはまたあの柔らかなベッドへと帰ることができる。羽毛のように軽やかな掛け布に包まれ、暖かな食事と、従順に膝を屈める男と女に囲まれる生活。  そこには、ここで嗅ぎ続けた苔と鉄の匂いも、死にかけの男の息の音もない。あの兄たちのように壊され、獣のように縛られることもない。  ユネの唇が、ヴァスの耳元に触れた。震える体から吐き出されるかすかな息を奪い、舌で耳殻をねぶる。骨の浮き出た体を抱き寄せ、その肉に執拗に食らいつく。食事のように、いやそれ以上に深く、必死に、貪欲に。冷えた牢の中で、二つの体は火を宿した獣のように絡み合い続けた。  心の奥でほくそ笑むユネ。薄暗い空気に滲むその笑みは、まるでゆっくりと腐敗する花の香りのように甘美で、どこか不快だった。  ユネの視線は鎖の先を追う。そこに繋がれている男――ヴァス。やつれ切り、骸のように冷たくなった体。それでもまだ、わずかに残る体温がある。 「もう、名前など必要もない」  ユネは呟くように思った。かつての名前は、今この場には無意味だった。ただ“玩具”であり、“器”であり、“熱を奪うための肉塊”。  だが、ヴァスの価値は体温だけではなかった。  ユネは知っている。ぬくもり以上のものを、この衰えた体から引き出せることを。  それは、支配――。  ユネが一歩近づくと、鎖が、かしゃりと低く鳴り、ヴァスの肩が微かに震えた。その様子にぞくりと背筋を走る快感を覚え、ユネは唇を歪める。恐怖の匂いが、弱々しい呼吸に混じり、牢の湿気と絡み合う。それだけで、喉の奥が熱を帯び、下腹部が疼いた。  ユネはゆっくりと膝をつき、痩せた体に手を這わせた。ざらつく皮膚、噛みつかれ裂けた跡、赤黒い指の痕。それらはすべて、ユネが刻んだ“証”。指先がヴァスの胸元をなぞると、薄くなった筋肉の隙間に指が沈む。 「もう抵抗する気もないのか」  耳元に囁き、唇で耳朶を軽く噛む。ヴァスの体はびくりと跳ねたが、すぐに力が抜け、再びぐったりと項垂れる。その反応がユネをひどく昂らせる。  彼はヴァスの体を知り尽くしていた。  どこに触れれば、どんな声が漏れるか。  どの角度で押し込めば、呻きが泣き声に変わるか。  どれほど強く噛みつけば、震える喉から命の音が溢れるか。  容赦なく試し、確かめ、味わい尽くした。  ユネはヴァスの顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。瞳は虚ろで、だがその奥に微かに揺れる怯えを見逃さなかった。その恐怖こそが、ユネにとって何より甘美だった。 「おまえはもう、僕のために息をする道具だ」  その言葉に、ヴァスはかすかに唇を震わせた。声にならない声が零れ落ちる。それを見て、ユネの指が自然とヴァスの首筋を撫でた。鼓動が――弱いが、まだ確かに生きている。  ユネはその脈を楽しむように指先で押し、また緩める。まるで、彼の生殺与奪を指一本で操っているかのように。  人を支配し、蹂躙すること。  その高揚感こそが、今のユネを生かしていた。  冷えきった牢の空気に漂うのは、腐った水の匂いと鉄の錆、それに微かに混じる血と汗の匂い。  けれどユネにとって、それはむしろ甘やかな香だった。鼻腔を刺す臭気の中で、唯ひとつ確かに感じることができるのは、自分がこの場のすべてを支配しているという圧倒的な事実。  それは紛れもない真実であり、誇りだった。  そして、ここで誰よりも冷たく、誰よりも貪欲に役目を果たしたという揺るぎない証拠でもあった。 (曖昧な“城主の候補”ではない…)  ユネは喉の奥で笑い、痩せた男の顎を爪で引っ掻いた。 (今の僕は確実に、父の後を継ぐ者だ)  ヴァス――その名すら、もはや呼ぶ価値はない。  だが、あえてそう呼ぶことで、ユネは自らの勝利を反芻した。  ヴァスはユネのための駒であり、玩具であり、檻の中で唯一の熱源だった。  ふっと笑みが唇に浮かぶ。  目の前の男は痩せ、骨ばった肩がかすかに震えている。だが、その瞳――その奥にはなおも命の光が残っていた。  爛々と、火のように燃え、それがユネの支配欲をさらに煽る。  生きている。  まだ完全に折れていない。  その事実が何よりも嬉しかった。 「昨夜も、その前の夜も……いや、昼さえも」  ユネはヴァスの首筋に舌を這わせ、ざらついた血の味を楽しむ。 「おまえは僕の気の向くまま、体を差し出した」  その言葉と共に、指先が容赦なく骨ばった胸を撫でる。かつては力強かった肉体が今では脆い。それでも、ヴァスは反抗の声ひとつ上げない。喘ぎ声すら、喉を潰されたせいでかすれた息の音に変わっていた。  ユネは腰を落とし、ヴァスの顎を強引に持ち上げ、虚ろな目を覗き込む。  その奥にある恐怖と、わずかに残る反発の火。  どちらもユネにとっては極上の蜜だった。 「もっとだ」  ヴァスの唇に噛みつき、血の滲む感触を楽しむ。指は傷だらけの腰に食い込み、痩せた体を貪るように抱き締める。 「もっと楽しませろ。おまえはそのために生きている」  ヴァスの体は、ただユネの好きにされるままに震えていた。  抵抗するかと思われていた。  初めの頃は、ヴァスの眼差しの奥に残る僅かな炎が、ユネの指先を刺すようだった。  だが今――あまりにも従順すぎるその姿は、かえってユネの胸に薄ら寒い物足りなさを呼ぶ。  体格では、確実に自分よりも上回る。  本気を出せば、この華奢な体など容易く押し倒し、息の根を止めることさえできただろう。だが、それをしない。 「なぜだ……?」  ユネはヴァスの顎先を掴み、爪で肉を軽く抉った。虚ろな瞳が震え、わずかに潤む。その微細な反応すらユネには甘い。  それは優しさなのか?  弱さなのか?  それとも――おまえは、そのように命じられているのか。  ヴァスの体は、すでに男として落ちた。  かつてあれほど逞しかった肩は、今や骨が浮き、震える。  受け入れることに、もはや抵抗すら見せない。いや、それどころか、痩せた肢体を晒し、羞恥も恐怖も押し殺したまま、ユネの望むままに肉を差し出す。  少し前の昼――  初めて、ユネは直接ヴァスを抱いた。  指先や舌での小手先の戯れではない。本能のまま、渇いた体に己を叩きつけ、喘ぎ、貪った。  その瞬間、ユネは悟ったのだ。  支配し、踏みつけ、相手を屈服させるということが、これほどまでに快楽へと繋がるものなのかと。  無様に喘ぐヴァスの唇、震える腰、微かに上がる熱――それらすべてが、ユネの中で波のように押し寄せ、彼の身体を熱で満たした。  背筋を駆け上がる甘美な戦慄。  満たされていく心の奥底。 「そうだ……僕はこれを求めていた」  ユネはヴァスの喉元に歯を立て、浅く噛み、ぬるりと滲む血を舌で掬う。その味が、かつてないほどの充足感をもたらした。  もはやヴァスは、男である必要すらなかった。  ただ、ユネが快楽を味わうための器。  そこに、意思も、誇りも、必要ない。  ユネは笑った。  その笑みは、獲物の心を砕いた支配者だけが持つ、冷たく澄んだ喜悦の色をしていた。  ヴァスの喉が潰れていたのは、ユネにとって何よりも好都合だった。  あの声――あの反抗と屈辱を滲ませた声――はもう二度と聞こえない。  代わりに、今ではかすれた息が肺の奥から、風のような音となって漏れるだけだ。  その音すら、時に快楽を堪え切れず、声帯を裂いた痕跡だ。  何度、獣のように呻き、抗い、最後には喉の奥から張り裂けるような悲鳴を漏らしたか。その声が砕け、ひび割れ、血で濡れ、ついには消え去った。  今、ヴァスが吐くのは命の残滓のような細い呼吸音だけ。  ささやきすら出ない。唇がわずかに動く――ユネはその動きを目で追い、嗜虐心のままに言葉を読み取る。それは『やめろ』か、『殺せ』か、あるいは懇願か。どれであっても構わない。もう意味はない。  なぜなら、その声も、意思も、ここでは無価値だ。  この牢の中で価値があるのは、ユネの欲を満たすための肉体だけ。 「だが…それも、もうすぐ不要になる」  ユネは細く笑い、ヴァスの顎を掴んで持ち上げる。  痩せこけた顔、青紫に腫れた首筋、まだ薄く熱を帯びている頬。それらすべてが、ユネの勝利の証だ。だがその価値も、月が満ちるまでの間。  満月、この閉ざされた地獄は終わる。  合図の鐘が鳴る――その瞬間は、ユネにとって歓喜の到来だ。 「あと二日…いや、もう一夜かもしれない」  胸の奥が焼けるように疼き、想像の中で既に指が柔らかな肌を撫でている。  暖かな男、柔らかな女。己に逆らわず、笑みを浮かべ、ユネを求める肉体がいくつも、あの屋敷には待っている。  このじめじめとした石の籠で、ただ一人の男を相手に繰り返してきた淫らな遊戯――  次は羽毛布団の柔らかさの上で、複数の体を同時に抱き、好き放題に味わう。  ユネの指は、ヴァスの冷えた唇をなぞる。 「おまえは……僕の飢えを繋ぐ鎖にすぎなかった」  そう呟くと、ヴァスのかすかな痙攣がまたユネの腹を熱くさせる。  生きている。それだけで尚、悦びをもたらす。  残されたヴァスがどうなるかなど、知ったことではない。鎖が外れた瞬間、この骸のような男は役目を終えるのだ。  鎖……  ユネは、濡れた唇で息を吐きながら思った――鎖は良い。  いや、素晴らしい。  この冷たい鉄の輪は、肉を締め上げ、骨の下まで食い込み、誰であれ従順な獣に変えてしまう。そこに羞恥も、誇りも、言葉さえも不要だ。  ヴァスの手首と足首、そして首に食い込んだ圧迫痕は、まるで紫黒の刺青。  血の滲む跡が鎖の形をなぞり、石床に擦られて赤く爛れた肌がむき出しのまま晒されている。  もう着るものなど破れ果て、覆うものは何ひとつない。  ヴァスは部屋の隅に小さく体を丸め、膝を抱え込むように震えていた。隠すことすらできない。  隠す必要もない。  この肉体は、既にユネのもの。指先から牙まで、ありとあらゆる感覚で食い尽くしてきた。 「美しい…」

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