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第9話
右手の鎖を離す。じゃらり、と音が響いて、わずかに血の滑りをはらんだ鉄の輪が、石の床に投げ出された。自由になったヴァスの左手が動きを早め、鎖はじゃらじゃらとあまりに淫らな音を立てた。
「ねぇ、温めてよ。冷たいんだ」
ユネの声は、しびれたヴァスをさらに朦朧と深みへ陥れる。
鎖の摩擦で傷ついたそこへ、ユネは手を這わせた。
硬く、体が締まっていたが、肌は熱く腫れ、血の感触があった。
「ちょうどいいね。濡れてる」
横向きにしたヴァスに上からかぶさり、前と後ろとに手を伸ばす。
ユネは、微笑んでいた。これ以上ない、満足があった。
暗がりの中、手探りで血を絡め取り、ユネの右手が秘所を探る。
強張ったヴァスの体が、硬く閉ざしても、それを緩めるように前を手伝う。
指を絡められて、ヴァスの体が自然に応じた。
ユネを見くびっていたわけではない。彼からは、強く若い雄の匂いがある。だが、このように追い詰められた状況の中でさえ、それが発揮されるというのは、ヴァスの予想を超えていた。
快楽に呑まれながら、ヴァスは何度も抗おうとした。
だが、過去になく、体が暴れた。
それでいて、手足に力が入らない。
(どうして……)
消えかける意識の隅、それは鮮烈な気づきだった。
『ユネは、パンを、食べなかった』
ヴァスの全身が総毛立った。
単なる矜持? 見栄?
違う。
(迂闊!)
ユネが来るまでの間に、自分はすっかり信じ込んでいた。
与えられるものが無害であると。
ユネが遅れて来たのは、ただの成り行きではなかった。
ヴァスがここの暮らしに慣れ、警戒を解く、そのための時間だった。
(全て、あいつの思惑……)
涙が溢れたのは、悔しさのせいか、それとも、滑り込んできた違和感のためか。
えぐられても何も言えないほどの無防備を晒して、ヴァスは音を立てて息を吐いた。
ユネの左手は、執拗なほどに、ヴァスを撫でた。
ヴァスの体は男だった。
どれほど、牢獄の中の異常な生活を強いられていたとしても、その本能までが変わることはなかった。
ヴァスの変化に、ユネも敏感だった。
もはや、猶予はない。
ここから先は、静かに忍び寄り、息の根を止めるだけだ。
中をゆっくりと滑る指が、ためらいなく周囲をなぞる。
(……さぁ、聞かせろ)
ユネの胸が期待に震える。
ヴァスの息は乱れて、それを隠す余裕もない。
潰された喉から、ひゅうひゅうと、苦しげな音が漏れる。
何を思ったか、ユネは唐突に素早く、ヴァスの左手の鎖を、引き上げた。
今までならば、ユネの力でそんなことはできなかった。
だが、今のヴァスは体の均衡を崩している。
気づかぬうちに筋力は落ち、代わりに肉体の欲望は増幅されていく。
ユネは容易く、彼の首に鎖を絡めた。
鉄の輪の連なりがピンと張り、ヴァスの手が自分で触れることができない位置に固定される。
ユネは、ヴァスの右腕を背中に回し、馬乗りになると、体を完全にうつ伏せに押し付けた。
両手を封じる。
自分の置かれている状況が、どれほど苦しいか、ヴァスは薄々感じながら、逆らおうとはしない。
(こいつ、もう、動けない?)
ユネは、嘲りを浮かべた。
二人で共有する水とは違い、ヴァスだけが口にした黴くさいあのパンに、何が仕込まれていたのか。
緩やかに心を溶かす薬草など、いくらでも知っていた。
腹は減る。
だが、そんなものを食べてまで満たすほど、自分は落ちてはいない。
真実を見極めていた優越感。
ユネの歓喜は、体をも昂らせた。
だが、ユネは知らない。
自分が支配しているようで、実はこれも全て、ユネの思い通りではないのだということを。
ユネの行動の全てを、ヴァスはおとなしく受け入れていた。
自分の未熟さを罵りながら、それでも、どこかでまだ、希望があった。
月明かりに、時折見えるユネの勝ち誇った表情。
(俺が、壊すのは、これだ)
ヴァスはそう、確信する。
(上り詰めるがいい。その頂が高ければ高いほど、落ちる谷は深くなる)
冷たい石の床の感触が、たぎりを抱えた自身に触れる。だが、その冷気さえ、体を冷ましてはくれなかった。
ユネを背に乗せたまま、身じろぎを繰り返す。
それはユネを煽るようでもあり、自らの欲望に突き動かされているようでもある。
ヴァスの様子に、ユネはほくそ笑んだ。
(こいつ……欲してやがる)
ユネの目に恍惚が光る。
背筋にぞくりとした感覚が走り、冷たいはずの空気が肌を焼くように感じられた。
それは、一つの快楽に近い。
ユネにされるがまま、その体の下に組み敷かれ、ヴァスの苦しい身悶えは続く。
次第と、ヴァスの呼吸が変わった。
静かだったそれが、ほんの僅かに深くなる。
ユネはその吐息に合わせ、指を増やして中をまさぐった。
かすかに、手応えの違う場所を探り当てる。
それが正解だと言わんばかりに、ヴァスの体が魚のように跳ね上がった。
(……本当に、いい眺めだ)
ユネの指先が、ほんのわずかに円を描いた。
その動きにヴァスの背が反応し、反射的に伸ばした左手の鎖が金属音を立てる。指は空を掴む。触れて、果ててしまいたい。だが、それが叶わない。
(……崩れて見せろ)
ユネの左手が、乱れていたヴァスの髪を丁寧にまとめ、石の床によける。
美しく盛り上がった背中の筋肉が、今は余計に哀れに思われた。
無言のままヴァスを見下ろす瞳は、深い闇のように感情を読ませない。
ユネは体を傾け、震える唇で耳介を噛んで、無言の許可を示す。
塔の中には、鎖の擦れる音と、重く不規則な息だけが響いていた。
牢の空気はひどく冷たいのに、ユネの体は熱を持っていた。
触れる肌から、熱が染み込み、いつしかつま先までが暖かくなった。
(これだ。この熱。でも、まだ、もっと……)
ユネは小さく舌で唇を舐めた。
ヴァスの喉が鳴いた。
ユネはその声に目を細め、ゆっくりと、確実に深く触れる。
ヴァスの目は硬く閉じられ、喉の奥でかすかな声を飲み込む。
呼吸が浅く乱れ、肺が焦げつくように熱い。
(……こんな……)
ヴァスは、抱いても抱かれはしない男だった。
それが、このような形で体を開かされることになるなど、想像もしていなかった。
『首輪の者を墜とせ』
堕とす。
それは、自分がすべきことであり、されることではないと、あまりに単純に考えていた。
だが、相手が悪かった。
ユネを甘く見た、自分の失態だ。
ユネが、しなやかな圧力で撫でる感覚。
ヴァスはもがいたが、鎖が喉元に冷たい痛みを走らせ、動きを封じた。
金属がわずかに鳴る。
その音が、この塔の閉塞感をさらに際立たせる。
ヴァスの喉からかすかな吐息が漏れた。
(……声……嫌だ)
羞恥が全身を貫き、目の奥に熱が滲む。
一粒の涙が頬を伝い、外套の上に落ちた。
ユネの指先が涙に気づいたのか、一度頬に戻り、それを拭う。
だが、手は止まらない。
再び太もも、腰、腹部を往復し、ヴァスの体を確かめるように撫で続ける。
だというのに、最ももどかしく疼く場所へは、触れもしない。
(……壊される)
背筋が冷たく痺れ、羞恥と恐怖の奥に、微かな快感の影が混じる。
そのことに気づいた瞬間、ヴァスは喉の奥で小さく震えた。
ユネの器用な指が、敏感な場所をくるりと圧した。
その動きはこれまでで最も明確に『目的』を帯びていた。
ヴァスは息を詰め、鎖の重みと冷たさを感じながら、瞼を閉じた。
(無理だ…もう。今は……)
自分にそう言い聞かせる。
牢内には、鎖と水の音が混じり、闇が二人の静かな行為を覆い隠していた。
ヴァスの背がびくりと震えた。
それはあまりにゆっくりと、まるでこの行為が当たり前であるかのような静けさで進む。
(……駄目だ、これは……)
羞恥が喉を詰まらせ、目の奥が熱い。
だが、鎖が首元で冷たく鳴り、逃げるという選択肢を封じる。
ユネの指は、ヴァスの腹部の柔らかな場所に触れ続けていた。
ヴァスが呼吸を飲み込む。
だが、指がゆっくりと滑るたび、肺が勝手に震え、薄い声が喉奥から漏れた。
「……ぁ……」
その声はあまりに小さく、ユネの耳に届いたのかも分からない。
だが指の動きは止まらなかった。
(……もう!)
ヴァスの胸が早鐘となり、汗が髪の生え際を濡らす。
石の床と体の間で、確かに欲の熱が限界を訴えた。
ユネは息を荒げることもなく、無言で動き続ける。
「……んっ……!」
ヴァスの喉から、抑えきれない声が漏れる。
鎖が冷たく鳴り、皮膚に食い込む。
その痛みすら、熱に溶かされていく感覚。
「ふっ……ああっ!」
指が最後にもう一度、腹部をゆっくりと撫で、抜けていった。
ヴァスは安堵と喪失が混じった吐息を漏らし、外套の上に体を沈めた。
ユネの喉がひくりと鳴る。
恍惚だった。
女を抱いても満たされない、あまりに深く、精神を昂揚させる激しさを、初めて味わう。
(そうか、わかった)
かすかに呼吸が弾むのは、体のせいではなかった。
心が、魂が、震えていた。
(これが、生き延びるということ)
ユネは、主人の意図を理解した。
支配とそれに伴う優越、高ぶりと冷酷。
それを身につけるための、この牢獄だ。
ふつ、と笑いがこみ上げてきた。
足元で、力なく果てたヴァスの体を、片足で転がし、仰向けにする。
月明かりで、太ももと石床にキラリと光るものが張り付いて見えた。
鎖が冷たく鳴った。
首輪が喉元に食い込み、その痛みさえ甘く感じられるほどに、ユネの意識は浮ついていた。
「……は……うあ……」
理性が崩れ落ちた、ヴァスの呻き音がした気がした。
そして、やがて、静かに壁を伝う水音が帰ってくる。
ヴァスは外套に顔を埋めたまま、虚ろな瞳で闇を見つめていた。
荒い呼吸はまだ収まらず、喉がひりつき、鎖の重みが首にずしりと残る。
(……終わった……?)
胸の奥にあるのは安堵か、恐怖か、甘い残り香か。
もう自分でも分からなかった。
体の奥でまだ微かな火が燻り、背筋を痺れさせる。
(……俺は……ここから……!)
窓の外が、白んでいた。
細い縦の隙間から射す光が、塔内の湿った空気を冷たく照らす。
ヴァスは無言のまま、ユネもまた、片膝を立てて座り黙っていた。
二人の距離は、鎖の長さ。
何があろうと、離れることはできないその距離は、ユネにとっては好ましくあり、ヴァスにとっては二つ目の牢と同じだった。
鎖がわずかに鳴る。
その音が夜明けの空気に溶け、牢内は再び静寂に沈んだ。
(ここからが、始まりだ)
ユネの目が、ゆっくりと閉じる。
ヴァスの瞼も、静かに降りた。
睡魔ではない。
ただ、もう何も考えたくなかった。
考えずとも、互いに、やるべきことははっきりしていた。
・
夕日の影が牢の外に長く伸び、日が沈み、夜がやってくる。しかし、この閉ざされた牢内には、昼も夜も存在しなかった。
濁った空気は熱を失い、石壁は冷たい水気をまとい、まるで生き物のように二人の裸の肌を舐め回している。投げ入れられた床に転がるパン――そんなものに、もう二人は見向きもしない。
飢えよりも、喉の渇きよりも、もっと原始的で抗いがたい欲望が彼らの体を突き動かしていた。
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