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第1話 社会人2年目、東京本社の洗礼

 明光プロダクツ株式会社9階、第二営業部。久米悠人は深く項垂れながらデスクへと戻る。  その手には握りしめたせいか、クシャクシャになったクリアファイルがあった。そのまま机に突っ伏し、ため息をつく。  やがて青いファイルに指を滑らせると、中の書類を取り出した。  だが冒頭から目を引く真っ赤な修正跡の数々に、口元を引きつらせ、再びためらうように紙を元に戻す。  後ろの席では、営業責任者の伊藤真吾が眉をひそめながら、久米の背中を見つめていた。  入社2年目、地方からこの部署に配属されたばかりの子に、早々に辞められては困る。  久米が来てからというもの、面倒な雑用は全て彼に押し付けてきたのだから。  コーヒーでも買って労ってやるか。そう思い立ち、伊藤は財布を手に席を立った。  エレベーターホールで待っていると、ドス黒いオーラを背負った主任、山本晴が現れた。  いつも以上に荒れてるな……  無視するのも気が引けたため、伊藤はエレベーターの表示に目をやりながら、軽く挨拶をする。 「お疲れ様です。主任も今から外ですか?」 「……ああ、コーヒーを買いに」  山本は目も合わせずに答えると、エレベーターのドアが開くと同時に滑るように乗り込んだ。 「乗らないのか?」  開ボタンを押しながらも、続けるその口調は素っ気ない。伊藤は慌てて手を振る。 「いえ、俺は……階段で。CO₂削減中なんで」  あんな不機嫌な主任と二人きりなんて、耐えられない。普通、新人相手にそこまで怒るか……?  買い物を済ませ、ビルの階段を上っていると、レジ袋の中で缶コーヒーがカンカンと音を立てた。  久米もついてないよな、異動早々、よりによって主任に目をつけられるなんて。  息を切らしながらフロアへ戻り、久米のデスクを覗くと、そこに彼の姿はなかった。 「あれ、久米は?」 「久米くんなら、遅刻するって叫びながら、車のキーを持って走って行きましたよ」  近くの女性社員小金が、くすくす笑いながら教えてくれる。  久米には少し抜けたところがあり、取引先とのアポを時々忘れるのだ。いつかうっかりやらかして、始末書となる日も近いのかもしれない。伊藤は苦笑いしながら頭をかいた。  袋から取り出した缶コーヒーを久米のデスクに置こうとしたとき、すでにポツンと置かれていたコーヒーが目に入る。 「これ……」 「さっき主任が置いてったんですよ」  と小金はそれが山本のお気に入りの銘柄だと教えてくれる。 「そうなんだ」  あの山本が?部下のために?  伊藤はシャツの襟を軽く正すと、主任室を一瞥して、手に持っていたコーヒーを彼女に渡す。 「これ、買いすぎたんで、よかったらどうぞ」  久米が駐車場に着いたころには、スペースのほとんどが埋まっていた。残っているのは、壁際の狭い区画だけ。  一番駐車の難しい場所しか残ってない……  久米は唾を飲み込み、サイドミラーを確認しながらゆっくりとバックする。そして、空きスペースが近づいてきたところで、深く息を吸った。  この角度なら、ハンドルを大きく回せばいけるはずだ……久米は己の力量を信じて、ハンドルを限界まで回し、アクセルを踏み込んだ。 「ブー……ギギギッ――!」  金属が擦れる音が響き、全身の毛が逆立つ。  慌ててサイドブレーキを引き、車から降りて後方へ回り込んだ。傷を確認しようとしゃがんだその瞬間、ポケットのスマホが鳴る。  画面には「主任」の2文字が浮かんでおり、久米の心は一気に冷え込んだ。  なんて日だ……  泣きそうになりながら通話ボタンを押すと、画面越しに山本の怒鳴り声が響く。 「何度も持ち物を確認しろって言っただろ!」 「え……?」  また怒られる――と久米は咄嗟に身構えた。この世の終わりのような気分で、傷ついた車体を撫でる。  えぐれた傷は浅いが、触れると痛かった。 「契約書、忘れてっただろ」  深いため息がスマホ越しに聞こえ、やがて、書類をパラパラめくる音がする。  きっと、今までの人生が順調すぎたんだ。そのツケが今回ってきた。  入社前の自分はいつも自信に溢れ、周りの人間に可愛がられてきた。叱られたことも、怒鳴られたこともない。  こんな低レベルなミスだって初めてだ。    どうしてこんなことになったんだろう。  考えれば考えるほど久米は悲しくなり涙がこぼれた。視界が白くぼやけるが、今は山本への報告が最優先だ。  久米は車に映る自身の影を見つめながら、喉を震わせた。 「すみません……主任、車を、ぶつけてしまいました……」 「……なんだって?」  山本の手から書類が落ちる。久米は黙ったまま返事をしない。  常日頃、自分に対して謝罪の言葉しか言わないこの新人が、今は石のように黙り込んでいる。  山本は眉間を押さえ、もう一度ため息をつくと、契約書をカバンにしまいながら語気を緩めた。 「怪我は?」  久米は無意識に首を振るが、相手には見えないと気づき、小さな声で返事をする。 「……いえ」 「今どこにいる?」  電話の声が一気に柔らかくなった。これが嵐の前の静けさではないかと、不安になるほどに。 「伊吹会社の駐車場です……」 「車体の傷を写真に撮って送れ。契約書は俺が持っていく。先方と会うのにみっともない姿は見せるなよ」   そう言って、電話は切れた。画面には通話終了の表示が出ている。久米は地面にしゃがみ込んだまま、しばらく動けなかった。  忙しい主任が、俺のために来てくれるなんて……  潤んだ目がせわしなく動く。久米は頭を下げて、叱られた子犬のように体育座りになった。  俺……この会社でやっていけるのかな……  伊吹会社の会議室で、久米は椅子に座りながら、気まずさを紛らわせるように足先に力を込めていた。  商談相手の自慢話を聞きながら、チラチラと壁の時計を盗み見る。もう1時間も経つのに、山本はまだ姿を現さない。  あの主任の険しい顔に今すぐ会いたいと思うなんて、入社以来初めてだった。  なぜ自分が目をつけられたのか、さっぱりわからないけど、山本はほかの人間にも厳しかった。  一度課長がサインを忘れたとき、容赦なく詰め寄っていったのを見たこともある。  山本は有能で厳格な人間だが、感情を伝えることに対してはやや不器用だった。  そう、主任はただ人付き合いが下手なだけで……  いや、これでは毎日自分に厳しく当たる彼を正当化してるようなもの。  久米は頭の考えを振り払うと、腕時計のベルトに触れた。やっぱり、この会社に入ってから何もかもおかしくなったんだ。 「久米くんはどう思う?」  吉田課長が目の前で手を振っていた。久米はハッと我に返ると、慌てて返事をする。 「何が、でしょうか……?」  大事な打ち合わせ中にぼんやりするなんて、しかも山本主任のことで……  吉田課長は怒っていないようで、笑顔を浮かべる。 「うちの会社に来ないかって話だよ」 「えっ!?」  久米は驚きのあまり、机に膝をぶつけた。その衝撃で、カップに入ったお茶が少しこぼれる。 「あっ、す……すみません……!」  慌てて謝罪し、ペーパーで水滴を拭こうとすると、「実はさっきね……」と言い、吉田課長が久米の手を握ってきた。  口元には相変わらず優しげな笑みを浮かべている。 「君が駐車場で途方に暮れてる姿を見て、可哀想になったんだ。どうせ山本くんにいじめられたんだろう?」  突然の接触に久米の顔がカッと赤くなる。自分の父親ほどの年齢の男が、どういう意図でそんな話をしたのかわからず、久米はサッと手を引き、頭を下げた。 「違うんです、主任は関係ありません、俺が未熟で至らないから、叱られるのは当然で……」 「なんだ、自覚はあるんだな」  入り口から馴染みのある声が聞こえて、久米はパッと顔を上げた。  山本主任だ。

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