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第2話 「バカなの?」って言われても

「し、主任!」  久米は慌てて立ち上がり、小走りで山本の元へ向かう。  山本はちらりと彼を一瞥し、不機嫌そうに言った。 「邪魔。そこ、どいて」 「あ、はい!」  久米は慌てて横に一歩ずれる。山本は鞄から資料を取り出し、真っ直ぐ吉田課長の前に進んで深々と頭を下げた。 「大変失礼しました。お待たせしてしまって」 「いやいや、気にしないで。どうぞお掛けください」  吉田課長は手を振り、にこやかに促す。  山本が席につくと、横で棒立ちしている久米を鋭く睨む。  ――「早く動け」とでも言いたげな視線。  その空気を察した久米は慌てて隣の空席に腰を下ろし、契約内容の説明を始めた。  長い打ち合わせの間、久米の視線は何度も隣の山本に吸い寄せられる。汗で濡れたこめかみ、頬に貼りつく前髪、袖口から覗く白いシャツ――  いつもは完璧主義な山本主任には、似つかわしくない乱れ具合だ。  サインを終えた吉田がペンを差し出しながら、にこりと笑った。 「さっきの話、ぜひ前向きに考えてね、久米くん」  伸ばしかけた手が空中で止まる。  ……さっきの話?あの引き抜きの件か?  久米は伏し目がちに隣をちらりと見る。山本は全く動じる様子もなく、無表情で書類をファイルに収めていた。  その空気の凍りつき具合に、山本がふっと言葉を挟む。 「久米は未熟で、技術も経験も、正直言って全然足りない。  ご期待いただくのはありがたいですが、あまり過度な期待はご遠慮ください」  久米は思わず隣を見た。  まるで皮肉に聞こえるその言葉――  でも、馬鹿でもわかる。山本は今、自分を庇ってくれている。  汗ばんだ手のひらが、じわりと胸の奥まで温かくなる。 「……あはは」  吉田課長は笑っているが、その笑顔が余計に怖い。  山本は肘で久米を軽くつつく。 「あっ、えっと……この度は契約、誠にありがとうございます!」  久米は慌てて深く頭を下げた。 「長い時間、失礼いたしました」  山本も丁寧に礼をして、書類を鞄に収める。 「それじゃ、気をつけて帰ってね」  吉田が軽く手を振る。    駐車場に着くと、山本が立ち止まる。  久米は不安でいっぱいになり、ただ黙って背後に立つしかなかった。  ……主任、怒ってるよな……  午前中は書類で怒られ、午後は車を擦り、おまけに客先ではまともにフォローもできず、しかもあわや引き抜き未遂……  頭の中がぐちゃぐちゃで、どこから謝ればいいのかわからない。久米はぎゅっと唇を噛みしめて、声を絞り出す。 「あの……主任、その……」 「まだ突っ立ってんの?さっさとロック解除して」  山本があっさり遮る。  振り返って、山本が乗ってきた車を指差す。 「……俺、死ぬほど暑いんだけど」 「あ、はいっ!」  久米は慌ててキーを取り出し、ガチャリとロックを開ける。  山本はため息をつきながら助手席のドアを開け、さっさと乗り込んだ。 「何してんの。車内、灼熱地獄だよ。エンジン、早くかけて」  催促されるまま、久米は大急ぎで運転席に座り、エンジンを始動する。  山本は待ちきれないとばかりに窓を開け、ネクタイを少し緩めた。  その仕草を横目で見ながら、久米はつぶやく。 「……主任って、暑がりなんですね」 「は?」  山本が鋭く振り向く。 「い、いえ、なんでも……!」  久米は慌てて首を振る。 「てっきり……主任、自分で車で来たのかと……」 「来るわけないでしょ。帰りが二台になるじゃん。経費、考えなよ。」  エアコンの冷風が山本の前髪をふわりと揺らす。しばらくして、ふと目を閉じた。 「電車で来たんだよ。……運転、できないから」  ――え?  電車で?  だから遅れたのか?  だから……あんなに慌ただしかったのか?  頭の中でいろんなピースがつながっていく。  久米は思わず山本を見つめたが、その瞬間、山本の手がぽんと彼の頭に落ちた。 「いってっ……!」  痛くはない。でも、心臓が跳ねた。  久米はそっと目を開け、赤くなった山本の横顔を見る。  怒っているのか、暑さのせいか、頬がうっすら紅い。 「さっさと戻るよ」  車が動き出す。  久米は頭を押さえながら、何気なくルームミラー越しに山本を盗み見た。  助手席の山本は、窓の外を見ながら、腕をドアに預けて目を閉じている。シャツのボタンが一つ外れ、さっき知った“小さな秘密”がまだ車内に漂っている気がした。  ――主任にも、できないことがあるんだ。  そう思ったら、久米はちょっとだけ笑いたくなった。  それに……車を擦ったのは失敗だけど、少なくとも「主任にできないこと」では、自分のほうが一歩リードしてる。  ……なんか、ちょっとだけ、嬉しい。  思わず胸を張って背筋を伸ばすと―― 「……バカなの?」  隣から山本の冷たい声。 「他人に手握られて、黙ってるとか、ありえないでしょ」 「い、いや、それは……」  言い訳しようと口を開くが、言葉が出ない。あの時、自分は確かに何もできなかった。  山本は窓の外を向いたまま、ぶっきらぼうに言った。 「……せめて、『警察呼びますよ』って顔くらい、しなよ。鈍すぎ」  信号待ちで、久米はようやくハンドルから力を抜き、小さく呟く。 「……すみません、ご迷惑ばかりで……」  横にいる人は何も言わない。真夏の日差しが窓際に落ち、街の景色が陽炎に揺れる。 「書類忘れて、車擦って、客先で言葉も出せなくて……  ……引き抜かれそうにまでなって……僕、ほんとに……」  山本は、ぐっと隣から久米を見つめ、低く一言。 「……青になったよ」  びくっと顔を上げた久米。  でも、信号はまだ赤いまま。 「……え?」  呆然と山本を振り返ると、彼は半目で、わずかに顎を上げて笑う。 「……今日の仕事終わったら、一杯付き合ってくれん?」  そのひと言に、久米の心臓は再び、大きく跳ねた。  

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