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第3話 伊藤先輩、性格悪くないですか?

 久米は車を停めて、ドアノブに手をかける直前で山本の声が聞こえた。 「先に帰るよ。ここで10分待ってから会社に戻って。」  素直に手を引っ込めて、解けたばかりのシートベルトをぼんやり見つめる久米。首をかしげた。 「会社から慌てて飛び出してお前の面倒を見に行く姿、誰にも見られたくないんだよ。」  山本は舌打ちをして車のドアを開けると、勢いよく降りてバタンと閉めた。  久米はホッと息をつき、シートベルトを外して背もたれに寄りかかる。  さっきの車内での会話を思い返すと、まだ耳の奥が熱い気がした。  山本と二人で飲みに行くなんて、今まで一度も夢にも思わなかった。毎日失敗だらけの自分を、神様がちょっとだけ気に入ってくれたのかもしれない。  そんなことをぼんやり考えながら、会社のビルに入っていく山本の後ろ姿を見つめていた。  ――だが、山本は自分の気持ちを隠せていると思っていた。  会社の9階、窓から指でこじ開けたブラインドの隙間を通して、一双の冷静な目がすべてを見つめていた。  伊藤はコーヒーカップの縁をそっと抑え、手を引っ込める。 「伊藤さん、この書類、どうします?主任は期限が明日って言ってましたよ。」  小金が厚い書類を手に持ち、伊藤の隣に寄った。 「それか…」伊藤は書類の山を見てため息を吐いた。  確認と押印だけの無駄な仕事と割り切っていたが、目を久米の机に向けて閃いた。 「俺の机に置いといてくれ。」  珍しくニコッと笑みを浮かべ、どこか違和感のある優しい笑顔。  小金は思わず一歩引き、「厄介ごと押し付けられたんじゃ…」と疑った。 「ただいま戻りました。」  山本は顔色一つ変えずオフィスに入ると、「お疲れ様です」と声がかかるが気にも留めず自室へ向かった。 「主任、今日もお疲れ様です。」  伊藤は数歩詰めて、意味ありげに声をかけた。  山本は足を止め、半開きの目で言う。 「どけ。」 「そんな怖いこと言うなよ…これ、明日までに全部見るのか?」  伊藤は積み上げられた書類を指しながらにやりとする。  山本は20センチほどの書類の山を一瞥し、 「当たり前だろ。」と吐き捨てて部屋に入った。 「オッケーオッケー。」  伊藤は閉じたドアを見つめ、思わず笑みがこぼれた。 「主任も、ちゃんと感情があるんだな。」 「主任、あんなに顔が怖いのに、得意先の訪問に行くだけって言ってませんでした?」と小金は尋ねる。 「そう?俺にはいい気分に見えたけどな。」伊藤は背伸びをしながら席に戻り、ウインクして返す。  小金は困惑した。  これが、いい気分なら、主任はきっと病的なツンデレかもしれない。  その瞬間、オフィスの入り口から大きな声が響いた。 「――ただいま!!」  久米は前髪を払い、今日の嫌なことすべてが消えたようにルンルンで席に戻る。  鼻歌を歌いながら座る彼の周りには、黄色い花の幻影が舞っているようだった。  伊藤はこっそり久米の隣に移動し、声を潜めて言った。 「久米君、吉田課長はちゃんと契約書にサインしてくれた?」  元々吉田は伊藤の顧客だったが、契約書のサインだけは面倒で久米に任せていた。  でも、久米は腕を組み、鼻を高くして胸を張る。 「当、当然問題ありません!僕に任せても全然問題ありませんから!!」  嘘はバレていないし、少しはプライドもある。 「そうか。」  伊藤は久米の背中を軽く叩き、机の上にある青いファイルをちらりと見て言った。 「主任のところから戻った時、これだけ持って帰ったのかと思ったら、契約書忘れたかと心配したよ。」  その言葉に久米は背中に冷たいものを感じて目を泳がせ、 「あ、あれは…さっとリュックに入れたから、だから。」と口ごもった。 「なるほど、俺の勘違いだったな」  久米は汗を拭いた。  伊藤は伸ばした手で、山本の机にあったコーヒーを青いファイルの上に置き、耳打ちした。 「これ、誰にもらったか分かるか?」  話題が変わって、久米の肩が少し軽くなる。 「…誰ですか?」 「主任だよ。」  伊藤は久米の顔の表情を見て、確信を深めた。  驚きの光が久米の目に灯る前に、伊藤は背後から書類の束を取り出して机に置いた。 「これ、今日中によろしくな。」 「えっ!?」  久米は目を見開く。  こんなにたくさん…今日中に終わるわけがない――主任と飲みに行く約束もあるのに!  口角を引きつらせても、断る言葉は出なかった。 「終わらせられなかったら、主任はがっかりするぞ…」  どうしても……主任をがっかりさせられない。  主任はさっき、自分に大きな助けをくれたばかりだ。  伊藤が書類を動かそうとした瞬間、久米は慌てて手を伸ばし、 「…やります!やりますから!!」と声をあげた。   伊藤は満足げに口元を緩め、指を鳴らした。 「さすがは我が社のエース候補だ。信頼に値するよ。今夜残業しないでどう主任の期待に応えるんだ?」  そう言って自席に戻った。遠くから見ていた小金は呆然としたままだった。 「これはもう、フラグだろうな……」    小金は手で口を覆い、久米を哀れむように見つめていた。  久米は山本からもらったコーヒーを少しずつ飲みながら、右手を忙しく動かして署名と押印を繰り返す。  自分は新しく配属されたばかりだから、雑用もやるべきだと分かっている。でもパソコンの時計が無情に進むにつれ、肩の重さは増していった。  窓の外はオレンジ色の夕焼けに染また。  伊藤は上着を着てリュックを背負い、机の上に鍵を置きながら久米に言った。 「久米君、先に帰るぞ。電気と鍵は忘れずにな。」  久米は鍵を受け取り、立ち上がって礼を言う。 「お疲れ様でした。」 「良い週末を。」  伊藤は久米の頭を優しく撫でて言った。 「どこが良い週末なんだよ……」  久米は伊藤の背中を見て変な顔を作り、ドアが閉まる音と同時に椅子にドサッと座り込んだ。  これから主任にどう説明しようか。悩みながら椅子を回し、主任の部屋の扉に視線を向ける。  本当は主任と飲みに行くのが楽しみだった。約束したのに。急に仕事が入って……   そんな風に考えていると、ちょうど山本が主任室からバッグを背負って出てきたところだった。

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