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第4話 期待なんて、しないのに
山本がドアを閉めた瞬間を狙って、久米は慌てて背を向け、まだ半分残っている書類に向き直った。
心の中で、自分を呪う。
——本当にダメだな。逃げることしか考えてない。逃げても、何の意味もないのに。
机の上の印鑑を手に取り、書類の最後のページに力強く押しつける。
「残業?」
突然、耳元で聞こえた声に、久米はハッとして振り返った。
そこには、山本の整った横顔があった。
茶色っぽいの瞳が目尻をかすめ、久米はその中に、自分の慌てた顔が映っているのを見つける。
山本は曲げていた身体を真っ直ぐに起こし、少し呆れたように言った。
「驚くことしかできないのか?お前」
久米は慌てて視線を下ろし、再び書類に目を落とす。顔が熱くなっていくのを感じつつ、反射的に口をついて出た。
「す、すみません……」
山本は何気なく久米の横の椅子を引き寄せて座り、手を伸ばして久米が修正した書類をめくりながら、舌打ちした。
「……あの野郎」
「す、すみません!!」
山本が誰かを罵る声を聞き、自分のことではないと分かっていながらも、つい謝ってしまう。
書類を軽く久米の頭にトントンと叩きつけて、
「お前のことじゃないって言ってるだろ、バカ」
と山本はそうを言いながら、久米の顔をざっと見て、机の上に残っている書類に目をやる。そして、ため息。
「……お前が署名。俺が押印。」
「え……?」
久米は頭の上に乗せられた書類を外し、信じられない顔をした。
主任が……自分の仕事を手伝ってくれるなんて。
「一人でやったら、どれだけ時間かかるか」
山本は苛立ちを隠さず、背負っていたバッグを床に置いた。
オレンジ色の光が窓の外から彼の頬の輪郭に当たり、久米の胸の奥が、どこか酸っぱくなる。まるで、冬に食べたみかんのように。
……主任は、午前中に怒っていた以外は、その後ずっと特に優しくて。
理由は分からない。ただ、ぼんやりと不安だった。
時間は静かに過ぎ、仕事が終わったのは、もう二十時近く。久米は書類を整理し、バッグを背負って入口へ向かう山本を見て、申し訳ない気持ちになった。
唇を噛み、山本を呼び止める。
「今日は……本当に、ありがとうございました」
目を閉じて深く頭を下げ、九十度のお辞儀をした。
「グズグズしないで、荷物を片付けてさっさと下に降りな」
広いオフィスに山本の声が響く。
久米はその言葉を何度も噛み締め、その意味を理解した。
顔を上げると、山本は「本当に頼りないな」と言いたげな顔で、
「いつまで待てばいいんだよ」
「はいっ!」
久米の目に喜びの光が差し込み、大きな声で答え、慌てて荷物をまとめ始めた。
主任は……午後の約束を、忘れていなかったのだ。
街角の居酒屋の入口には、少し色褪せた提灯が掛かっていた。久米は山本の後ろについて、扉を押し開ける。
迎えてくれたのは、熱心な中年の店主だった。案内しながら、楽しそうに言う。
「山本さん、久しぶりですね」
「最近は仕事が忙しくて」
店長は控えめな表情の久米をちらりと見て、笑いながら聞いた。
「山本さんとこの……新しい人?」
「は、はいっ!」
久米はすぐに背筋を伸ばし、名前を呼ばれた学生のように狭い通路にピシッと立つ。
「邪魔しないで、こっちに座りな」
山本はツッコミを面倒くさそうにして、店長は楽しげに言った。
「元気な若者だね。もしかしたら山本さんのポーカーフェイスも直せるかもよ」
「店長、生ビール二つ」
山本は席に着くと、店長のからかいを無視して、さっと注文する。
店長は承知しながら、まだ立っている久米を手で引き、そっと席に押し込んだ。
「主任、よくここ来るんですか?」
肩を揉みながらバッグを置き、久米は聞く。
山本はテーブルの隅から小皿と箸を取り、久米の前に置きながら、ぼそっと言った。
「まあ、そんなところかな」
さらに質問しようとしたところに、店長が生ビールを運んできた。
白い泡がカップの縁から溢れそうで、黄金色の液体が灯りの下で柔らかく輝いている。
久米は、山本の眉間の力が抜けているのに気づいた。グラスの持ち手を握る山本の手の甲には、血管が少し浮き出ている。
「久米、今日はお疲れさま」
山本はふわりとつぶやく。
すべてが柔らかく、グラスの壁に染み出る露が、久米に今日あった出来事を思い出させる。
六時間前の自分は、泣きそうになって、辞めたいと思いかけていたのに。
唾を飲み込み、やっぱり——今日の主任はいつもと違う!
慎重にグラスを持ち上げ、山本のグラスに軽くぶつけ、小さく返す。
「主任も……お疲れさまでした……」
冷たいビールが口に入り、炭酸が喉のあたりで心地よく跳ねた。
昔、父親が帰宅後、母親にビールを頼んでいた理由が、久米はようやく分かった。
店内は、客たちの楽しげな話し声でいっぱいだ。金曜日の夜らしく、こんな時間でも昼間の会社員たちで賑わっている。
久米は周りを見回し、主任とこんなところで飲むなんで、想像もしなかった。
まさか今日、とは。
山本はメニューを閉じ、少しのそわそわを隠せない久米の顔を見て、くすっと笑った。
ほんの一瞬だけ、すぐに口元の笑みを抑えて言う。
「久米」
「はい?」
久米は我に返り、山本を見る。
「もし……部署を変えたいなら、言ってくれればいい。上に話を通してやるから」
山本は口元を少し引き上げ、グラスの泡が静かに崩れていくのを見つめながら言った。
……それは、どういう意味だ?
久米はグラスの持ち手を離し、しばらく言葉が出なかった。山本は少し顔をそらし、久米の視線を避ける。
……やっぱり主任は、自分が嫌いなのか。
こんなに早く追い出そうとしてるんだ。久米は眉を落とした。
確かに、自分は馬鹿で、簡単な仕事すらミスしてしまうから。
返事を待てず、山本は自分の言い過ぎに気づく。
手前のフライドポテトをそっと久米に押しやり、語気を和らげようとした。
「今日、吉田のところで聞こえたんだ。お前をそっちの会社に行かせて欲しいって。あの時からずっと、考えてたんだ」
「……あ」
久米は呆然とした。
山本は、あの会話を全部聞いていたのか。
「自分からお願いしたわけじゃないんです。向こうが……言ってきたんです……」と慌てて首を振り、答える。
山本は答えず、グラスを持ち上げ、一気に飲み干した。茶色の瞳は、前髪の影で一瞬、閉じた。
少し経ってから、山本が尋ねた。
「久米。今日、駐車場で電話の時……泣いてたのか?」
「い、いや!」
久米は体を震わせ、少し前のめりになり、山本の軽く上がった眉にぶつかった。
まるで電気が走ったように、体を引っ込め、声はほとんど聞こえないくらい小さくなる。
「……ただ、泣きそうになっただけで……」
山本はため息をつき、眉間を揉み、長い間我慢していたように言った。
「分かってる。俺は普段、少し……厳しい。でも、誤解してほしくないんだ」
「……誤解?」
久米は背筋を伸ばし、真剣に山本を見て、続きを待った。
「……お前に、別に悪意とかないし……まぁ、少しくらいは……期待もしてる」
声は小さくなったが、久米にははっきり聞こえた。
……こんな自分に似合わないことを言うのは、厄介な大口顧客を相手にするより疲れる。
反応がない久米を気にせず、山本はまた一口ビールを飲む。
「へぇ……晴が、そんな優しいこと言えるようになったとはね?」
後ろのカーテンがめくられ、久米は聞き覚えのある声に振り向く。
そこには、意味深な笑みを浮かべた伊藤が立っていた。
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