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第5話 主任も伊藤さんも、どうかしてる

「……伊藤さん!?」  久米は半身を乗り出し、伊藤がジャケットを片手にこちらへ向かってくる姿を見つけた。その後ろには、見たことのない男が一人ついてきている。 「お、久米くん」  伊藤はゆるく手を上げて挨拶し、半ば本気、半ば冗談めかして言った。 「こんなに資料あったのに、もう終わらせたの?さすがだねぇ」  久米は慌てて立ち上がり、首を振りながら言った。 「い、いえ、僕一人じゃなくて……」 「久米」  山本が酒杯を置き、久米の言葉を遮った。 「へぇ~」  伊藤は隣に座る山本に目を向け、からかうように笑う。  山本は伊藤に冷ややかな視線を向けたが、久米は無言の圧に押され、呼吸すら浅くなっていた。  伊藤は久米の肩を軽く押して座らせ、自分もその隣に腰掛けた。 「まさか、山本主任まだここにくるなんて」  山本が何も言わないうちに、伊藤は後ろに立っている男に向き直る。 「清水さん、そっち座って。おい、晴、もう少し奥に詰めてくれ」  山本は舌打ちしながら、仕方なく席をずらす。清水は「すみません」と言いながら山本の隣に座った。  この予想外の展開に、久米はただ呆然と伊藤が店員に酒を追加注文している様子を見つめるしかなかった。  ……っていうか、伊藤さんどれだけ飲んでるんだ?ついさっきまで「晴」なんて、呼んでなかったか?  生きて帰れるのかこの人。  ほどなくしてビールが二杯運ばれてきた。  伊藤はグラスを掲げ、山本に向かって言う。 「我らが愛すべき主任に、乾杯」  山本は眉をひそめ、形だけグラスを軽く持ち上げるだけだった。  久米は、この視線がもし自分に向けられたら立ち直れないと、心底思った。  空気を変えたくて、久米は隣に座る男に視線を向ける。 「伊藤さん、この方は……?」 「んー、彼は――」  伊藤はわざと声を引っ張り、にやにやしながら山本を見た。 「新しい彼氏」 「ぶっ……!」  久米は思わず口に含んでいたビールを吹き出しそうになり、顔を真っ赤にして咳き込む。  山本は何も言わず、ただグラスを傾けるだけ。  清水は苦笑しながら手を振った。 「信じないでね、今日初めて会ったんだ」  久米は半泣き状態で清水を改めて観察する。頬にかかる長めの前髪、耳元のピアス。  ……まるで深夜アニメに出てきそうな、危ない大人。  伊藤は久米の頭をぐしゃぐしゃに撫で回しながら笑う。 「目がハートになってるぞ、久米くん」 「な、なってません!」  伊藤は向かい側の二人をちらりと見て、わざとらしくため息をついた。 「ダメだよ、清水さんに手出しちゃ。彼、公務員だからさ。お前みたいなヒヨコは、素直に晴のところで羽ばたいてな」 「公務員……!?」  久米は思わず二度見する。  人は見かけによらない……いや、自分が単純すぎたんだ。  伊藤はビールを飲みながら、ゆっくり言葉を続けた。 「そういや晴、俺たち昔もよくここで飲んだよな。懐かしいね」  ――え?  久米はこっそり山本の横顔を見る。  さっき自分が同じことを聞いた時は、何も答えなかったのに。  山本は何も聞こえなかったかのように、目の前の唐揚げを突っついている。  そして、形の良い一つを久米の小皿にぽんと置いた。  「ボーッとすんな。冷める」  「……あ、ありがとうございます」  この一言だけで、久米は全身に走る違和感をはっきりと察した。  主任……絶対、なんかある。  伊藤はその空気すら楽しむように、ジャケットからタバコとライターを取り出す。  久米は唐揚げを頬張りながら口をもごもご動かし、むぐむぐと呟く。 「……し、伊藤さん、タバコ吸うんですか?」  火を点けながら伊藤は言う。 「はっきりしゃべれ、ワンちゃん」 「確かにこれは予想外ですね」  清水も驚いたように笑う。 「酒飲んだら、吸いたくなるんだよ」伊藤は山本をじっと見つめ、ニヤリとする。 「晴、今夜は飲みすぎないようにね」  その瞬間、山本は無言でグラスを一気に飲み干し、店員に「生、もう一杯」と告げる。  そして新しいグラスを伊藤の前にドンと置く。 「真吾、自分の尻は自分で拭け」 「へいへい、主任~」  山本は顔を背けた。  久米はその表情が読み取れず、ただ心の中で叫ぶ。  ――な、なんだこの空気は……!  気を取り直した久米は言う。 「大丈夫です!僕、やれます!」 「まさか真吾が新人いじめるとは思わなかったな」  清水は笑いながら肩をすくめる。 「そうそう」  伊藤は清水を指差し、 「こっちが清水湊。俺がいなくなったら、彼に連絡すればすぐ見つかるから」 「やめろって」  清水はその指を払って笑う。  久米はそのやり取りを見て、ますます頭がこんがらがってくる。  生ビールをテーブルに置いても、山本はすぐにまた一気に飲み干す。口元の泡を拭いながら、山本はぼそっと言った。 「クズには近寄るな。自分を大事にしろ」 「さすが、経験者は語るってやつ?」  清水はその言葉に肩をすくめ、指で山本の肩をつつく。  山本は面倒くさそうに席をずれて、清水と距離を取る。  伊藤は灰皿に煙草を押し付けて立ち上がる。 「じゃ、俺たちはこれで失礼するわ」  清水も白布の肩を軽く叩く。 「ご馳走さま」  山本はまた舌打ちし、生ビールを追加で頼む。  久米は慌てて立ち上がる。  「お、送ってきます!」  山本は何も言わず、ただ三人が店の外へ出ていく姿を黙って見送った。  グラスを取り、また一気に飲み干す。  ――あの野郎……   店の前で、久米は伊藤にぐいぐいと肩を引っ張られ、完全に振り回されていた。あっちの話、こっちの冗談、もう訳がわからない。  見かねた清水が、伊藤の腕を引き剥がしながら言う。 「そんなに彼を主任から引き離すのは、さすがにどうかと思いますよ」  伊藤はふふんと意味深に笑い、「まあまあ、清水さんの顔を立てて、今日はこのくらいにしておくか」と軽く背中を叩いた。 「おやすみ、久米くん。――主任に食べられないように、気をつけてね?」  肩をポンと叩いた伊藤は、ほんの一瞬だけ、からかいとも後悔ともつかない笑みを浮かべて、ぽつりと続けた。 「……ま、俺みたいになるなよ」 「え?」  思わず聞き返した久米に、伊藤はすぐいつもの調子に戻り、軽く手を振って笑った。 「なんでもない。じゃあな」  その背中を見送りながら、久米は首をかしげた。  ……なんだったんだ、今の。    二人の背中を見送りながら、久米は肩をぐるりと回してつぶやく。 「なんか、今日のみんな……変だ」  主任も、いつもの冷たくて近寄りがたい上司じゃなかったし。伊藤さんだって、いつもみたいにニコニコ庇ってくれる先輩じゃない気がする。  にぎやかな街を一瞥し、久米は複雑な気持ちを抱えたまま、店の扉を開けた。  中に入ると、ちょうど店長が近づいてきて、言葉より先に腕をつかまれた。 「もう帰ったのかと思ってたよ」 「えっ?」  午後の吉田課長の一件もあって、久米は反射的にビクリと手を引っ込める。昼間、主任に言われた言葉が頭をよぎる。 「あ、あの、店長……そ、そんなことしたら……俺、警察呼びますよ!」 「ご、ごめんごめん、驚かせたね」  店長は慌てて一歩下がり、小声で続けた。 「でもさ……君たちの主任、あっちでずっと一人で飲んでるんだ」  え――。  ようやく久米は、伊藤がさっき自分を引き留めていた理由を悟った。店長の肩越しに視線を伸ばすと、店の隅、壁際の席で、山本がうつ伏せるようにしてテーブルに伏していた。  指先が、空になったグラスのふちをなぞっている。かすかに傾いたグラスは、まるで次の瞬間にはテーブルから転がり落ちそうだ。  ――……飲みすぎ、だ。  酔った父親の世話なら慣れているつもりだけど、主任のこういう姿は初めてで、どうしていいかわからない。  助けを求めるように店長を見ると、彼も困った顔で言った。 「君たちの主任、酒癖が本当に悪いんだよ……」  そう言いながら、腕をさすって鳥肌を落ち着けようとしている。  ――ここは……俺がなんとかするしかない!  意を決した久米は、ぐっと拳を握りしめて店長に向き直った。 「大丈夫です!俺に任せてください!」 「頼もしいなぁ、新人くん!」  店長は肩を叩き、安心したように笑った。  その言葉に背中を押され、久米は胸を張って、山本がいる席へと向かっていった。

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