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第6話 キス未遂の件

 頭の中では冷静なプランを練っていたはずなのに、現実はひたすらドラマチックだった。  電柱にしがみつき、一歩も離れようとしない山本を前に、久米は完全に戦意喪失。 「……真吾のクソ野郎……」  道路を走り抜けるタクシーのエンジン音にかき消されそうな声が、かろうじて耳に届く。  久米は地面に落ちたジャケットを拾い上げ、なんだか胸がきゅっと締めつけられた。  居酒屋を出てから、主任の「真吾のクソ野郎」はもう二十回以上聞いている。  夜風には、昼間の熱がまだ残っていて。街の喧騒と、自分たちの世界が、どこかかけ離れていく気がした。    歩道のガードレールに寄りかかりながら、久米はぽつりとつぶやく。 「左からも右からも、伊藤さん伊藤さんって……どんだけ好きなんですか」 「はあ!?誰が好きだって!バカかお前!」  予想外に勢いよく返ってきた声に、肩がびくりと跳ねた。  いつもの主任なら、そんなこと冗談でも言わない。  本当に、伊藤さんのあの冗談――冗談じゃないのかもって、一瞬思ってしまった。  ……いや、ないないない!  近くを通り過ぎる若者たちの誰かが、缶を潰す音が「ガシャン」と鳴った。まるで胸の真ん中を殴られたみたいだった。  ――今日は、主任との距離が縮まるはずだったのに。  俯いて、抱きついたまま動かない山本の背中を見つめる。    逆に、どんどん遠ざかっている気がするのは、どうしてだろう。  溜め息をついて、ポケットからスマホを取り出し、突然肩に重みを感じた。  慌てて振り返ると、顔面蒼白の山本が、ぐらりと体を預けてきた。 「……吐きそう……」 「えっ、ええええええっ!?」  スマホをポケットに突っ込み、辺りを見回す。  ……どこか、すぐ使えそうな場所――!  と、視界の端に、やけに派手なピンクの建物が飛び込んできた。  まさかのラブホ。  人生でこんなにも、この建物に感謝する日が来るとは思わなかった。 「主任、行きますよっ!」  荷物をかき集め、必死に山本を支えながら、ホテルの入口へと走り出した。    滑らかなベッドの上に座り、久米は正面の壁に掛かった大きな鏡に映る自分の姿を見つめた。心臓はドクドクとうるさいほど跳ね続けている。  人生で初めて踏み入れたこんな場所――まさか、やましい目的でもなく、酔っ払った上司を連れて来るなんて。  その事実を思い出すだけで、久米は顔がますます熱くなり、両手で頬を覆った。  部屋の奥から、トイレの水を流す音が聞こえた。慌てて立ち上がり、バスルームの前に駆け寄る。  ドアが開いた瞬間、久米は言葉を失った。  山本の髪は濡れたまま額に張り付き、ぼんやりとした瞳はどこにも焦点を合わせていない。まるで水に落ちた小動物のように、弱々しく、静かだった。 「……だ、大丈夫ですか?」  思わず支えようと手を伸ばすが、山本はそれを乱暴に払い、壁に寄りかかったまま低く言った。 「……どけ」  そのままフラフラと洗面所に入り、口をゆすぐ姿は、どこか孤独で、痛々しかった。  ……主任、ですよね?  久米の胸には、またしても世界から切り離されたような強烈な違和感が残った。    しばらくして、山本は壁を伝いながらゆっくりと出てきた。かかとが敷居の段差に当たり、よろめいてベッドの端に倒れ込む。 「し、主任……水、飲みましょう……」  久米は急いで枕元にあったミネラルウォーターを開け、差し出した。 「……ありがと」  山本は重たそうにまぶたを上げ、水を受け取ると喉を鳴らして一気に飲み干す。勢いが強すぎて、口元から溢れた水が首筋をつたってシャツの襟を濡らした。 「……クソ、うぜぇ」  そう呟くと、山本はネクタイを引き下ろし、シャツのボタンをいくつか外した。  久米はただ呆然と、その姿を見つめた。  ……主任の、こんな姿、初めて見る。  手が勝手に動きそうになる。でも、それを必死に抑えた。  可哀想で、でも……近づくのが怖い。  山本は手の甲で口元の水滴を拭い、半開きの目をゆっくり久米に向けた。 「……お前の前で、こんな……だっせぇな」  ――全部、あの真吾のせいだ。  また刺激されて、つい飲み過ぎた。 「……そんなことないです」  久米はやっと肩の力を抜き、小さく答えた。 「主任は、ただ……少し飲みすぎただけです」  山本はペットボトルをベッド脇に置き、ネクタイを完全に外すと、力の抜けた声で言った。 「……お前、なんで聞かないの?」 「え?」  久米は一瞬動きを止め、ぎこちなく顔を背けた。 「べ、別に知りたくないですから!」  ――嘘だ。  本当は知りたくて仕方がない。どうしてこんなになるまで飲んだのか、伊藤さんとの過去は?どうして、今日急にこんなに心を開いてくれるのか。  ……でも、口には出せない。  その瞬間、久米のネクタイがグッと引かれた。 「わっ……!」  あわてて手を突いてベッドに体を支える。さもなければ、そのまま山本の顔に倒れ込んでいた。  視線を上げると、山本は半眼のまま、じっとこちらを見つめている。  長いまつげの先まで、はっきり見える距離。 「……素直じゃないやつ」  低く、掠れた声が落ちた。  久米の心に、小さな波が立つ。  引き寄せられたネクタイを必死で引き戻そうとするが、山本の握力は意外にも強い。   「……どっちがですか」  久米は小さく呟き、力なく笑って返した。 「……は?」  山本が眉をひそめる。こんな状況で、生意気に言い返してきた久米に、わずかに目を見開いた。  久米は唇を噛みしめ、胸の内に溜め込んだ言葉が堰を切ったように溢れ出す。   「主任が僕にどう思ってても、関係ないです。怒られても、バカにされても、全部僕のためだって分かってますから。だから……」  ――どうか、これ以上、突き放さないでください。  ……でも、その一番大事な言葉だけは、どうしても出せなかった。  ふと、山本の目が柔らかくなった気がして、低く問いかけられる。 「……だから?」   「な、なんでもないです!気にしないでください! 「主任、もう寝ましょう!」  久米は慌ててネクタイを引き、山本の手が空中で揺れる。自分にそう言い聞かせるように、視線をそらす。 「……きっと、寝たら全部忘れます!」 「……忘れてほしいのか?」  山本は、まだネクタイから手を離さない。 「……お好きに。」 「じゃあ、一つ条件。」  山本はほんの少し顔を近づけ、淡々と囁いた。 「……キスしてくれたら、忘れてやる。」  そのあまりの冷静さに、久米は盛大にむせかけた。 「し、主任!?や、やめてください!冗談キツいですよ!!」  わかってる、酔ってるって。でも、いくらなんでもそれは――  山本は何も言わず、少しだけ近づいてきた。かすかに目を開け、また閉じる。  その顔が、どんどん近づいてくる。  久米は反射的に、目をぎゅっと閉じ、手を突き出した。 「ま、待って!ダメです!酔った勢いで主任に手を出すなんて絶対無理です!たとえ主任が押し倒してきても!!」  山本の唇は、久米の差し出した手のひらにふわりと触れた。  やわらかく、くすぐったい息が、指先に絡む。 「……はぁ……」  久米はあわてて手を引き、首を伸ばして物理的な距離をとった。  山本は力なくまぶたを持ち上げ、顔を真っ赤にした久米をじっと見つめ、一言。 「……うるさい。」  部屋の中には、エアコンの微かな音だけが残る。  山本は頭をかきながら、フラフラとベッドに転がり、そのまま仰向けに倒れた。 「……電気、消して。寝る」  やっと、長い長い一日が終わる。 「……は、はい」  久米はよろよろと立ち上がり、壁際のスイッチまでたどり着く。スイッチに指をかけたとき、自分の膝がガクガクと震えているのに気づいた。  胸に手を当て、どうにか気持ちを落ち着かせてから、部屋の明かりを消す。  クローゼットから毛布を引っ張り出し、ベッドをぐるりと回ってソファに身を沈めた。  カーテンは空調の風にふわりと揺れ、夜景がその隙間からちらりとのぞく。 「……さっき、キスしたかったんだろ?」  ベッド側から、山本のぼんやりした声が聞こえた。 「しゅ、主任!それ、セクハラですから!!」  久米は跳ね起きそうになるのを必死に抑え、ずり落ちかけた毛布を引き上げた。  山本はくすっと笑って、それきり静かに眠りにつく。  久米はスマホをマナーモードに切り替え、ソファの背にもたれながら、誰にも聞こえない小さな声で、そう呟いた。 「……こんな冗談、反則です」 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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