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第7話 はじめての朝帰り
頭が割れそうに痛む。
こんなになるまで飲んだのは、最後がいつだったかも思い出せない。山本はあまりはっきりと覚えていなかった。
部屋はまだ薄暗い。ゆっくりと体を動かして寝返りを打つと、薄く開いた目に映ったのは、ソファーで大の字になって寝ている久米の姿だった。
遮光カーテンの隙間から、時折エアコンの風に吹かれて、わずかな陽射しが漏れてくる。
山本はそのまま、光と影が久米の体を滑っていくのをじっと見つめた。
不思議と、この瞬間だけは頭痛が和らいだ気がした。
昨夜――。
山本は目を閉じた。
いくつかの断片的な記憶が脳裏に浮かび、枕に顔を擦りつけるほどにぐちゃぐちゃで、恥ずかしさで穴があったら入りたい気分だった。
やっぱり何も覚えていないフリをするのが得策か。
身を起こしながら、もう一度久米に視線を向ける。正直、自分でもわからない。
こんな寝相の悪い、よく顎を突き出して強がっては不器用な後輩が、想像以上に真剣で、自分が思っている以上に――近づきたい、と思ってしまっていることに。
賢い山本が、そんな感情の正体を見誤るはずもない。
ベッドサイドのミネラルウォーターを手に取り、音を立てないようにそっとキャップを開けた。
眠っている久米を、できるだけ起こさないように。
――もう一度、信じてもいいんだろうか。
小さなペットボトルの飲み口を見つめながら、山本は答えのない問いを自分に投げかけた。
久米は、山本に無理やり起こされた。
何度もあくびを噛み殺しながら、山本の後ろをついて、まだ夢の余韻が残るラブホテルを出る。
朝六時の居酒屋街は、夜の喧騒とは違って誰一人いない。耳に響くのは、山本と自分の足音だけだった。
肩にだらんとかけたリュックのストラップを引き上げ、久米は足早に山本に並んで歩く。
山本は久米が想像していたよりも、ずっとシャキッとしていた。起きたときから、二日酔いには到底見えない顔だった。
これだけ氷のように無表情なら、昨夜のことはきっと夢だったんだろう。
久米は横目で山本を盗み見ながら、心の中でそう呟いた。
その視線に気づいたのか、山本はわざと歩を止め、追い越しそうになった久米が慌てて振り返る。
「昨日は……迷惑かけたな」
迷惑!?
心の中で久米は叫んだ。あの山本主任が、自分に謝っている!?
恐れ多さと嬉しさが入り混じり、久米は首を振り、手をぶんぶんと振りながら言った。
「い、いえいえいえ! そんなことないです! 昨日はその……」
昨夜のことを口にしかけた瞬間、久米は舌を噛みそうになった。
危うく主任とキスしかけた光景が脳内フラッシュバックして、続きが何も言えなくなる。
山本もまた、「昨日」という単語すら聞きたくないようだった。眉をひそめ、脅すように低く言う。
「昨日、何があったって?」
久米はビクつきながら、恐る恐る答えた。
「……たいしたことじゃ、ないです……ただ、主任がちゃんと眠れたか心配で……」
「俺はちゃんと――」
「――っ!」
言いかけた山本を、久米がとっさに引き寄せた。鼻が久米の肩にぶつかって、涙がにじむほど痛い。
怒鳴りかけた瞬間、山本の背後を一台の自転車が猛スピードで通り抜けていく。
「……危ないったら。こんな朝っぱらから、飛ばしてんじゃないよ……」
斜め上から聞こえてくる久米の声。この距離なら、彼の吐息さえも肌に感じるほどだった。
顔が熱くなるのを感じながら、山本は思わず久米を突き飛ばす。口調も怒鳴るというよりは、どこか拗ねたように。
「せめて声ぐらいかけろ、バカ」
山本は自分の鼻を押さえながら、背を向けて早足で歩き出す。久米はその背中を見つめ、自分がさっき、思いきり山本を抱き寄せてしまったことにようやく気づく。
本気で謝ろうと思ったのに、口をついて出たのは別の言葉だった。
「……すみません。体が頭より先に動いちゃって……」
なんかおかしい、そう思ってさらに付け加える。
「主任、もっと食べないと。軽く引っ張っただけで、ふわっと飛んできましたから……」
言ってから、さらに後悔。今のほうがさっきよりも数倍変だ。
「……」
山本は無言で前を歩く。久米は口元を押さえ、心の中で泣き叫んだ。
――また怒らせちゃったかも……
この口、本当にどうにかしてほしい。
冷たい朝風が、二人の熱を少しずつ冷ましていく。
電車の駅に着いたとき、山本は振り返り、差し込む陽射しに手をかざして言った。
「さっきのことも、ありがとうな」
久米は背筋を伸ばして答える。
「いえ、全然!」
久米の肩と喉元をさっと見やった山本は、少し間を置いてから続けた。
「今日はゆっくり休め。……また月曜な」
山本が改札へ消えていく後ろ姿を、久米は軽く頭を下げて見送った。
「はい!」
近くの店のシャッターが開く音が、がらがらと通りに響き渡る。
久米は背筋を伸ばし、背後から降り注ぐ朝の光を、冬の毛布のように暖かく感じながらその場に立っていた。
……次は、もっと上手くやりたいな。
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