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第58話 突き放さないで
久米が佐伯事件のコピー資料を手にしてオフィスへ戻ったのは、午後六時半を少し過ぎた頃だった。社員たちはすでに帰り支度を始め、オフィスはどこか浮ついた空気に包まれていた。
廊下を歩いていると、小金に呼び止められた。
「久米くん、これ」
差し出されたのは『月曜会議後の要点まとめ』と題された資料だった。
「山本主任から、君が戻ったら渡すようにって。」
「すみません、僕のデスクに置いておいてもらえますか?」
そう言いながら、久米はそのまま彼女の脇をすり抜け、主任室へと早足で向かった。彼の背中が扉の向こうに消えると、小金はようやく我に返った。
――今の久米くん、いつもと目が違った。
その眼差しには怒りが滲んでいた。怒りというより、苛立ちと戸惑いが交差したような、不安定な熱。
それが眉間に凝縮され、一瞬の視線だけでも息苦しさを感じさせた。
小金は黙って資料を久米のデスクに置くと、「やばい、これは長居無用だわ……」と小さく呟きながら、荷物をまとめて足早にその場を後にした。
主任室のドアを閉めたとき、山本は顔も上げずに、ひたすらペンを走らせていた。机の上は雑然としていたが、よく見ると、資料は山のように積まれながらも綺麗に分類され、乱雑の中にも秩序があった。
第一営業部への引継ぎ資料だろうか。
久米はそっと咳払いをした。山本のペン先が一瞬止まり、すぐにまた滑り出す。
「……戻ったか」
低い声が静かに返ってくるが、視線は書類の上を動いたままだ。
久米は目を伏せ、手にしていた佐伯事件の資料を、山本の机の上にそっと置いた。何も言わなかった。
山本の眉がわずかに動き、ペンを置いて椅子に身を預ける。その声には、微かに冷たさが滲んでいた。
「……俺を調べたのか?」
「……そんなつもりじゃ――」
久米は口を開いたものの、言葉が続かなかった。冷静に話せば伝わると思っていたはずだった。ちゃんと理由を述べれば、心配しているだけだと理解してくれると――だが、「調べたのか」という一言で、全ての理屈は断ち切られた。
「“そんなつもり”って?」
山本は半眼で机上の報告書に目を落とす。佐伯という名前が繰り返し現れるたびに、彼の指先が微かに動いた。
「……」
久米は言葉を失い、視線を逸らした。口の中の傷が、ひりひりと痛み出す。
「全部読んだなら、わざわざ俺に何の用だ?」
山本は書類を束ね、トントンと机に叩きつけた。
「問い詰めに来たのか?」
――問い詰め?
久米は目を見開いた。資料を整然と積み重ねる山本を見つめ、唇を動かし、ぽつりと答えた。
「……違います。僕は、ただ……知りたくて」
「じゃあ聞けよ」
山本はペンを避け、久米の言葉を遮った。
その声音がいつもの冷静さと違っていた。怒気ではなく、どこか押し殺したような圧があった。
「……なぜ伊藤さんの案件を、引き取ったんですか」
「お前はどう思ってる」
「……伊藤さんを守るために、引き受けたんじゃないんですか」
「そう思いたいのか?」
「思いたいわけじゃない」久米は山本を睨んだ。「……山本さんの口から、ちゃんと聞きたいだけです」
「悠人、お前、勘違いしてる」
山本の声が冷たくなった。
「その案件の調整は、上の判断だった」
「……でも、“俺にできる”って言ったのは、山本さんですよね」
久米はまっすぐ山本を見た。目に力がこもり、何かを突き刺すような視線だった。
「それは本心だ」
山本は机の資料に手を伸ばし、過去のページをゆっくりとめくる。
「……嘘です」
久米は一歩、前に出た。
「嘘じゃない」
山本の目は紙面に落ちたまま、淡々と文字を追っていた。だが、その声の奥には、過去を辿る苦味が滲んでいた。
「“できる”“できる”って、もううんざりだ」
怒りが喉元までこみ上げてきて、久米は思わず山本の手から資料を引き取ると、机に押しつけるように身を乗り出した。
「本当にそう思ってたなら、なんで佐伯さんに助けを求めたんですか!」
「……状況が変わったんだ」
山本の目が資料の皺を追い、そこに刻まれた佐伯の名前にじっと目を落とす。
「佐伯前輩は……俺のせいで巻き込まれた。責任は俺にある」
久米は悔しそうに唇を噛み、手を引っ込めた。
「……あのとき伊藤さんを守ろうとしたんですよね。それで、自分のチームに迷惑かけたくなくて、一人で――」
「真吾は関係ない」
山本の目が久米の怒りを正面から捉え、冷たく言い放つ。
「もしあの案件が成功してたら、俺は――」
その言葉の途中で、久米の手が山本の襟を掴んだ。
「……ふざけないでくださいよ。伊藤さんにも、同じこと……言ったんですか」
山本の瞳に一瞬、疲労が閃いたが、それをすぐに押し殺した。久米の手は小刻みに震えていた。
「他の人がそう思ってもいい。……でも僕は、山本さんがそんな人だなんて、絶対思いたくなかった」
山本は黙って襟を直し、立ち上がる。
「他に聞きたいことは?」
久米は答えなかった。山本は目を伏せ、床に散った資料を一瞥し、ドアへと歩き出す。その手がドアノブに触れた瞬間――
がしっ、と手首を掴まれた。
「……っ」
言葉を発する前に、体が引き寄せられ、壁に押し付けられる。
久米の顔が間近にあった。歪んだ表情、奥歯を噛みしめた唇、そのすぐ下で、声が震えていた。
「山本さんは、伊藤さんを庇って、自分のチームに迷惑をかけたくなくて……それで、佐伯さんに頼った。それは、分かる。でも――」
喉が焼けるように熱い。
「……今、山本さんには僕がいるでしょう?それとも、僕なんか最初から眼中にないんですか?」
山本は目を見開いたまま、何も言えなかった。
「言ってくれなきゃ、分からないですよ」
久米は頭を山本の肩に預けた。そのシャツからは、山本の香りがした。
「居酒屋で部署変更の話をされた時も、体調崩しても黙ってた時も今日の会議も……全部、僕には何も言わないで。今もまた……僕を外しようとしてる」
「悠人……」
肩に濡れた感触が伝わる。山本の声がわずかに揺れる。押しのけようとしても、久米の体は動かない。
「お願いです……もう、僕を――突き放さないでください」
それは、ずっと心に押し込めてきた本音だった。
その瞬間、部屋の中のすべてが静止した。
山本は何も言わなかった。
ただ、静かにその場に立ち尽くしているだけだった。
俯いたままの久米の肩が、かすかに震えている。
悔しさか、それとも哀しさか。感情の輪郭が曖昧なまま、胸の奥で張りつめていた糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
――いつだって、こうだ。
山本は目を伏せた。
自分が大切にしたいと願ったものほど、壊れてしまう。
小さい頃、大事にしていたビー玉も、父親が買ってきてくれたガラスの工芸品も――どれだけ丁寧に扱ったつもりでも、結局は割れてしまった。
ただ、傷つけたくなかっただけなのに。
だからいつも、いちばん高い棚の奥に仕舞っておいた。誰の手にも届かない、安全な場所に。
けれど、手を伸ばしたその瞬間、不意にバランスを崩して、床に落ちて、粉々になった。
最初から、間違っていたのかもしれない。
目立たない場所に隠されたそれは、本来の輝きを失ってしまう。
――目立つ場所にあるからこそ、人の目に触れて、美しいと思ってもらえる。
価値というのは、そういうものだ。
──けれど、今、この手の中には。
もう一度、守りたいと思えるものがある。
目尻が熱くて、目を開けていられなかった。
山本は、震える指先を久米の肩にそっと置く。ぽん、ぽんと背中を撫でながら、搾り出すように囁いた。
「……もう、突き放したりしない」
「……ほんとに?」
久米が顔を上げた。
睫毛に溜まった涙が、まだ頬を伝いきれず、零れ落ちそうに揺れている。
「ほんとに」
山本は頷いた。額にかかる前髪が少し滑り落ち、澄んだ瞳に光が差す。
その瞳の奥に、久米は――泣きそうな自分自身を見た。
その瞬間だった。
久米が、身体を寄せてきた。
唇がふれた。
冷たくて、少し塩辛くて、泣いたあとの味がした。呼吸を塞ぐほどに、深く、真っ直ぐで――けれど、どこまでも優しかった。
歯の隙間から差し込む舌は、意外なほどに強くて、確かだった。
まるで、ようやく迷いを捨てて、恐れずに手を伸ばせたことを証明するように。
山本は最初、驚いて動けなかった。
だが次第に、久米の後頭部に手を添えた。
そして、自らもその唇に応える。
互いの呼吸が、ひとつに重なっていく。
P.S.(場面転換)
その頃、主任室の外――。
「……おい、邪魔なんだけど」
伊藤がドアの前にぴたりと立ちはだかり、浅間の進路を何度も塞いでいた。
「もういい加減にしてくれない?」
浅間は息を荒くしながら言う。「この資料、今日中に山本主任に確認してもらわないと――」
「さっき言ったでしょ?主任ならもう帰ったよ」
伊藤は肩をすくめる。
「だったら、なんでまだ電気ついてんの?」
「……消し忘れたんじゃない?」
ちらりと室内を見やって、適当に答える。
「電気の節約と整理整頓、安全第一――ウチの会社の5Sルール、忘れたの?」
「え~もう、そういうのはさぁ……」
伊藤は浅間のスーツの裾をつまみ、猫なで声で言った。
「あとで俺がちゃんと消しとくから、ね?」
「や、やめてっ!」
浅間は急いで自分の裾を引き抜き、数歩後ずさる。
「明日!明日の朝一で山本主任を俺のところに寄越して!ぜったいだぞっ!」
逃げるように非常口を開け、姿を消していく浅間の背中を見送りながら、伊藤は小さく肩をすくめて言った。
「は~い、了解でーす」
その後、静かになった廊下で主任室のドアに視線を向けると、伊藤は小さくため息をついた。
「……気づけば俺、完全に番犬じゃん。なんなんだよ、これ」
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