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第57話 嘘じゃなかった。だから、痛かった」

 チームは総括会議後の資料整理があり、午後は特にやることがなかった。  久米の足音が非常階段に響き渡る。一歩ためらい、一歩力強く、5階の資料室へ向かって歩いた。  資料室の扉はしっかり閉ざされており、上部の小窓から中を見ると、暗闇が広がっていた。  久米は唾を飲み込み、扉の取っ手に手をかけたものの、やはりためらいがあった。    ――自分はただ過去に何があったのか知りたいだけで、山本を疑っているわけではない。    久米は小さく頷き、力を込めて扉を開けた。  半身を資料室に入れると、紙屑と消毒液の匂いが混ざった空気が鼻をついた。  非常灯が壁の隅にぼんやりとした光を投げかけ、古いファイルがぎっしり詰まった鉄製の棚に縦の影を落としている。 「佐伯の異動通知書、事故調査報告書、プロジェクト引き継ぎ申請書……そして山本さんが書いた反省文。」  久米は石橋からのヒントを思い出しながら手探りで探った。  ついに20XX年度第一営業部臨時プロジェクトの欄で、いくつかのファイルボックスを見つけた。  最初のページは『プロジェクト臨時緊急変更申請』というタイトルの書類で、文字はきれいに整っている。  久米の指先がその文字をそっとなぞった。これは山本の字だとわかっていた。 「第一営業部納品案件:進行責任者臨時変更届」  主責任者:山本 晴(第一営業部責任者)  理由:スケジュール進行遅延および調整不能のため(備考:第二営業部責任者 伊藤真吾)  ……これが、山本と伊藤が別れた理由なのか。  久米は「伊藤」という文字をじっと見つめ、静かに考え込んだ。  ――今と違って、あの頃はふたりとも営業部の責任者だったらしい。  山本主任が降格されたのは、この案件失敗の責任を取ったからだろう。  伊藤主任は形式上そのままだが、たぶん、あの時から昇進は止まっている。  ――今の肩書きだけを見れば、伊藤主任の方が上。でも、実務上の指揮を執っているのは、山本主任だ。 会社は山本の判断力を今でも重宝していることは、伊吹の件で、牛島部長は彼を真っ先に動かした。それが何よりの証拠だ。  次のページをめくると、赤い押印がされた『事故報告要約』があった。  隣の椅子を引き寄せて座り、ざっと読み始めた。 「……納品スケジュールの初期段階で遅延が発生し、主要取引先より契約解除の通告を受ける事態となった……」 「……対応は当事者からの要請に基づき、緊急納品調整は支援課の佐伯茶渡が主導して実施された……」  久米はその報告書を閉じ、目頭を押さえた。  茶水間の二人は嘘をついていなかったらしい。  今日の会議での山本の表情を思い返し、久米は唇を噛んだ。  山本はわざわざ頭を下げて佐伯に助けを求めたのに、なぜチームメンバーには信頼も任せることもしなかったのだろうか?  あるいは、そもそも誰も信じていなかったのかもしれない……。  口の中に鉄錆のような生臭い味が広がり、久米は唇を離した。  噛みすぎて傷つけてしまったのだ。舌先で血の滲む裂け目をなぞると、大きな森の中で身を縮める傷ついた獣のようだった。  久米はこの資料を脇に置き、次に目を引いたのは「反省文」という文字――山本のものだった。  彼は少しためらい、表紙の裏紙をめくった。  びっしりと手書きの文字が密に並び、行間も明瞭で透き通っている。  久米は一文字一文字の筆の先に強い力を感じ取った。 「本件は7月上旬より稼働予定だったが、夏季繁忙期における調整不足により、7月10日時点でクライアントへの主要納品物の遅延が発生。対応が間に合わず、クライアントより契約解除の通告を受けた。  責任は、私の進行管理における判断の甘さと、物流・調達各部門との連携不備にある。状況打開のため、7月13日に支援課の佐伯に応援を依頼し、共に対応にあたったが、信頼回復には至らなかった。  この件により複数取引先にも影響が及び、深く反省している。佐伯と共に処分を受け、社内で降格・異動を申し出た。  今後は、主観的判断に頼らず、リスク管理と部門間協議の徹底に努める。 ……本件により、伊藤責任者を巻き込まずに済んだことのみが、唯一の救いである。」  久米は山本が署名したページの端をじっと見つめ、まつげがかすかに震えた。  指先で名前の部分を何度も撫でるが、何かを消そうとしているようにも見えた。  しかし、すべてはこの紙に記されており、否定のしようもなかった。  事の顛末は、すべて書類の中に明瞭に示されていた。  久米は、山本が単に伊藤の案件を奪おうとしたのではなく、逼迫した状況の中で、むしろ伊藤をその渦中から遠ざけようとして動いたのだと、ようやく理解した。  結果的に山本は案件を引き受けたが、それは誰にも被害が及ばぬようにとの思いからであり、自身の手には余ると知りながらも佐伯に助力を求め、最終的にはすべての責任を一人で背負おうとしたのだ。  だが、クライアントの信頼は戻らず、結果として佐伯の異動と山本自身の配置転換という結末を招いた――。    ――これが山本晴。  上層部が言うところの、「一人で責任を背負う男」だった。  久米はその名前に指を添え、静かに立ち上がった。向かう先は、ただ一つ。  ――あの男に、直接対決しに行くのだ。  

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