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第56話 主任のこと、まだ知らなかった

 黒々としたコーヒーの粉がカップの底に沈んでいる。スイッチを押すと、熱湯が音を立てて注がれた。湯気が立ち上る渦を見つめながら、久米は眉間に皺を寄せた。  ――会議の場面が、次々と頭の中に浮かぶ。  山本の沈んだ表情。伊藤の翳り。黒瀬たちの沈黙。どの記憶も、胸の奥を重くさせる。 「……今日の会議、聞いた?また佐伯先輩の話が出てきたって」 「いない人を責めるなんてね……ひどい話だよ」  給湯室に一人、また一人と入ってきた。先に入った職員の一人が久米の姿に気づいて、隣の同僚を小突いた。 「山本さんって、どうしてあんなに学ばないんだか……あっ、ごめんなさい」  話していた職員と目が合い、相手は慌てて口を押さえた。  久米は黙ってコーヒーを手に取り、名札を確認した。〈支援課・前倉〉、その隣は〈石橋〉とある。彼は一歩前に出て、深く頭を下げた。 「……その件、詳しく教えていただけませんか。お願いします」  前倉と石橋は顔を見合わせたのち、前倉が小さくため息をついた。 「山本主任、当時は勝手に案件を立ち上げて、佐伯先輩が火消しのためにかなり動かされてた。結局、神戸に飛ばされたって聞いてます」 「僕が聞いたのは、山本さんがどうしようもなくなって、佐伯先輩に直接お願いしに行ったって話だったけどな……」  石橋は天井の蛍光灯を見上げながら、ゆっくりと語る。  ――山本さんが、誰かに頭を下げた?  久米は熱いコーヒーを一口含んだ。苦味が口中に広がり、言葉を失う。 「そういえば……」と前倉が眼鏡を押し上げる。その視線には、わずかに意地悪な光が宿っていた。 「元々あの案件って、伊藤さんの担当だったんですよ」 「……!」  久米の驚きが顔に出たのを、前倉は見逃さなかった。 「ちょっと、言いすぎじゃ……」石橋が肘で前倉を小突く。 「……続きをお願いします」  久米はカップを静かに置き、声の調子をできる限り抑えた。 前倉は石橋の制止を無視し、話を続けた。 「当時、伊藤さんは人間関係の調整に追われていて……山本主任、途中から案件を主導するようになって……」 「もともとは伊藤さんの管轄だったって話だけど、進行がうまくいかなくて、いつの間にか山本主任が前面に出てたらしい」 石橋は眉をひそめながら天井を見上げた。 「まあ……どっちが悪いってのは分からないけど、結果的に責任を取ったのは山本主任だったわけで」  ――主導が途中で入れ替わった……? 久米は力が抜けたように体を棚に預け、視線を彷徨わせる。 山本さんが……勝手に伊藤さんの案件を? 功績のため? それとも……? 「伊藤さん、かなり怒ってたって噂ですよ。第一営業部まで詰めに行ったって……」 「揉めた結果、関係がギクシャクしちゃったっていうけど……詳しくは知らないなあ」  前倉が意地の悪い笑みを浮かべる。 「皮肉なのはさ、あれで山本主任が処分されて第二営業部に行って……今じゃ伊藤さんと毎日顔合わせてるってとこでしょ」  急に静まり返る給湯室。  前倉は久米の後ろから、棚の中のインスタントコーヒーのパックを取り出しながら言った。 「第二営業部、やっと安定してきたと思ったのに……」  彼は久米に顔を寄せ、小声で呟く。 「……山本主任って、本当に――火傷しそうな案件ばっかり抱え込むタイプですよね」  避けようとしても、もう後ろには道がなかった。 「おい、佐伯先輩の鬱憤を彼にぶつけるなよ……」  石橋が前倉を引き留めた。  久米の瞳が微かに揺れているのを確認しながら、前倉は満足げにコーヒーを注ぎ、久米の肩を軽く叩いた。 「……ああ、ごめん。話しすぎると止まらなくてさ。じゃあね」  そう言って給湯室を後にした。  残された石橋は気まずそうに立ち尽くし、ようやく口を開いた。 「その……あの資料室に、調査記録が残ってると思います」  久米は指先をぴくりと動かし、すぐに立ち直ると首を横に振った。 「……大丈夫、誰にも言いません」  石橋は安堵の息をつき、最後に一言だけ添えた。 「……気をつけてね」  久米は軽く会釈をして、石橋の去っていく背中を見送った。そして、自分の額に手を当て、冷めたコーヒーを飲み干した。  内臓の奥から、酸のようなものがこみ上げてくる。

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