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第55話 壊れるために、守ったんじゃない

 会議室の天井では空調の風が微かに唸りを上げていた。  人事部長が、鼻息を荒くしている財務部長を一瞥し、小さくため息をつく。 「……山本主任」  場の空気を和らげるように、静かに名を呼ぶ。 「はい」  山本がすっと立ち上がった。 「今日のこの空気……懐かしいですね。覚えてますか、三年前、第一営業部の時も同じようなことを言ってましたよね」  財務部長が鼻を鳴らしながら続ける。 「そうそう、“大丈夫です、私が責任を持ちます”って、山本主任が熱く語ってくれて。でも結果は……ね。他人を巻き込んだだけでしたよ」  山本の肩が一瞬、ほんの僅かにこわばる。  久米はゆっくり顔を上げた。山本主任の過去。どうして、こんな場所で、初めてそれを知ることになるのだろう――そのことに、言いようのない動揺を覚えた。  人事部長は頷きながらも、言葉に重みを込める。 「三日で案件が破綻し、クライアントは契約を解除。違約金で三ヶ月分の赤字でしたね」  財務部長が、手元の資料をめくりながら言葉を添える。 「後始末は支援課の堀井が一人で飛び回ってましたっけ。うちの経理でも、あの時の数字は今でも記憶に残ってますよ」  山本の瞳が一瞬だけ揺れたが、言い訳の言葉はなかった。 「そのとき、あなたは始末書を書きました。堀井も書いた。そして……それで終わりにした」  人事部長の声が、少しだけトーンを落とした。  そのとき、黒瀬が軽く笑い声を立てる。 「おふたりとも懐かし話に花が咲いてますね。次はぜひ僕も呼んでください。山本主任のこと、たぶん誰よりも詳しいですから」  山本はペンを置き、静かに黒瀬の資料の上で止めた。目線を外さず、人事部長をまっすぐに見据える。 「……あの案件は、私が責任者でした。すべての責任は、私にあります」  人事部長はふと首を傾けるようにして、再び問いかける。 「では、今回も同じですか?あなたひとりで、すべてを背負うつもりですか?」  張り詰めた空気が、音を立てずに凍りついた。  久米は気づかぬうちに拳を握っていた。隣にいた村田が、その肩に手を置く。その掌から伝わるのは、久米の怒りの熱だった。  財務部長が顎に手を当てながら、じっと久米を見つめる。 「山本主任。そこまでして、守る価値がありますか?」  その一言が、胸の奥を鋭く刺した。  ――そうか。主任は、僕のためにここまで……。  久米の視界が霞み、目頭が熱を帯びた。  そのとき、牛島部長が二人の発言を制すように口を開く。 「……総合的に見れば、確かに今回の案件には不備があった。しかし、それを経てチームとして機能する形に収束したのも事実だ」  彼は資料をめくりながら、淡々と語る。 「山本の判断はリスクを伴ったが、致命的ではなかった。とはいえ、財務を飛ばして直接クライアントに口頭提案を行った行為は、明確なプロセス違反だ」 「はい」  山本が短く答える。その手が通達資料に触れたとき、微かに指先が震えていた。  伊藤はそれに気づきながらも、何も言わなかった。 「よって、当面あなたが関わっている他案件はすべて第一営業部に移管。現在の案件に集中してください」  静寂が、会議室を包んだ。  久米は俯いたまま動かない。その表情は前髪の陰に隠れ、誰にも見えなかった。  山本は微動だにせず、ただ淡々と立ち尽くしていた。 「以上。この件はこれで区切りとする。では、次の議題――特許と法務の取り扱いについて、村田さん、説明を」  書類が再びめくられた音が響くが、重く残る空気は晴れることがなかった。  会議がいつ終わったのか――久米には記憶がなかった。  誰かが椅子を引く音、資料を閉じる音が、現実感のない空間で響いていた。  身体が鉛のように重く、ただ座り続けることしかできなかった。  伊藤が一度、久米の方を見下ろし、そして隣に立つ山本を見てから、小さく息をつく。  やがて伊藤は、席を立ち、久米の側に歩み寄る。  彼の手が、そっと久米の肩に触れようとした――その瞬間だった。 「……っ!」  久米は立ち上がり、勢いよく伊藤の手を振り払った。  椅子が床に倒れ、甲高い音が室内に響く。  そのまま、彼は伊藤の胸倉を掴み、灰色のパーティションに押し付けた。  会議室が静まり返る。 「……人を、そうやって使い捨てるんですか」  歯を噛みしめながら、久米が低く問いかける。  伊藤は無言のまま、表情を曇らせた。 「最初から……僕のこと、ただの駒だと思ってたんでしょう?」  怒りに浮かぶ血管が目尻を浮かび上がらせるほど、彼の声は震えていた。 「久米――」  山本が立ち上がる。  声は静かだったが、その一音には、鋭く響く緊張が宿っていた。  だが、久米はそれを振り払うように、手に力を込める。 「やめろ!」  山本の声が突然、鋭く響いた。  その一喝に、久米はまるで冷水を浴びたように、動きを止めた。 「そんなことをしても、意味はない。……おまえは、まだ何もわかっていない」 「……何、だよ」  呆然としたように、久米が呟いた。  その瞬間、村田が歩み寄り、二人の間に割って入る。 「もう……主任を、これ以上困らせないでくれ」  彼の瞳には、申し訳なさと苦しみが滲んでいた。  黒瀬は目を伏せたまま動かず、大平は山本の袖をそっと引いて座るよう促した。  久米は、まるで一人だけ舞台に取り残されたような感覚に陥った。  ――ああ、みんな……知ってたんだ。  自分だけが、除外されていた。  その現実に、喉の奥から小さく舌打ちが漏れる。  久米は無言のまま、乱れた資料をかき集め、黙々と整える。  紙が擦れる音だけが、誰の言葉よりも鋭く響いた。  整え終わった資料を抱え、久米は山本の方を一瞥する。  そのまま、一言も発さず、会議室を後にした。 「バタン」  重たいドアが閉まる音が、しばし誰の胸にも響き続けた。  山本はドアの方を見つめたまま、小さく呟いた。 「……各自、会議内容のまとめを」  誰も声を発することはなかった。  山本は動かず、ただ資料の束を見つめていた。  伊藤は立ち上がりかけたが、結局その場に座り直す。 扉を出た瞬間、冷たい空気が肌を刺した。  どこへ向かうべきかもわからないまま、足は自然と非常階段を駆け下りていた。    資料を手にしたままの彼の視線は、スーツ姿の社員の群れを横切り、ある一台の黒いビジネスカーにたどり着く。  勢いよく車窓の前に立つと、深く息を吸い込む。  ――窓が、静かに下がった。  運転席には牛島が座っていた。  その眼差しは、どこまでも冷たく、どこまでも無関心だった。 「……まだ、何かあるのか?」  低く響く声に、久米は唇を引き結び、静かに、だが確かに言った。 「……今回の欠陥率対策、提案したのは伊藤さんじゃない。僕です」  牛島の目が僅かに細められる。  久米は、拳を震わせながら言葉を続けた。 「彼の名前で出したのは、ただの処理上の都合。実際に考えて、資料にしたのは……僕です!」  これほどの距離で、牛島と言葉を交わすのは初めてだった。  だが、返ってきた言葉は――非情なものだった。 「……誰の提案かなんて、ここにいた全員がわかってる」 「じゃあ、どうして……」 「それでも、そうするしかなかった。なぜなら――」  牛島は目を伏せ、静かに言い放つ。 「久米くん。君は……自分を過大評価しすぎている」    久米はその言葉に返す言葉を持たなかった。  頭では否定したいのに、胸の奥では、どこかでそれを認めてしまっていた。 「……あの二人の後ろ盾なしに、君ひとりで、すべて背負えると思ったのか?」  窓が再び静かに閉まり、エンジン音が響く。  黒い車体が、何の迷いもなく駐車場から走り去っていく。  その後ろ姿を見つめながら、久米はじっと立ち尽くしていた。  背負えるはずがなかった。  けれど、それでも――  彼の握りしめた拳は、怒りとも、悔しさともつかぬ熱を宿していた。  どこにも行き場のない想いだけが、胸の奥で燻っていた。  

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