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第54話 彼の背中が遠くなった日

 牛島部長は意味深な視線を二人に向けたが、すぐに事務的な口調に戻る。 「……その620個の処理方針について、説明を。」 「すでに社内調整を経ております。」  山本は冷静に答える。 「320個は不良対応分として補填、残りの200個と該当する欠陥品については、久米が販売チャネルの統括を行い、倉庫管理は物流課が支援。第二営業部が補助的に交渉および契約窓口を担います。」  その言葉に、牛島は頷いたが、隣の財務部長が手を挙げた。 「山本主任。プロジェクト第六フェーズで提出された『欠陥品処理の代替納品案』ですが、財務部としては一切の承認・把握がありません。  私どもがこの620件の補填内容を把握したのは、クライアントからの確認書類を通じての後追いです。これは、あなたが財務側の承認を得ず、独断で納品方針を決定されたということですか?」 「本件に関しては、複数のプロセスにおいて不備がありました。品質問題の初動確認が遅れ、補填対応についても財務フローを経由しなかった。これらはすべて、私の判断による実行であり、責任も私一人にあります。」  山本の声は一貫して低く、穏やかだった。 まるで台詞のように整えられた言葉。久米にはそうは聞こえなかった。  会議が始まってまだ三十分も経たないうちに、山本はすでに二度も「責任は自分にある」と述べていた。  久米の肩がじりじりとこわばり、膝の上に置いた両手は震え始めていた。 「つまり、会社の承認を得ずに、あなたの個人判断で直接納品を約束した、と。しかも、相手先は通常チャネルの顧客ではない。」  山本は真正面から財務部長の視線を受け止め、躊躇なく答える。 「はい。」 「その在庫移動についても、財務側の確認プロセスは未経由ですよね?我々が明細を受け取ったのは、今日が初めてです。」 「……確認の甘さは、私の落ち度です。」 「万が一損失や流通事故が発生した場合、会社はどのように責任を追及すべきでしょうか?あなたはそれを考慮した上で判断されたんですか?」 「その判断は私個人の責任で行いました。今後発生する全ての瑕疵については、私が報告書を提出し、責任を負う所存です。」 「では、最後の200件と残品の扱いを、若手社員に委託したという点も、あなたの指示ですか?」  その言葉に、久米は思わず立ち上がった。 「その分の対応、僕がどれだけ足を使って――」 「久米君。」  山本は彼を見なかった。ただ、冷たく制止する声を落とした。 「座ってください。ここは会議の場であって、私情を挟む場ではありません。」  その声は荒くなかったが、打ちつけられた釘のように、机上を鋭く叩いた。  久米は一瞬、身をこわばらせたあと、唇を噛み、椅子へと沈み込んだ。  その横顔には一筋の汗が流れ、頬を伝って耳元へ消えていった。  財務部長はちらりと久米を一瞥し、なおも山本へと問いを続ける。 「こういった非専門的な営業行動において、リスク評価はどのように?販売ルートの資格は?  もしもこの取引が顧客の離反や返品につながった場合、あなたは責任を取れると断言されますか?」 「……部長。もし個人責任を問われるのであれば、私が引き受けます。」  一拍置いて、山本の口調がわずかに鋭さを帯びる。 「ただ、ひとつお伺いしたいのですが——本案件の立案から実行に至るまでの間、財務部として、顧客格付けや回収リスクの評価はなされていましたか?」 「もし責任を分担すべきだとお考えなら、プロセスの洗い出しからご一緒に行うべきではありませんか。」  山本は両手を卓上に置き、指を組む。  財務部長の表情が固まった。額の上で、太く硬い眉がぴくりと動く。  その隣で伊藤が、机の下からそっと山本の膝に触れた。  そして前のめりに身を寄せ、ごく冷静に言った。 「……後半のクライアント対応において、私も一定の交渉を進めさせていただきました。」  咳払い一つ、空気を切るようにして続ける。 「今後、補償案が正式に成立するようであれば、それは山本主任をはじめ、プロジェクトチームのご尽力による成果と考えます。」  牛島は書類をペン先で軽く叩き、口を開いた。 「不良補填が完了するのであれば、それ自体は会社にとっても前向きな成果だ。ただし、今回の実行過程における手続きの混乱は否定できない。  伊藤君、君の初期調整が結果として大きな助力となったのは事実だ。今後の案件では、より主導的な立場で動いてもらうことも検討しよう。」  久米の耳には、その言葉が冷たい水のように染みていった。  指先は無意識のうちに報告書をめくり始めていた。  ——違う……こんなはずじゃ、なかった。  ページを一枚、また一枚とめくる。  そして、止まった。  その表。かつて三人の名前が並んでいたはずの表が、すでに書き換えられていた。  久米の目線は報告書から山本へ、そして伊藤へ、さらにはプロジェクトチームの他メンバーへと移っていく。  呼吸が乱れ、座っているのさえやっとだった。  肘に触れるように、そっと袖が引かれた。  顔を向けると、村田が心配そうに見つめていた。  久米は唇を噛みしめ、顔を逸らした。  もう、誰にも見せたくなかった——  涙が滲み始めた目元を。

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