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兄上と不法入国者

 ふわりと香った甘い匂いにつられて、リツはオッドアイになってしまった両目を開いた。  潰された左目の代わりにはめ込まれた義眼は飾り以外の何物でもなく、視野は少し狭いけれど日常生活に支障はない。少し死角が増えただけだ。  一度窓の外へ目を向けて、隣の空間に手の平を這わせるが今朝方まであった筈の温もりはなくひんやりしている。 「……カナト?」  不安になるのは決まってこんな時。  助け出された事が夢だったのではないかと思うのだ。本当はまだあの鳥籠の中にいて王家に飼われているのではないかと。  助かった事実を確かめたくて布団を抜け出し、まだ肌寒い部屋を横切る。足を向けたのは甘い香りの漂ってくる台所。  カナトじゃないにしろ誰かが何かをしているのは明白で、しかしそろりと覗いたそこには捜し人がいてリツは心底安堵する。 「カナト」 「おう、おはよーリツ。早いな」  もっと寝てても良かったのに、と言うカナトの背に腕を回しホッと息を吐き 「カナト」  囁きに近い声で呼ぶ。 「うん」  よしよし、と頭を撫でてくるカナトがもう片手で甘い香りの発生源である鍋の火を止めた。 「ごめんな、不安だったか?」  ぎゅ、っと回された腕は力強くて暖かい。夢幻じゃないその感覚に泣きそうになる。 「……カナト、……カナト…」  それしか言葉を知らない幼子の様に名前を呼んでしがみつくリツが安心して満足するまで、彼はいつもその頭を撫で続けるのだ。  やがておずおずと腕を解いたリツの頬に口付けを一つ。それから上着を脱いで華奢な肩にかけてやる。 「まだ冷えるからな。風邪引くなよ」 「ん……」  こくりと頷いて、リツは上着を握り締めた。 (カナトの匂いがする……)  まだ抱き締められている気がして体だけじゃなく、心もふわりと暖かい。  再び火をつけて鍋の中身をかき混ぜ始めたカナトの横にピタリと寄り添う。 「何を作っているの?」 「ん?あぁ、アサギ甘いの好きらしいな。ソラ達がプリン作れって煩くて」 「アサギが……」  リツは悲しげに目を伏せた。  そんなこと知らなかった。二人でいた頃は食べることすらままならなかったし、捕らえられてからは共に食事を摂らせてさえももらえなくて。  そして知る機会も与えられないまま、大切な弟の心を自らの手で封じた。だからあの子は今でも助かった事実を知らない。  ギュゥ、と上着を握りしめ俯いた頭に、暖かい手の平が乗った。 「思い詰めんな。お前の弟だろ。絶対元に戻る」 「……そう、だね……」  たった二人、だった暗闇に射し込んだ光。  リツにはカナト、アサギにはソラ。  それに彼らの仲間達もヒトハである自分達を卑下しない稀有な人々。  どんなに時間がかかっても、きっとアサギは戻ってくる筈だ。 「……あのぉ……、そろそろ入ってもいいですか…?」  カナトに寄り添ったままハッと見た先で、若干頬を赤らめたソラが心底申し訳なさそうに覗いていた。  センティスから助け出されてそれなりに日数が過ぎて。  けれどかつて今すぐにでも体を繋げたい、と切望した者同士であるにも関わらず二人はまだ至っていない。  カナトはいつも口付けをするだけだ。  それは、リツが未だ抱かれることを望んでいないからである。  穢れきった体だから、と言う思いも勿論あるのだろう。そんなことは気にしなくてもいい、と告げれば済む話。しかし何よりもリツの心を縛るのはアサギだ。  ソラが側にいるのもわからない、大切な弟。それ以外守るすべがなかったとは言えそうしてしまったのはリツ。  それでも助け出されてすぐの時、一度カナトに全てを預けようとはしたのだ。  無理矢理でも義理でもなく、本当にカナトと繋がりたくて預けた、筈だったのに。  肌蹴た服の隙間から白い肌にちゅ、と吸い付いていたカナトは不意に服の乱れを整えた。 「カナト……?」 「……無理すんな、リツ。お前の準備が出来てからでいいよ」  またちゅ、と音をさせ頬に口付けたカナトは優しく微笑んでいる。  リツの瞳からは無意識の雫がポロリと落ちた。 「ごめ、なさ……っ、カナト……っ、私は……」  本当にカナトが欲しいのに。早く全てで感じたいのに。  なのに、どうしてもソラの悲し気な顔が、何もわからないアサギが、脳裏をちらつく。 「いいよ。大丈夫。待つから」  カナトはいつだってリツの本音を読み取る。隠していても、絶対に。 「カナト……っ」 「あぁ、わかってる。俺も好きだよ」  暖かい指が頬を流れる涙を拭った。  それからまた暫く。  リツは部屋の中、カナトを見つめた。先程から逸らし続ける目線は後ろめたいからなのか。  隣室では意識を失ったソラに目を覚ましたアサギが寄り添っている筈。  何をしても戻らなかったアサギの心はソラの危機に反応した。 (本当にソラが大切なんだね)  今まで守ってきた弟が離れるのは少し寂しい。子の成長を見守る親の気分でそう思い、でもそれと同じ、否それ以上にアサギの幸せも祈った。  ソラならば決してアサギを不幸にはしない。任せるに値する人物だ。  そんな事を思い浮かべながら、カナトの手を取る。 「カナト、何故黙っていたの?」  カナトは漸くそのアッシュの瞳をリツへと向けた。普段強く輝くアッシュが少し翳って揺れている。  不安、という感情がピタリとはまるであろう弱い輝きを放つアッシュが瞬いた。 「……怒ってるか?」  絞り出された言葉に口許が綻ぶ。  まるで悪戯が見つかった子供みたい、と言ったら彼は怒るだろうか。 「怒ってはいないよ。でも、道理で私の欲しい言葉をくれると思った」  ヒトハだって人間だ。  リツの心を奪った言葉はヒトハである彼から出た言葉。  ヒトハを家畜としか見ないセンティスでそう言えるなんて、と本当に驚いた物だ。 「貴方が、言って欲しかった言葉なのだね」 「……というか、ずっと言いたかった言葉だな。俺達だって人間だ」 「何故黙っていたの?最初から言ってくれたら良かったのに」  そしたらもっと早くに打ち解けられたのではないか。  カナトは苦しげに顔を歪める。 「……そしたらお前はきっと俺を信じなかった」 「……そんなこと……」 「絶対信じなかったよ。それがヒトハだからだ」  好戦的ではない、受け入れるばかりのヒトハ。  カナトは城に潜入する前牧場に潜入していた。ヒトハを煽り、革命を起こす為だった。 しかし彼らは誰一人カナトの案に乗ってはくれない。  ヒトハだから、奴隷になっても仕方がない。  ヒトハだから、諦めて死を待つしかない。  ヒトハだから、ヒトハだから。  それがなんだと言うのだ、と。怒鳴りちらした所で既に生きることを諦めた彼らの心は動かせなかった。  だから一人城に潜入する事にしたのだ。  血の繋がった父を殺し、復讐を遂げその座を奪う為に。  リツに出会って復讐という目的はなくなったけれど。 「俺が最初からヒトハだって言ったら、確かにお前は同族の愛情を持ったと思うよ」  だが、決してカナトが救出に来るとは信じなかった。  ヒトハだから、だ。  ヒトハにそんな力がある筈ない。そう思って諦めていた筈。  リツはそれを認めて頷いた。 「そうだね。きっと私は貴方を待たなかった。貴方がただのヒトだと思っていたから、信じたんだ」 「……幻滅した?」  珍しく気弱な態度のカナトにくすりと笑う。 「どうして?驚きはしたけれど、幻滅なんてするわけないよ。カナトは約束を守ってくれたでしょう?」  あの日、来いと手を伸ばす姿にどれ程心を震わせたかなど彼は一生わからないだろう。リツも、口ではとても言い表せられないのだから。 「ヒトハでも叶えられる物があるのだね」 「種族は関係ねぇよ。叶えようと思えば叶うんだ」  遠回りはしたけど、と微笑むカナトの頬に口付ける。 「うん」  助けてくれてありがとう、と紡ぐ唇を塞ぐ。離れて、至近距離。互いの思いを確認しあう。 繋がりたい、と語るオッドアイに口付けを落として…… 「カナ、緊急……悪い、わざとじゃない」  不法入国者を匿い、願いを叶える手助けをしてくれた年上の男に邪魔をされた。  空に浮かぶセンティス。そして突如現れた光の柱。  実は光の柱はセンティス側にも現れていたけれどアティベンティスにいる彼らには知るよしもない。  その光の柱が道標となる神の宝物庫は、世界が終焉の危機を迎えた時それに反応して現れる物だったらしい。探しても見つかる筈はなかったのだ。 (そもそも私は純血ではないし)  アサギに視えていた柱はリツには欠片も視えなかった。 「カナト」  神の宝物庫を後にし宿屋の一室に戻ってからと言うもの、カナトはぼんやりと外を見続けている。  濁流に消えた父親の事を考えているのだろうか。  リツにとって恐怖の対象でしかない皇帝はカナトの実父。  かつてその命を奪おうと考えていた皇帝の息子は今、何を思っているのだろう。 「……呆気ないもんだったなぁ」  不意に口を開くカナトの横顔を見上げる。  そこには何の表情も浮かんでいない。 「もっと何か込み上げると思ったのに、何も浮かばねぇわ」 「嘘だよ、カナト」  カナトの表情に変化はないけれどリツの耳にはカナトの声が届く。  悔しい。自分達母子を切り捨てた父に何の言葉もかけてもらえなかったから。  苦しい。そんな父にもう腹もたたない自分が。  悲しい。それでも父だとまだどこかで思っているから。  心が痛い。カツキの最期はかつて自分が望んだものだから。  けれど皇帝が死に、どこかで喜んだのも事実で。 「カナトは嘘つきだね」  こんなにも色んな感情を持っているのに。 「……その苦しみを変わってはあげられないけれど、ハンカチくらいにはなれるよ」 「……何か懐かしいな、それ」  くすりとカナトが笑い、リツの肩に額をつける。カナトは泣かなかったけれど、暫くそのまま動かなかった。

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