1 / 33
Chapter 1 : Scene 1
28日間、一言もしゃべってない。これって恋人と呼べるのか?
秋吉 悠也 は自問する。
大学も学部も学科も一緒。なのに、なぜこんなに遠いのか。
姿を見かけることはある。だからつい目で追ってしまう。ぴしっと背筋を伸ばして歩く姿も、誰かと話している真面目な無表情も、何もかも愛おしくて仕方がない。
そして気付く。これ片思いの時と一緒じゃん、と。
いや、むしろ、諦めていたあの頃よりも遠く感じる。
あまりにも寂しいから、頻繁にスマホを見る相手じゃないと知りつつLINEを送ってみた。見事に既読スルー。ため息しか出ない。
Slackなら即レスする、とかつて恋人はドヤ顔で言っていた。しかし、「会いたいです」なんてメッセージを、年度末のこの時期、研究室を主宰する准教授として各種事務処理に忙殺されているだろう恋人に送る勇気はない。
仕方なく悠也は今、大学構内の片隅、冬枯れの桜の木の下でタブレットに指を滑らせている。
晴れ渡った二月末、周囲に人影はほとんど見えない。
「去年の『非平衡現象概論』の資料、送ったぞ」
悠也の隣で淡々とノートパソコンを操作しているのは、野々村 智樹 。悠也と同じ敬信大学理工学部物理学科三年生。必修を落とした留年組で、実年齢は悠也より上になるが、年齢差を気にせず自然体で話せる間柄だ。背が高く、線の細い体躯に理知的な目元はいかにも理系然としているが、どこか人懐っこい空気をまとっていた。
「OK、データ来た」
「たぶんそれで最後、のはず。今までの藤堂先生の資料ぜんぶ、だよな?」
「そうそう。――悪いな。一年の時からずっと先生の講義取ってんの、知ってる中じゃ野々村しかいなくてさ」
頷きながら悠也は、早速資料を開いて目を通し始めた。無味乾燥な文字列や写真が並ぶただのPDFでも、悠也の恋人――藤堂圭 が作ったと思うとそれだけで嬉しくなる。
タブレット上で開いたテキストを眺めながら、これを作っている圭を想像する。集中してディスプレイを見つめる整った横顔。考え込みながらシルバーフレームの眼鏡を直す、白く長い指先。
「……いや別にいいけどさ」
にやにやが止まらない悠也を不気味そうに眺めながら、野々村はさっさとノートパソコンを仕舞う。
「今更焦って資料集めるぐらいなら、悠也も俺みたいに一年の時から講義受けりゃ良かったのに」
「うるせえな。近寄りがたい感じだったから仕方ないだろ」
「じゃ、なんで近寄りがたい感じじゃなくなったんだよ」
ぎくっと悠也の手が止まった。
『恋人になったからです』
なんて、言えるわけがない。
答えに窮していると、野々村が勝手に答えを導いてくれた。
「あれか。去年の夏、藤堂先生と一緒にプレゼン大会出てたよな。あれで仲良くなったのか?」
「そうそう、それそれ」
間違いじゃない。調子よくうなずく。
「確かにお前、秋あたりからよく研究室来てたもんな。んで、四月からいよいよ正式に藤堂研究室の一員か」
悠也の表情が緩んだ。配属は今月初めに決定したばかりだ。胸が高鳴る。
「あらためてよろしく、センパイ」
「気色わり。俺の方が一年長いからな。敬語使えよ敬語」
「敬語とかもっと気色わりいだろ」
冗談を交わしながら、悠也は自然に視線を上げた。冬枯れの桜の枝が青空に張り出している。
ひと月ほど前、この桜の木の下で、悠也は圭と想いを確かめ合った。
恋人になる、と子どものようにしゃくり上げながら言ってくれた声を、何度反芻したか知れない。涙でぐしゃぐしゃになった圭の顔は、今まで見た誰よりも綺麗だと思った。幸福な、冬の夜の記憶。
「LMSにも講義動画上がってんのは知ってっか?」
ほわほわと回想に浸っていた悠也を、冷静な野々村の声が現実に引き戻した。慌ててうなずく。
「知ってる知ってる。もう何回も見た」
LMS(大学の学習管理システム)にアーカイブされている各種の講義動画はもちろん、「藤堂圭」の名前が関連付けられている資料や論文はすべて複数回チェック済だ。
「何回も……? お前、どんだけヒマなんだよ」
「好きでヒマしてるわけじゃねえよ」
「カノジョ作ればいいじゃん。お前モテるだろ。何つったっけ、あの経済学部のカワイイ子」
「あー、ないない」
手を振りながら、悠也の表情はどうしても沈んでしまう。
「……どした?」
野々村が少し声を落として、悠也を窺った。心配げな目の色だ。
「んー……」
悠也がどう返そうか悩んでいると、野々村のスマホから小さな着信音が鳴った。
悪い、と断って立ち上がり、離れた場所で通話を始めた野々村を、悠也はぼんやりと眺める。明るい顔、弾んだ声。相手はカノジョだな、と直感する。
「はい。…はい。…大丈夫です。じゃあ、また後で」
――ん? 敬語?
通話を終えて戻ってきた野々村を驚いて見上げた。
「え、野々村、年上と付き合ってんの?」
「あ。バレた?」
嬉しそうな顔は少しも後ろめたそうではなかった。むしろ幸せいっぱいな表情だ。悠也の胸が小さく痛む。
「いくつ上?」
「えーと、…六つ? とかそれぐらい。……ほら、学部の事務室にいるだろ。笹原さん」
「え!?」
悠也も知っている名前だった。黒髪サラサラロングで黒縁の丸眼鏡をかけた、理学部より文学部が似合いそうなおとなしそうな女性だ。
「マジかよ……いつから?」
「入学してすぐくらいだったかな。俺の奨学金のことで相談に乗ってもらったのがきっかけで」
照れ臭そうに笑う表情は本当に幸せそうだ。
「ってことで、俺はそろそろ行くわ。香苗さんに差し入れしてくる」
「おう、頑張ってこい」
自然に「香苗さん」呼びになった野々村の浮かれっぷりにやや呆れつつ、悠也は素直に応援しながら見送った。
残されて、またため息をつく。
再びタブレットに指を滑らせ、もう何回目の再生になるかわからない動画の再生ボタンをタップした。
ゼミの発表中の教室。画面の中央でスライドを指し示している学生の、斜め前に座ってる圭の横顔をピンチアウトする。
白くて線の細い顔。すっと通った鼻梁、薄くて小さい唇。かたちのいい耳。切れ上がった瞳が美しく、一点にじっと視線を据えて動かないその横顔は、まるで彫刻のように静謐に整っている。
「いい着眼点だ」
画面の中の圭が言う。淡々とした口調は変わらない。ただ、少しだけ声が弾んでいた。画面の外にいる学生に向けた切れ長の瞳も「きらきら」と輝いている。
一見表情を動かさない圭が、実はテンションが上がることがあるのを、悠也は気付いてしまった。学生から鋭い質問を受けたときや、自分の専門分野を突っ込まれたときや、面白い議論ができそうだと思ったとき。
――かわいい。
動画の再生が終わる。静止した圭の横顔を、そっと指で撫でる。
「……なんであの時キスしなかったんだろ」
こうなるとわかっていたら、恋人になったあの夜、キスをすれば良かった、と何度後悔したか知れない。二人の間で経験した恋人らしいことといえば、ハグぐらいだ。しかも、家族や友達にもするような「ふつうの」ハグに少し毛が生えた程度の。
機械的に手を動かして一覧画面に戻りながら、悠也がまたため息を吐きそうになった、その時。
「おーい、秋吉!」
上から声がした。若々しくて張りのある男の声だ。
「こっちこっち!」
研究棟の方だった。聞き覚えがあると思ったのと同時に、研究棟の三階の窓から手を振る、大柄な日焼けした男が視界に入った。
「高瀬先生?」
物理学科の、高瀬 速人 准教授だ。気さくで面倒見が良くて、指導教員でもないのに悠也の相談に乗ってくれる。圭とは学生時代から先輩と後輩の間柄らしい。
悠也は、慌てて荷物をカバンに放り込み、研究棟に向かって走った。高瀬はそんな悠也を見下ろしながら、ちょいちょい、と指先のジェスチャーで「上がってこい」と示した。
ともだちにシェアしよう!

