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Chapter 1 : Scene 2

「おう、お疲れさん。そこ置いといてくれ」 「はーい」  高瀬が手で示した長机の上に、悠也は、運んできた段ボール箱をどさりと置いた。中には、雑多な資料類や分厚い冊子、明らかに印刷しすぎて余った何種類ものリーフレット、ポスターなどが雑然と詰め込まれている。  もう日はとっぷり暮れていた。  高瀬が悠也を呼んだ理由。それは、倉庫の片付け要員のためだった。  来月に赴任してくる誰かのために空き部屋が必要になり、倉庫に使っていた一室を整理しなければならなくなったという。そこで窓の外を見ると、暇そうにタブレットを眺めている悠也が見えたから呼んだ、ということらしい。 「全部終わったか?」 「はい。ゴミの分別も全部終わらせて、リサイクルボックスへ持って行きました。ついでに掃除機かけて窓も拭いてます」  ここまで集中して肉体労働したのは久しぶりだった。正直、何も考えずに身体を動かす時間は今の悠也にはありがたい。 「さすが、気が利くな。――じゃあ最後の仕上げだ。そこのパンフレットも全部捨てるから、束ねてこの台車へ積んでくれ」 「げ。これ全部?」 「若えんだから平気だろ。後でお駄賃にアルフォートやるから」 「いやガキじゃないんだから。焼肉とか奢ってくださいよ」 「お前に焼肉なんか奢ったら俺の財布がカラになるわ。コーヒーも淹れてやるからガマンしとけ」  ぽんぽんと交わされる軽口が心地いい。  表情をゆるめながら、悠也は研究室の隅に置かれたパンフレットの山に向かった。  年度末らしい大量の紙類の山を適当にまとめてビニール紐で縛り、台車に積んでいく。文句は言ったものの、どうということもない作業だった。ただ量が膨大なだけで。  黙々と作業をしていると、入り口からノックの音が聞こえた。お客さんかな、と思いつつ、ぎゅっと紐を縛る。 「失礼します」  耳に届いたのは、聞き覚えのある――ありすぎる声だった。  ――え。  悠也は思わず手を止めた。まさか、と思いながらなぜか息をひそめる。 「遅えよ。今何時だと思ってんだ。十七時締め切りだぞ」 「ああ、日本時間でしたか。てっきりドイツ時間かと」  大きく目を見開いた。悠也がよく知っている声。ただ、聞いたことがないトーン。  ――あの「氷の藤堂」が、冗談言ってる?  悠也のいる位置から入り口は、ちょうど棚が邪魔になって見えない。悠也の視界には、高瀬に向けて差し出されるクリップボードだけが見えた。 「あと、予算ドラフトも問題ありません。完了しました」 「悪いな。恩に着る」 「学食の本格深煎りコーヒーで手を打ちましょう」 「紅茶派じゃなかったか?」 「たまには妥協してあげますよ」  棚の間から、笑顔が見えた。タブレットの中でしか会えない顔がそこにあった。 「先生!」  勝手に足が動いていた。  弾かれたように振り向いたその顔と、まっすぐに視線が重なる。  瞬間、高瀬に向けていた楽しそうな笑みが消えた。何もかもを封じ込めるように凍り付いた表情に変わり、何の感情も見えないガラスのような瞳が悠也を映す。  薄い唇が、何かを言おうとしたのか、小さく開いてまたすぐに閉じた。微かに震えを帯びて見えたのは気のせいか。結局その唇からは何も言葉は出なかった。  そのまま、美しい切れ長の瞳が、す、と悠也から逸れた。 「――では」  高瀬に視線を戻し、小さく会釈をして、それきり。  音もなく閉じたドアを見つめ、悠也は呆然と立ち尽くした。  ――は?  何が起こったのか、すぐには理解できなかった。  圭の目が、間違いなく悠也を見た。確かに視線が重なった。  しかしその一秒後には、無表情のまま高瀬へ逸れた。  胸の奥にずきりと痛みが走る。  ――先生、俺のこと、無視した?  気付けば手の中のビニール紐とハサミを握り締めていた。痛いはずなのに、感覚は鈍い。  ――なんで? 先生に会えるの、ずっと待ってたのに。  乱れる鼓動の音がうるさく響く。  追いかけたい。そう思いながら、足は床に縫いとめられたように動かない。  ガラスのように表情のない瞳。悠也を見ても、何の感情も浮かんでいなかった。見知らぬ他人を見るような。  息ができなくなる。握り締めた指が震えそうになる。  ――と。不意に、ぽん、と、悠也の背が柔らかく叩かれた。 「休憩すっか」  は、と、悠也は我に返った。 「そこ座れ。コーヒー淹れてやるよ」  高瀬の声でようやく世界の輪郭が戻ってきた気がした。  悠也は瞬きをひとつして、それからやや慌てて高瀬を見上げた。 「え。でも、まだ、作業――」 「いいから」  優しいけれど有無を言わさない声だった。  促された椅子に、戸惑いながら腰を下ろす。背もたれに体を預けた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた気がした。 「ほら」  コーヒーの紙コップと、アルフォートの大袋。ありがとうございます、と悠也が小さく言う間に、高瀬は、向かいの椅子にどかりと腰を下ろした。  熱いコーヒーが喉を通る。ふう、と、無意識に息が漏れた。高瀬がアルフォートの小袋を破り、中身を口に放り込む。 「喧嘩したってわけでもなさそうだな」  もさもさと咀嚼しながら言われたせいで、力が抜けた。思わず笑ってしまう。 「そんなわけないでしょ。ケンカする時間なんかぜんぜん」  答えかけて、ふと脳裏に疑問が浮かんだ。 「……俺とあの人が付き合ってるって、なんで知ってるんですか? 本人から聞いたとか?」 「まさか。あいつがそんなこと他人に言うかよ」  高瀬はふたつめのアルフォートをくわえながら事も無げに答えた。  ――ん? でも俺も、誰にも言ってないぞ?  疑問が顔に出たのか、高瀬がいたずらっ子のように笑う。 「見てりゃわかる。バレバレだ、お前ら」  悠也はわずかに目を見開いた。自分の何を見られたのかと思うと、頬が熱くなる。  高瀬はそれ以上踏み込まず、代わりにアルフォートの袋を無言で押しやった。 「悩んでんだろ、若造」  からかうような口調がわざとだと気付かないほど、悠也も鈍くはない。わざと無造作に、袋の中へ手を突っ込んだ。 「……そりゃ悩みますよ。さっきの、見たでしょ? めちゃくちゃ久しぶりに会えたのに、あんな――」  無視されるなんて、と言う代わりに、アルフォートを口に放り込む。味はしなかった。 「まあ時期が悪いわ。四月になりゃ、あいつも少しは余裕できるさ」 「いくら余裕ないからって無視します? 恋人なんですけど!」 「恋人だからだろ。あいつはそういう奴だ。不器用なんだよ。知ってるだろ?」 「――……」  返す言葉が見つからなかった。  高瀬の言葉が全部正しいことは、悠也にもよくわかっている。  そういう人だから好きになったんだけど、と心の中でつぶやきながら、口を尖らせてコーヒーをすする。 「……高瀬先生とはこうやって喋る時間もあるのに?」  情けない愚痴だと思いながら、言わずにはいられない。 「なんだその俺がヒマしてるみたいな言い方は」 「あ、いや、そんなつもりじゃなくて」  慌てる悠也を可笑しげに見遣り、高瀬は軽く肩を竦めた。 「俺だって目が回るぐらい忙しいさ。だからこうやってたまに息抜きでもしないとやってられねえのよ」  小さく笑ったその表情に、わずかな苦みが滲む。 「――藤堂は、そういうことはしない。というか、できない」 「ああ……」  悠也は、紙コップを両手で包むように持ち直す。わかる気がする、と声には出さない。 「そもそも『息抜きもできない自分』に気付いてすらいねえしな」  アルフォートを口に放り込んだ高瀬の横顔が、ほんの一瞬だけ、遠いものを見ていた。  悠也はうつむいた。紙コップの中で揺れる茶色い水面に視線を落とす。  圭の事情は理解しているつもりだった。ひとつのことに集中すると寝食を忘れがちになる人だということも。  それでも。  こんなにも会えない。言葉も交わせない。  やっと久しぶりに会えたと思えば無視される。  本当にこれで「恋人」だと言えるのだろうか? 「……もうちょっとだけ、恋人っぽいこと、してほしいだけなんですけど」 「恋人っぽいこと、ねえ」  悠也の言葉を繰り返しながら、高瀬の視線が上を向く。 「たぶん、藤堂の定義とお前さんの定義はかけ離れてるぞ」  悠也は軽く目を瞠った。 「そもそもあいつ、まともな恋愛経験なんかほとんどないはずだからな」  そういえばそうだ、と悠也はあらためて思い返した。  そもそも想いを確かめ合ったあの冬の日、圭は、「恋」という感情自体が理解できなくて恐ろしい、と、泣きながら告白してくれた。そして悠也は、そんな圭に向けて、一緒に向き合っていきたい、と立派に答えたのだった。  決して忘れていたわけではない。寂しさに紛れてうっかり漏れていただけだ。 「だからって、いくらなんでもデータ不足すぎです。理解したくても無理ですよ」 「四月から藤堂研入るんだろ。良かったじゃねえか。毎日研究室で顔突き合わせりゃ、データ取り放題だ」 「……高瀬先生、面白がってません?」 「当然じゃねえか。あの藤堂の本命カレシなんざ、見世物にするしかねえわ」 「――……」  ほんめいかれし。赤裸々過ぎる単語に思わず赤面する。  高瀬はそんな悠也を見て小さく笑った。言葉とは裏腹に、ひどく優しい光がその瞳に滲んでいる。 「自信持て。藤堂がお前に本気なのは間違いねえんだから」 「……そうなんですかね……」  正直、自信などまったく持てない。根拠がない。  高瀬の大きな掌が、テーブルの上に散らばったアルフォートの小袋を一気に鷲掴んだ。 「ま、観測と干渉のバランスを大事にしてりゃ、いつかどうにかなるんじゃねえか」  悠也は目を丸くした。冗談を言われたのかと、一瞬半笑いになる。 「いや実験じゃないんですから。つか、言うなら観測じゃなくて『観察』じゃないですか?」  観察とは、ありのままを注意深く見ること。観測とは、観察に加えて測定し記録すること。理系分野を学んでいる者なら当然理解しているはずの違いだ。 「細けえな。俺は『観測』のほうが言い慣れてんの。誤差だ誤差」 「何すかそれ」  雑な言い訳に呆れて今度こそ笑った悠也の顔が、続いた高瀬の一言に止まる。 「とにかくな。見てるだけじゃ伝わらねえし、触るだけじゃわかりあえねえのよ。両方そろって初めて、愛だ恋だって話になる」 「――……」  思わず言葉を失った。  と同時に、ふと、テーブルの上に放置されていたタブレットが点灯した。何か通知が入ったらしい。高瀬が慌てて手の中のゴミをまとめて捨て、タブレットを取り上げる。 「悪いな」 「いえ、どうぞ」  礼儀正しく視線を逸した悠也を残し、高瀬は立ち上がった。 「あー……六月かあ……。立て込んでんだよなぁ」  ぶつぶつ言いながらデスクへ向かう高瀬先生を見るともなく見送り、悠也はアルフォートをコーヒーで流し込む。  観測と干渉。  高瀬が口にしたキーワードを反芻する。  悠也に足りていないのはどちらだろう。あるいは両方足りない?  考え込んでいる間に高瀬が戻った。テーブルの上に、タブレットと、バイブルサイズのスケジュール帳が広げられる。思わず目に入ったマンスリーページの書き込みの多さに、悠也の喉から「げ」と声が漏れた。 「めちゃくちゃ忙しそうっすね……」 「来年度は学会ラッシュだからな。今、六月に三つめが入った」 「三つ……」 「お。そういや、六月といえば」  眉間に皺を寄せてスケジュール帳とにらめっこしていた高瀬の顔がぱっと上がる。 「藤堂の誕生日だぞ。六月十三日」 「へっ!?」  思わず声が裏返った。 「な・なんで知ってるんですか??」  悠也が慌てて聞き返すと、高瀬はくくっと笑った。 「マクスウェルと同じ日なんだよ、あいつ」 「……マクスウェル?」  もちろん知っている。電磁気の法則をまとめた十九世紀の偉人。 「そう。ジェームズ・クラーク・マクスウェル。あいつの専門からしたら、まあ、崇拝対象みたいなもんだろ」  高瀬は右手の指先で器用にペンを回しながら、どこか面白そうに笑う。 「で、なんかでたまたま誕生日が一緒だって気付いたとき、からかったんだわ」 「――……」 「そしたら案の定、あいつピキってさ。俺が一応先輩だから何も言い返してこなかったが、『くだらない』って顔にはっきり出てた」  可笑しそうに話す高瀬の横顔を見ながら、悠也はなんとなくその光景が目に浮かぶ気がした。 「その顔がまた面白くてな。もっとからかいたくなったけど我慢した。――ま、そういう面白エピソードのついでに覚えてるってだけだ」  高瀬は悪びれもせずにそう言って、スケジュール帳に視線を戻した。  悠也の胸が、小さくちくりとした。圭をからかう自分を想像しようとして、うまくいかない。  ため息を吐きながら、悠也はそっとスマホのカレンダーを開いて、六月十三日に星のスタンプをつけた。

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