33 / 33
Chapter 11 : Scene 3
ある日の午後、藤堂研究室。
部屋の隅でサーバーが低い唸りをあげ、PCファンの回転音とカタカタと軽快に響くキーボードの音が重なる。
ホワイトボードの前では、数人の学生が数式を指差しながら熱心に議論を交わし、ディスプレイに映し出された解析データに息を詰めるように見入る学生もいる。
その知的な熱気に満ちた空間は、いつもと変わらない、そして今は何よりも愛おしい日常そのものだった。
入り口のドアが開く音がした。少し間が空いて、女性の声が圭を呼んだ。
「失礼します。藤堂先生、ご依頼の書類です」
入ってきたのは、事務員の笹原香苗だった。立ち上がって入り口へ向かう。差し出されたクリアファイルの中身を軽く確認した。
「ありがとうございます。いつもすみません」
「いえ。では、失礼します」
香苗が頭を下げて出て行こうとした、そのとき。ちょうど休憩から戻ってきたらしい野々村と鉢合わせた。
「お疲れさま、野々村くん」
「お疲れ様です」
すれ違いざま、野々村が、ごく自然な仕草で香苗の肩にそっと手を置いて何かを囁いた。香苗もそれに小さく頷き返し、柔らかく微笑む。長い髪が揺れ、ドアの向こうへ消える。
何となく一連の流れを目撃してしまった圭は、暫し立ち尽くした。
以前、事務室で偶然出会った時と、何かが違うような気がした。ひどく自然で穏やかで、当たり前の親密さ。
首を傾げながら自席へ戻る。コードの解析が途中だった、と、眼鏡のブリッジを押し上げてディスプレイへ向き直った。
すると、スニーカーがリノリウムを擦る軽快な足音。顔を上げなくても誰かわかる。
「先生、サインお願いします」
悠也が、数枚の書類を差し出した。
「ああ」
ディスプレイに表示されるコードをチェックしながら手を差し出すと、ふわり、と書類が置かれる。
そこでようやく、視線を手元へ戻した。
流れるような所作で、ペントレイの上から万年筆を手に取る。夜空の色をした美しいマーブル模様の軸は、相変わらず艶やかだ。
ごく自然な仕草でキャップを外し、美しい黒のインクでサインを書き込む。快適な書き心地。満足げに圭の口端が緩むのは無意識のことだ。
記入を終えた書類を悠也へ返しながら、ああ、と思いついた。
「秋吉、ちょうど良かった」
PCに挿してあったUSBメモリを引き抜く。恐竜のイラストが描かれたキーホルダーが小さく揺れた。
「先日のミーティングで伝えたデータを入れてある。使え」
「ありがとうございます。すぐ返しますね」
受け取りながら、悠也の視線が一瞬だけキーホルダーに向いたのを、そしてその口元が楽しそうに緩んだのを、圭は見逃さなかった。しかし何も言わず、意識は再び目の前のディスプレイへ戻る――やはりその口端は小さく綻んでいたけれど。
かつて、頑なに閉ざされていた、自分だけの世界。
そこに、他者の存在が、ごく自然に溶け込んでいる。
自分の殻が壊されることを許し、受け入れることでしかたどり着けない場所があるのだと、今なら、わかる。
作業がひと段落し、小さく息を吐く。
部屋をふたつに隔てるスチールラックの向こう、書類やさまざまな道具類が雑多に置かれたラック越しに見える学生エリアでは、圭の教え子たちが懸命にそれぞれの作業に打ち込んでいる。
ふと、その中の一人が、自席のPCに向けていた視線をこちらへ向けた。
――悠也。
今は心の中だけで呼ぶ名前。
二人の視線が、ほんの一瞬だけ、静かに交わる。
言葉はない。
しかし、黒くひたむきな瞳は、すべてを物語っていた。
悠也が、誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ口角を上げた。
その小さな笑みに応えるように、圭もまた、ごく微かに、瞳を細める。
窓の外では、夏の光が、きらきらと輝いていた。
――了――
ともだちにシェアしよう!

