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Chapter 11 : Scene 2

 ふ、と意識が覚醒する。  ゆっくりと目を開けると、見慣れた自室の天井が視界に入った。  いつもと同じ、一人の目覚め。  しかし、身体を包むシーツの感触も部屋に満ちる空気も、なにもかもが昨日までとは決定的に違っている。  昨夜の記憶を反芻する。触れ合った肌の熱さ。交わしたキス。そして、圭を包んでくれた確かな温もり。頬が熱くなる。ゆるみそうな口元に力を込める。  そこでふと気づく。  隣に、悠也がいない。  一瞬、胸の奥がひやりとする。まさか、夢だったのだろうか――そんな些細な動揺を抑えながら、圭はゆっくりと身体を起こした。シーツが擦れるかすかな音に重なって、ダイニングの方から何かが動く気配がした。  ――もう起きているのか。  少し慌てて、手早く着替えを済ませる。  そっと寝室のドアを開けると、ダイニングに突っ立っている悠也と目が合った。悠也も目覚めた直後らしく、少し寝ぐせのついた髪が新鮮に映る。些細な動揺が溶けるように消える。他愛もない自分の心の動きが恥ずかしい。 「おはよう、圭」  太陽のようないつもの笑顔。  その眩しさに、せっかく落ち着いていたはずの圭の心臓がまたしても跳ね上がった。かっと頬に熱が集まる。 「……おはよう、悠也」  目を逸らし、早口で答えるのが精一杯だった。足早に洗面所へ向かい、しまっておいた新しいアメニティ類を取り出す。新しいフェイスタオルも。 「歯ブラシ、用意しておいた」  目を合わせられないまま伝え、逃げるようにクローゼットへ。まだ耳が熱い。  自分の部屋に他人がいること自体が信じられない。歯を磨く気配すら、少し耳を澄ませば伝わってしまう事実になぜかひどくどぎまぎしながら、落ち着かない気持ちで着替えを終える。  すると悠也も、すっきりとした顔で洗面所から出てきたところだった。入れ替わりに洗面所へ向かう。 「朝、俺なにか作るよ。腹減ってるでしょ?」  ドアを閉めても、投げられた声が楽しそうだということは十分伝わった。 「……何もないぞ」  ぶっきらぼうに答え、冷たい水で顔を洗う。顔を拭き、歯を磨き、最低限の身支度を整える。 「大丈夫ですよ。俺、わりと残り物で適当に何でも作れるんで」  がちゃり、と冷蔵庫を開ける気配を感じつつダイニングへと戻ると、冷蔵庫の前で呆然と固まっている悠也の背中があった。ゆっくりと歩み寄り、その後ろに立つ。 「ない、と言っただろう?」  悠也が圭を振り仰いだ。その顔には、信じられないものを見た、という表情が浮かんでいる。 「……これ、冷蔵庫じゃなくて、ただの白い箱じゃん」  冷蔵庫の中は見事に空っぽだった。照明だけが、がらんとした庫内を虚しく照らしている。電気屋で新品として展示しても誰も疑わないだろう。 「いつもはもう少し入っている」  さすがにきまり悪く、ぼそ、と補足する。卵や豆腐くらいなら常備しているが、ここ最近はまともに食欲もなく、買い物すらしていなかった。今が一番ひどい状態であることは間違いない。 「キッチンも新品みたいだもんなー。普段料理とかほとんどしないでしょ?」 「するように見えるか?」 「見えません」  からりと笑って、悠也が軽く気合を入れて立ち上がった。 「外に何か食べに行きましょ。俺、もう腹ぺこ」 「そうだな」  圭も、仕方ないというように小さく頷いた。つい口端が緩んでしまうのは、あまりにも屈託のない悠也の笑顔のせいだ。  あらためて悠也を見ると、いつの間にか着替えを済ませている。手には、先ほどまで着ていたスウェットが丁寧に畳まれていた。  圭の視線に気付いたらしく、悠也が、あの、とやや言いにくそうに視線を泳がせた。 「このスウェットって」  少し困ったように差し出されたそれを、当然のように受け取る。 「ああ、洗っておく」  そして、一度だけちらりと悠也へ視線を向けた。 「……これは、お前の、だからな?」  悠也が、無言で目を見開いた。すぐにぱっと明るく笑い、「はい」とうなずく。その笑顔を見て圭は急に気恥ずかしくなり、そそくさと脱衣室へ戻り、スウェットを洗濯カゴへ放り込んだ。  二人で玄関へ向かいながら、圭はふと悠也の服装に目を向けた。 「そういえば、お前、昨日と同じ服だな」 「え?」  昨日、研究室で着ていた、少し皺の寄ったTシャツとデニム。 「それでいいのか?」  問いかけると、悠也は一瞬きょとんとした後、何でもないことのように笑った。 「平気平気。オール明けとか、いっつも同じ服でそのまま大学行きますし」 「……そうか」  そのあっけらかんとした答えに、圭は少し呆れたように、でもどこか愛しさが滲むのを自覚しながら、小さくため息をついた。  マンションのエントランスを出ると、初夏の日差しが目に眩しい。  住宅街だが、徒歩五分の駅まで行けばそこそこ店がある。  早朝の時間帯のおかげで、落ち着いた店でゆっくりと朝食を摂ることができた。  モーニングセットを前に、他愛もない話をする、穏やかな時間。昨日までの張り詰めた空気が嘘のように、満ち足りた悠也の表情。そのすべてが、圭にとっては初めて経験する幸福だった。 「いやー、美味しかったですね。ごちそうさまでした」  ぺろりとたいらげた悠也が、丁寧に手を合わせる。自然な育ちの良さを感じさせる所作だった。  小さく口元を綻ばせながら、圭は静かに紅茶のカップに口をつける。専門店のそれには及ばないが、圭の好む柑橘系の芳香。落ち着くな、と改めて瞳を細める。  悠也もコーヒーを口に運びつつ、ちら、と手元のスマホに視線を落とした。一限目まではかなり時間がある。 「このまま一緒に大学行きます?」  軽く向けられた問いに、圭は小さく首を振った。 「誰かに見られたらどうする。特に、お前の服が昨日と同じだと気づかれたら面倒だ」  冷静な口調に悠也は一瞬目を見開いたが、すぐに圭の意図を理解したらしい。その瞳に、柔らかな光が宿る。 「わかりました。いったん家帰るね」 「そうしてくれ」  静かに答えてから、圭は、そっとカップを置いた。わずかに姿勢を正す。 「……悠也」  秋吉、と呼びそうになったせいで、少しだけ間が開いた。悠也は気づいた風もなく、コーヒーに口を付けつつ圭に視線を向けた。  テーブルの上で静かに指を組み合わせ、ゆっくりと口を開く。 「――ひとつだけ、約束してほしいことがある」  悠也が、圭のあらたまった空気に気づき、カップを置く。 「はい。約束します」  まっすぐに断言された言葉を聞いて、圭は小さく笑った。 「内容を聞かなくてもいいのか?」 「圭が言うことならなんでも聞くよ。本気」  ふ、と笑う圭の表情が少しだけ真面目に引き締まる。 「それだ」 「え?」 「私が、大学をやめろ、研究を諦めろと言ったらどうする?」  悠也が目を見開いた。よく似た問いに対する答えを、悠也は圭に告げたことがある。そして圭は、その悠也の言葉に『重いな』と返した。 「……圭がそう言うなら、やめる」  探るような声音と表情。組み合わせた指に、く、と無意識に力が入る。 「それは、駄目だ」  悠也の瞳が瞬く。 「なんで?」  圭は少し考えるように沈黙した。どう伝えればいいのか、慎重に言葉を選ぶ。 「…誰かのために自らの人生をなげうつのは、尊い選択だと思う。決して否定はしない。でも、その選択は、時として、相手に重い十字架を背負わせることになり得る」  何かを反論しようとしたのか、悠也の唇が小さく開いた。しかしそこから言葉が出ることはない。 「それに、私は」  圭は、組み合わせた自分の指に一度視線を落としてから、また悠也を見つめた。 「私は、お前の才能も愛している。将来、研究者として輝く悠也を一番近くで見られたら、どんなに幸せだろうと思う」  本気で夢想したことのある未来だった。輝かしい業績を刻む悠也。迷いなく成功の階梯を上っていくその背中を、最も近いところでずっと支え続ける――  気づけば遠くを見ていた視線を自覚し、小さく咳払いをした。 「……もちろん、悠也の将来は悠也が決めればいい。研究者は嫌だと言うなら、それもいいだろう。惜しいとは思うが」 「――……」 「とにかく、自分の足で自分の未来をしっかり歩いてほしい。悠也自身のために」  ふ、と息を吐いた。いつの間にか緊張していたことを自覚する。学生への指導のときとはまったく違うな、と小さく笑う。  笑いをおさめて、また悠也に視線を戻した。黒の瞳も、いつの間にかひどく真剣な光を湛えていた。 「だから、約束しろ。――私のために大学を辞めてもいいなんて、二度と言うな」 「…わかりました」  悠也が、小さく、しかしはっきりとうなずいた。  一瞬の間。  はっと手を引こうとした時は遅かった。熱い悠也の指が、組み合わせた圭の白い指を包んでいた。 「ありがと、圭。――俺、めちゃくちゃいい卒論書くから。期待してて」 「っ!」  片手をさりげなく絡め取られる。指先に触れた柔らかい熱。――唇。キスされた。圭の顔に、爆発するように熱が昇る。 「待っ……――おい…!」  伝票片手に立ち上がった悠也を、慌てて追いかけた。

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