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Chapter 11 : Scene 1

 ゆっくりと、心地よい微睡みから意識が浮上する。  ふ、と目を開いた。  悠也が、息がかかるほど近くで自分を見つめていた。  ――なんでこんなに近くに?  ふわふわと定まらない思考のまま、じっと見つめ返す。少し癖のついた柔らかそうな髪。西洋の宗教画で見たことがあるような気がする、すべてが驚くほど整った甘い美貌。  無意識に手が伸びた。  滑らかな頬の輪郭を、指先で確かめるように辿る。ぺたぺたと触れる指に、目の前の顔が少しだけくすぐったそうに瞳を細めた。しかし、抵抗はない。  調子に乗って、圭はさらに指を滑らせた。滑らかな頬を撫でて、指先で頬の肉をふにっとつまむ。それから、密かに気に入っている左の目尻の小さなほくろを、指先でそっと押さえた。  愛しい、と思った。胸の奥から、あたたかい何かが湧き上がってくる。自然と、唇の端が緩んだ。 「目が覚めた、圭?」  不意に、目の前の整った顔が、はっきりと声を紡いだ。  夢にしては、やけに明晰に聞こえる。それに、触れているこの顔も、夢にしては実感と実体がありすぎるような――そう思った瞬間。  昨夜の記憶が、奔流となって思考を埋め尽くした。  深く重ねた唇。  乱れたシーツの上で受け止めた熱い体温。  自分の口から漏れた、蕩けるように甘い喘ぎ声。  そして、無意識に――「悠也」と呼んでしまったこと。 「――っ!」  全身の血が沸騰し、一気に顔に集まるのがわかった。羞恥で硬直した身体が後ろへ逃げようとする。  しかし、その動きは完全に読まれていた。  ぐいと力強い腕が背中に回り、がっしりと抱き締められる。逃げ場はなく、一気に身体が密着した。シーツ越しに伝わる、熱い肌の感触。泣きそうなほど恥ずかしい。  顔を伏せたい。だが、顔を伏せれば、その先にあるのは悠也の裸の胸だ。それだけは絶対に避けたくて、圭は混乱と動揺のあまり、ただ涙目で固まることしかできなかった。  そんな圭の頭を、悠也の掌が優しく撫でる。 「大丈夫ですか、身体」  その声は、いつもどおりの、穏やかで優しい声だった。  問われて初めて圭は、自分の身体がべたつくことなく綺麗になっていることに気づく。 「……ありがとう。だいじょうぶだ」  目は、とても合わせられない。悠也の肩口あたりを見つめたまま、ようやく小声で答えるのが精一杯だった。  悠也が笑う気配がした。 「お礼、言ってくれるなら」  抱き締める腕に、少しだけ力がこもる。 「名前、もっかい呼んでほしいです」  無邪気な声で、とんでもないおねだりが降ってきた。  圭は、息を詰めた。  名前を呼んでほしい。その言葉の甘さと背中に回された腕の力強さから、逃れる術はないと悟る。  観念して、小さく息を吸った。 「……ゆ、」  唇が、うまく動かない。それでも、圭を包む体温が無言で返事を待っている。 「……悠也」  蚊の鳴くような声だった。自分でも消え入りそうだと思ったのに、ちゃんと聞き取ってくれたらしい。 「――圭」  しっかりとした、真面目な声が、頭上から降ってくる。同時に、圭を抱き締める腕に更に力がこもった。  ぎゅっと抱き寄せられ、今度こそ圭の顔は悠也の裸の胸に埋まってしまった。一瞬身体が硬直しそうになるが、触れた体温は驚くほど心地よかった。小さく息を吐きながら目を閉じる。  規則正しく刻まれる、力強い鼓動。自分よりも少しだけ高い体温。自分と同じボディソープの匂い。  そのすべてが、どうしようもないほどの安心感をくれた。強張っていた身体がゆっくりと解けていく。  言葉のない穏やかな静寂。  ただ互いの温もりと心音を確かめ合う、幸福な時間。自然に瞼が重く下がる。  ずっとこのままでいたい。圭が、微睡みの中に再び沈みかけた、その時だった。 「ひとつだけ、聞いてもいいですか」  悠也が口を開いた。 「……なんだ」  圭の声は、すでに眠気で少し掠れかけていた。 「いつから準備してたの?」 「……準備? なんのだ」 「あの。俺の、服とか。ローションとか。……ゴムとか」  悠也の言葉に、圭の思考が一瞬止まった。そして、じわじわと頬に熱が集まっていくのを感じる。 「……ああ」  声が、わずかに上擦った。 「答えなければ、いけないか……?」  悠也の胸に顔を埋めたまま、精一杯の抵抗を試みる。 「ええと、いや、そういうわけじゃ……」  悠也の声が、少しだけ慌てたように響く。 「でも、いくら考えてもわかんなくて。告白してからほとんど会えなかったし、やっと初デートしたのがこの間で、その直後から、せ…じゃなくて、圭、急に冷たくなったし」  う、と、小さく肩が強張る。  悠也の疑問は尤もだ。論理的に考えれば考えるほど、「準備」に関する圭の行動は不可解に映るだろう。  圭は観念した。  悠也の胸に顔を埋めたまま、声だけが細く、シーツの海に溶けていく。 「……あの日の、帰りだ」 「あの日?」 「科学館とプラネタリウムに行って……万年筆をもらった、あの日。別れた後、帰り道に、全部買った」 「え」  ぴたり、と、悠也の動きが止まった。  沈黙が部屋の空気を支配する。  あまりの気まずさに、圭はもう消えてなくなりたかった。ただただ恥ずかしく身の置き所もない。何しろ、その翌日の昼には自分は悠也を遠ざける決意を固めていたのだ。悠也視点で考えれば、矛盾という言葉すら生易しい、不可解極まりない行動でしかないはずだ。  ひたすら縮こまるようにして身を強張らせていると、不意に、ふ、と、悠也が息を漏らす音がした。  それは、可笑しそうな、でも、どうしようもなく愛しさがこみ上げてきたような、優しい笑い声だった。 「そっか」  顔を上げられない圭の身体を、悠也の腕が、もう一度、今度は確かめるように強く抱き締める。 「捨てずに、置いててくれたんだ」  何も言えなかった。ただ、悠也の胸に顔を押し付ける。  心臓が、ばくばくと音を立てて暴れている。とても眠るどころではない。 「…ありがとう、圭」  ありがとう、と、もう一度、悠也が囁く。  その声に含まれた万感の思いに気づく。そっと顔を上げると、笑う悠也と目が合った。  自然に唇を重ねられる。瞳を閉じながら、悠也の黒い瞳に涙が湛えられていたことに圭は気付いた。  腕を伸ばす。裸の背中に、掌でぺたりと触れ、ゆっくりと撫でた。 「――悠也の、おかげだ」  囁きを返す。小さく、うなずきが返った。  ゆっくりと息を吐く。まだ心臓の音はうるさいけれど、身の内をあたたかく満たす幸福感に身体がゆるんでいく。  背中を、ぽん、ぽん、と、あやすように優しく叩かれる。  その心地よいリズムと、熱い腕に包まれる安心感に、あれほど高鳴っていた鼓動が、少しずつ、少しずつ、凪いでいく。  瞳を閉じる。もう眠気には抗えなかった。

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