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Chapter 10 : Scene 4

「……続けていいですか…?」  そっと、また気遣うような声。同時に、秋吉の手が優しく背を撫でた。支えてくれる手に抗わず、仰向けに身を返す。シーツに背を沈ませながら、秋吉を見上げた。まだ息はわずかに弾んでいた。  温もりのある掌が頬に触れる。その熱が心地よくて瞳を細める。自然に手を上げて、その手に自分の掌を重ねた。なぜか嬉しくなって、そのまま笑う。  小さく、息を詰める気配がした。  ぼんやりとした視界の中で、秋吉の顔が近づく。柔らかく唇が触れ、軽くキスを交わした。何度も、何度も。  ――キス、きもちいいな。  小さく響く、リップノイズ。誘われるように圭の唇が秋吉のそれを啄み返す。熱い舌が触れ、誘うように薄く唇を開く。滑り込む舌を甘く吸い返しながら、無意識に圭の腕が秋吉の身体に縋る。もっと触れていたくて、ただ抱き着いた。夢中で、無心で。  幾度めかのキスの合間に、ふと、気づいた。  肌に、なにか当たっている。熱いもの。  キスをしながら、自然に視線を向け――見てしまった。  勃起したままの秋吉の性器。猛った先端が、圭の腹に触れていた。 「――……」  直視した瞬間、動きが止まる。  つい先刻、圭が自らの口で咥えたものではあるが、あらためて見直すと、今度はまったく別の実感が胸に広がる。それを、自らの中に受け入れる、という実感。  ――はいるのか? あれが?  冷汗が滲むような感覚。さっきまでのふわふわとした余韻が、急速に緊張に塗り潰されていく。  秋吉も、圭の変化に気づいたらしい。何を見ているか悟ったように、ふっと苦笑する。 「やっぱ、怖いですよね」  気まずさを紛らわすように、ちゅ、と軽く圭の頬にキスをする。今度はキスを返すことができず、惑うように秋吉を見上げることしかできなかった。 「…いいんです。無理に挿れなくても」  秋吉が柔らかく笑い、圭の頭をそっと撫でた。今夜は、幾度もこうして頭を撫でられているような気がする。 「元から、先生とはちょっとずつ進んでいけたらって思ってたし」  また、今度は目尻に優しく口付けられた。その動きで圭は、自分が涙目になっていることに気づいた。  ちゅ、と、唇にキスをしてから、秋吉がやや気まずそうに視線を落とす。 「まあ、さすがにこのままはちょい辛いから、今日は手とかでしてくれたら、それで」 「いやだ」  勝手に口が動いていた。  まっすぐに重なった視線の先で、秋吉は戸惑った顔をした。  その表情を見て、なぜか圭はどうしようもなく悲しくなった。 「ほしい。……最後まで、したい」  沈黙。  視線を絡めたまま、秋吉の喉仏が上下する。  その奥にある圭の覚悟を確かめるように、秋吉が静かに問い返す。 「……本当に、いいんですか?」  圭は、ゆっくりと頷いた。  まだ緊張している。怖さはある。しかし、それ以上に。  ――恋人なら、進まなければ。  声にはしない圭の思いが届いたのか、秋吉は、一度だけ息を整えるように小さく息を吐いた。  上半身を伸ばしてヘッドボードに置かれたパッケージを取り上げる。先刻、圭自身がそこへ置いた、コンドームの箱。  現実が迫ってくる。鼓動が再び暴れ始める。緊張が、のどを締めつける。  さすがにまともに視線を向けることはできなかった。密やかに高まっていく鼓動音と、秋吉の気配を耳にしながら、圭はじっと、シーツの上の自分の指先を見ていた。  と、音が変化した。粘着質な水音。ローション。思わず視線を向ける。  ゴムを着けた性器に、秋吉がローションを丁寧に塗り付けていた。勃起した性器に当たり前のように無造作に塗り広げられる粘液が、照明を弾いてぬらぬらと光っている。  目眩がするほど卑猥に見えた。あまりに生々しい光景に、圭は急いで顔を背け、真っ赤になった頬をシーツに押しつけた。 「先生、ちょっとだけ……足、開いてもらえますか」  秋吉の声に、身体は従順に従う。膝を立て、左右にゆっくりと開いた下肢を、秋吉の手が優しく、更に大きく開かせる。恥ずかしすぎて、目の奥がじん、と熱を帯びた。 「これ、ちょっとだけ楽になるんで」  秋吉がバスタオルを丸めて、そっと腰の下に差し入れる。  骨盤がわずかに持ち上がり、奥まったそこが空気に触れるのがわかった。限度を超えそうな羞恥と緊張が一気に押し寄せ、小さく身体が震えた。とにかく早く、と、何に対してかわからないまま、圭は強く願った。そのとき。 「!」  ひやりとした感触が後ろに触れ、小さく下肢が竦んだ。ローションで濡れた指が、またそこに触れている。 「やっ…、もう、指はいい……っ!」  頭を打ち振る。しかし秋吉は手を止めない。 「ダメです。大事なことですから」 「――、っ」  その真剣な表情と言葉に、圭の胸の奥が甘く締め付けられる。羞恥とは違う理由で頬に熱が昇る。  しかし、そんなあたたかい感慨は、中に深く突き入れられたぬるつく指のせいで、瞬く間に消し飛んだ。 「ぁ・あっ…!」  声を止めることができない。下肢が勝手に震え、腰が浮き上がる。  飲み込んだ指を浅ましいほどにきつく締め付ける自らの反応が、疾うに限度を超えている羞恥を更に煽ってくる。  圭は堪えきれず顔を背け、シーツを握りしめた。  やがてようやく指が抜かれる。ひやりとした外気がそこへ触れる。そんなところを晒しているのかと思うと、今すぐにうずくまりたくなる。  見上げると、ぼやけた視界に秋吉が映った。眼鏡がない上にうっすらと涙が張った視界では、表情はよくわからない。ただ衝き動かされるように口が開いた。 「はやく……っ」  秋吉の肩が一瞬、ぴくりと強張った気がした。次の瞬間、熱い体温が重なり、ぎゅっと抱き締められる。 「お願いだから、あんまり煽らないで」  低く押し殺したような声。意味がわからなかったが、少しだけ羞恥を癒された気がした。そっと、その背に腕を回す。  やがて秋吉が、少しだけ身体を離した。まっすぐな瞳が見える距離。 「…無理だって思ったら、ちゃんと言ってください」  硬い声で、しかし静かに言われ、圭の胸にじんと熱が滲んだ。こくり、と頷き、圭は深く息を吸い込んだ。  ぬるついた熱が触れた。  指とはまったく違う質量に、意思とは関係なく身体が竦む。腰が逃げを打とうとするのを、シーツを握り込みながら懸命に堪える。 「……!」  ゆっくりと。  慎重すぎるほどの速度で、秋吉が圭の中に入ってくる。  思っていた以上の圧迫感。喉が仰のく。押し広げられる感覚に、うまく息が吸えなくなる。額に汗が滲む。 「ッは、……」  シーツをきつく握る指先が白んだ。肩に力が入り、喉がひくりと震える。 「先生、痛い? 止めましょうか」  揺れる秋吉の声に、は、と瞳を開いた。見上げると、不安そうな秋吉の表情が圭を見下ろしていた。  圧迫感に耐えながら、圭は小さく口端を綻ばせた。  秋吉は、どこまでも優しい。いつだって秋吉は、圭のことを最優先に、圭のために圭が喜ぶことを考えてくれた。 「かまわない」  喉の奥から無理やり絞り出したような声だったが、本心だった。  秋吉の眉尻がかすかに下がった。 「力、抜いてください」  そう言いながら、秋吉はシーツを握る圭の手に触れた。指を一本一本ほどくようにしてシーツを離させる。そうして開かせた手を、自分の手で優しく握った。  あたたかい掌に包まれ、強張っていた力が少しずつ抜けていく。きゅ、と、秋吉の手を握り返す。 「俺のほう、見てて」  低く、けれど優しい囁き。  促されるままに視線を上げ、秋吉を見つめた。自分を見つめ返すその瞳の、あまりにも真剣な愛おしさに、ふと胸の奥が熱くなる。  ――ほしい。もっと。  義務感とは違う、もっと深いところからせり上がってくる想い。  再び、秋吉の熱が内部へ進み始める。圧迫感は去らない。身体の内側を侵食されていく、得体の知れない初めての感覚。――快感には程遠い。でも。  ぎゅっと手を握る。じっと見つめる。奥に奥に、秋吉が沈んでいく。圭の中に、秋吉が満ちていく。 「……全部、入りました」  ようやく動きが止まって、秋吉が穏やかに笑った。  深く息を吐く。秋吉の笑みが滲む。  胸の奥いっぱいに、甘やかな充実感が満ち溢れていた。秋吉のすべてを身体の内側に受け入れた幸福感。深い安堵と、眩しいほどの歓び。――何もかもがないまぜになって、圭の瞳から溢れ落ちる。  ただ「恋人」として必要なステップだと認識していた。セックスをすること。性器を挿入させ、射精させること。それは圭にとって、達成するべきタスクのひとつだった。  ――でも。 「そうじゃ、ない、のか」  ぽつ、と思考が声として漏れた。  秋吉が止まる。まっすぐに、視線が絡む。滲む視界に、秋吉の目が問うように自分を見下ろしているのが見えた。  片方の手を伸ばし、秋吉の頬に触れる。 「……満たされる、というのは、こういうことなんだな」  声が震えた。目尻から涙が落ちる。 「秋吉と、ひとつになれて、うれしい」  秋吉が無言のまま目を見開いた。つながった箇所の熱が増した気がして、え、と、圭の瞳が揺れる。  目の前に、秋吉の顔が近付いてくる。唇が重なる。 「先生のこと、大切にします。ずっと」  重なる口中に響いた声はかすかに震えていた。うん、と頷いた動きは、秋吉に見えただろうか。  やがて、つないだ手がゆっくりと離れた。圭の視線の先で、秋吉の表情はどこまでも真摯だった。 「――動きますね」  小さく頷きを返し、息を殺す。身体の反応を制御できるだろうか、と過ぎった問いは、秋吉の腰が小さく動いたわずか一往復で吹き飛んだ。 「ぁ、っ」  もう駄目だった。ゆる、と腰が動くたび、びくりと背筋が跳ねる。噛み殺そうとする間もなく声が漏れる。 「ゃ・あ、っ…ッ、ん、っ、――!」  待て、と言おうとして、危うく片手で口を覆う。そんなことを口走ったら、秋吉は本当に待つ。圭も一応男性として、それがどれほどきついかはわかるつもりだった。  しかし。 「っあ…っ、あァっ――っん、や…っ、んン、っ…!」  だんだん早く、深くなる律動に、声を堪えようとする理性すら追い付かない。こんな声を聞かせたくないのに、と惑乱する思考すら、秋吉の熱に揺さぶられてぐちゃぐちゃになる。 「――あ、ッ!」  不意に、脚の裏に秋吉の手が差し込まれる。ぐいと持ち上げられて、身体がさらに深く開かされた。羞恥する間もなく、また深く抉られ、圭の背筋が弓なりに撓る。 「せ、んせ……ッ」  秋吉の声が、耳朶に触れる。  黒い、ひたむきな瞳が、圭をまっすぐ見下ろしている。律動のたび、秋吉の額から落ちた汗が散る。  喘ぎながら、圭の唇が小さく戦慄いた。 「ぁ、…ゅ……っ」  荒い息遣い。零れる喘ぎ。その中に、いつも心の奥で響いていた音が混じる。 「…ゆう、……っ」  快感に溺れながら、圭の意識は朧げに揺らいでいた。いけない、と理性の片隅で思う。でも、もう止められない。 「……ゆうや、っ……」  秋吉の動きが、ぴたりと止まった。 「先生?」  困惑した声音。なぜ止まったのか、圭にはもうわからなかった。つながった部分が疼いて、無意識に腰を揺らしてしまう。  シーツから離れた手が、もがくように秋吉の肩へ縋り付いた。 「ゆうや……っ」  ちいさな、ちいさな一言。しかし、はっきりと、確かな声で。――言ってしまった。いつも心の中でだけ呼んでいた、本当の名前を。  滲んだ視界に、秋吉が大きく瞳を見開くのが見えた。まるで何かに打たれたような表情で、圭を見つめている。  その瞳に、みるみる涙が溢れていく。 「……っ」  秋吉の喉が、音もなく上下した。唇が何度も開きかけては閉じる。 「ごめん」  ようやく絞り出された声は、震えていた。 「ごめん、俺……ずっと、先生って……」  言葉が途切れる。秋吉の手が、圭の頬にそっと触れた。その指先も震えている。 「圭」  自分の名前。  長い間、誰からも呼ばれることのなかった、自分だけの音。  圭の胸が、大きく震えた。目の奥が熱くなって、視界がさらに滲む。 「圭、っ……」  もう一度。今度は愛おしそうに、秋吉が繰り返した。そして圭の手をそっと取り、指先に小さく口付ける。 「動くよ。圭」  その声がひどく近く、甘く響いた気がした。  しかし、その意味を考える余裕などもうどこにもなかった。  再び開始した律動に、また全身が跳ね、呼吸が上擦る。 「圭、…ッ――!」  名を呼ばれるたび、蕩けるような声が唇から溢れ、零れ落ちていく。 「あッ、あ・ああっ……!」  霞む視界の中、自分の性器が震えながら雫を散らしているのが見えたが、それよりも、身体の最奥を突き上げてくる秋吉の熱にすべてが押し流される。  ――何も、考えられない。  秋吉の動きがさらに深く、速くなった。  刹那、視界が白く弾け、全身が跳ねた。 「――ッ、……!」  秋吉が呻いたその瞬間、圭も一緒に達していた。  奥で拡がる熱を錯覚する。ゴム越しなのに、まるで、悠也のすべてを受け止めたかのような、満ち足りた感覚。  圭の腹の上にも、熱が迸っていた。  荒い呼吸のまま、圭の腕は夢中で悠也をきつく抱き締める。鼓動の速さも体温の高さも、どちらのものか区別できない。だが、その混じり合う感覚が、今はただひたすらに心地よかった。  やがて、溶け合った熱の中に、じんわりと静けさが降りてくる。  弾んでいた二人の呼吸がゆっくりと凪いでいく。  ふと、悠也が圭の頭を慈しむように撫でた。そして、額に贈られる柔らかなキス。圭は恍惚と瞳を閉じる。 「……俺、ここにいるから。もう離さないから」  穏やかに囁く声が、鼓膜を優しく震わせる。汗で濡れた前髪の隙間から、ひたむきな黒い瞳が、ただ真っ直ぐに圭を見つめている。 「圭も、もう離れないで」  じん、と胸の奥に込み上げる熱。目の奥も熱くなる。  言葉にはならなかった。圭はかすかに、しかしはっきりとうなずいた。  悠也の瞳が潤んだような気がした。圭の視界は疾うに滲んでいるので、はっきりとは見えなかったけれど。  ――「わたしは、人を、愛せない」  長年、圭を縛り付けてきた氷の枷が、跡形もなく溶けていく。縋り付いた指に、手に、きつく力を込めて抱き締める。熱い腕が、身体が、同じ力を込めて抱き包んでくれる。  悠也の腕の中で、圭は生まれて初めて、心からの安らぎの中で意識を手放した。

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