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第1話 晩春のこと1
「殿下、こちらに」
「殿下」と呼ばれてキョロキョロと周りを見回した。すると、もう一度「殿下」と声をかけられてハッとする。いまのは僕に対する言葉だ。慌てて斜め前を見ると「殿下」と呼んだ男の人がこっちを見ていた。頭のてっぺんにある犬っぽい耳が不機嫌そうにピクピクと動いている。
「あまりあちこち見回したりされませんように」
犬耳の人は困ったような、それでいて呆れたような顔をしていた。「やってしまった」と反省しながら小走りで近づくと、犬耳の人の眉毛がググッと険しくなる。
「ごめんなさい」
小声で謝ったけれど犬耳の人は何も言わずに部屋に入った。ぼくも慌てて後をついていく。
(殿下なんて呼ばれたことないから、自分のことだってわかんないんだよなぁ)
それに見たことがない獣人の国の建物や置物が珍しくて、ついキョロキョロしてしまった。そもそもお城なんてものを見ること自体が二回目だ。初めてのお城では部屋から出るなと言われて何も見られなかったから、どうしてもあちこち目が向いてしまう。
(獣人のお城って、やっぱりおとーさんのお城と違うんだな)
ここは獣人の国の王様が住むお城で、ぼくは王様の花嫁になるためにやって来た。話を聞いたのは十日前で、そのとき初めて自分が王子様だということを知った。王族の証である紫色の目をしていたから「王族の誰かの子どもなんだろうなぁ」とは思っていたけど、まさか王様がおとーさんだったなんて思わなかった。「ほぇぇ」と呆けたぼくに、王様の隣にいた偉い人が眉間に皺を寄せていたのを思い出す。
(だって、あんなこと言われたら誰だって驚くでしょ)
しかも王子様とわかったときにはお嫁に行く話まで決まっていた。
(獣人の王様の花嫁かぁ……ぼくなんかに務まるかなぁ)
本当は少しだけ嘘なんじゃないかと思っていた。でも本当だった。しかもこれから旦那様になる王様に会うのだという。
(ぼく、王子様っぽくできるかな)
着慣れない服にもぞもぞしていると、突然「シャランシャラン」と鈴の音が鳴り響いた。驚いているぼくに、犬耳の人が小声で「|跪《ひざまず》いてください」と言う。「え?」と犬耳の人を見たら床にぺたりと座っていた。
(跪くって、ここで?)
思わず足元を見た。床はピカピカでとても綺麗だ。それでもためらったのは、床に座るなんて普通はしないからだ。
ぼくが生まれた国では寝るときとお風呂のとき以外は大抵靴を履いている。家の中も外も同じ靴で、だから室内でも床に座るなんてことは子どもくらいしかしない。
(ここでは外と中で履く靴が違うっぽいから、羊のフンなんて落ちてたりしないんだろうけど)
お城に入るときに靴を脱ぐように言われた。驚きはしたけど、そういう国なんだと思っておとなしく脱いだ。お城の中ですれ違った人たちはみんな見たことがない靴を履いていたから、きっと外履き用と部屋用があるんだろう。
(知ってたらぼくも用意したのに)
そう思いながら素足のままの自分の足を見る。
(もしかして、もらった本に書いてあったのかな)
王子様だとわかった日、偉い人が本を何冊もくれた。そのとき本で獣人や獣人の国のことを勉強しろとも言われた。
(勉強しろって言われてもなぁ)
文字を読むことはできる。でも、学問所にすら通ってなかったぼくに本をスラスラ読むのは難しい。おかげで獣人の国に到着するまでに一冊も読み終わらなかった。
「跪いてください」
少し怖い声でそう言われて慌てて床に座った。
(跪くってどうやるんだろう)
たぶん座るだけじゃないはず。それはなんとなくわかった。
(おとーさんのところでは片方の膝を床につけていたっけ)
でも、犬耳の人はぺたりと座っている。そこからして全然違う。わからないなら聞くしかない。「また叱られるかな」と思いつつ、犬耳の人に小声で話しかけた。
「あの、跪くってどうすればいいですか?」
犬耳の人が驚いたような顔で振り返った。目を見開いていたかと思えば、すぐに眉間に皺を寄せた怖い顔に変わる。
(やっぱり怒らせちゃったか)
頭を下げながら、「こんなぼくが花嫁で本当にごめんなさい」と心の中で謝る。
「正座です」
「正座?」
「こうして座り、床に額をつけるように頭を下げるのです」
なるほど、これが獣人の国の跪くってやつか。正座は初めてするけれどできなくはない。なんとか足を折り曲げたところで、犬耳の人が「早く」と急かすように小声で言った。
ぼくは慌てて床に額をつけた。これでいいのか犬耳の人を見たかったけど、自分の黒髪が邪魔でよく見えない。周りを見るのを諦める代わりに指先で床をスルスルと撫でてみた。
(ひんやりして気持ちいいかも)
ピカピカに磨かれた床は思っていたより冷たい。ツルツルしているし寝転がったら気持ちがよさそうだ。そんなことを考えていたら扉が開く音と人が歩く音が聞こえてきた。すぐに椅子に座るような音が聞こえてくる。きっと王様が座ったんだろう。
「おまえがアカリか」
「はい」
名前を呼ばれたぼくは、すぐに顔を上げた。跪いているところより一段高い場所に椅子があり、そこに体の大きな人が座っている。
(うわぁ……金色のたてがみだ)
思わず声を上げそうになり、慌てて口を閉じた。それでもぼくの目は黄金のたてがみから離れなかった。
たてがみのように見えたのはフワフワした金髪だった。金髪のてっぺんにはピンと立った耳があり、その耳も金色の毛に覆われている。こんなにキラキラした髪の毛を見たのは初めてだ。それにフワフワしていて触ったらとても気持ちよさそうに見える。
(目もキラキラしてる)
まるで蜂蜜のような色だ。僕の黒目と違ってキラキラ光る目はとてもかっこいい。
(ふわぁ、かっこいいなぁ)
そんなことを思いながら見惚れていると、「殿下」という怖い声がしてハッとした。
「上げてよいと言われるまで顔を上げてはなりません」
「ご、ごめんなさい」
犬耳の人に叱られて慌てて頭を下げた。きっとこのあと散々叱られるに違いない。おとーさんのお城に行ったときも偉い人にたくさん叱られたことを思い出した。
(やっぱり学がないといろいろ駄目だなぁ)
それに平民だから、こういうときの作法とやらもまったくわからなかった。反省しながら、もう一度床にぴたりと額をつける。
「予定どおり、あの部屋に入れておけ」
「承知いたしました」
王様の声はとても低くて怖かった。思わず「ひっ」と体をすくめたぼくは、これ以上叱られないように冷たい床にぎゅうぎゅうと額を押しつけた。
こうして人の国から花嫁としてやって来たぼくと獣人の国の王様の初顔合わせは、ぼくの小さな失敗があったもののなんとか無事に終えることができた。
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