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第一章 視ヲ奪フ

 部屋の空気が、じっとりと重く、湿気を帯びている。  墨の匂い。──けれど、それは薫が覚えている墨ではない。  それは、もっと“深い”。死の底で擦れたような、冷たく乾いた筆の音が耳にまとわりついて離れない。 「……この気配、消えてないわ。まだ“この部屋”に残ってる……!」  薫は白菊を抱えるようにして、素早く室内を見渡す。机の隅、窓際の障子、床に落ちた半紙。どこかに“出入り口”がある──“やつ”が通ってきた、異界と繋がる「綴り口」が。  白菊は薫の胸元に顔を埋めたまま、ぽつりと呟いた。 「……僕ね、少し……見えた気がした。あの“手”が伸びる前……誰かが、“僕の名前”を書こうとしてたのが、わかった……気がするんだ」  薫の瞳が大きく見開かれる。 「……やっぱり……!」  “筆をとる怪異”──名前を書くことで、その人物の魂や記憶、存在そのものを“墨で塗り潰して”奪う異形の存在。  けれど白菊は、あの瞬間、確かにそれを感じ取ったと言った。  ──本来なら、見えないはずの彼が。  そのとき。  カツリ。  背後で、机の上の半紙が音もなく揺れた。  空気が、墨のようににじみ、揺れ、床が歪んでいく。  “綴り口”が、開いた。   「っ、来るわよ!! 絶対に、あたしの声を聞き逃さないで!!」  薫の叫びとともに、床の上に滲むように広がる“書の世界”。  宙に浮かぶ無数の文字。意味をなさない古代文様のようなそれらが、ぐるぐると渦を巻きながら、白菊へと伸びていく。  その中心に、“顔のない男”が立っていた。  墨のように黒く塗られた全身。筆を握った右手と、白紙の帳面を掲げた左手。  カリ……カリ……と乾いた音を立てながら、その“顔なき男”は筆を動かしていた。  ──白菊の、名を。   「白菊!! ダメッ、目を──閉じ──」  言いかけた薫の声が、凍った。  白菊が、目を開けたのだ。    金色の、深淵のような光を湛えた瞳で、真っ直ぐに“怪異”を見据えていた。  その瞬間、空間がビキリと軋むようにひび割れた。  筆を握る怪異の手が震える。文字が滲み、崩れ、紙が焼け焦げるように歪む。  ──“視られた”のだ。  本来、視られることなどない存在が、“白菊に視られた”。   「君が……僕の名前を、書いた?」  白菊の声は、普段の柔らかいものではなかった。  静かで、深く、冷たい。だが、怒りや恐怖ではなく、まるで“書物の真実”を読み上げるかのような淡々とした響きだった。 「──僕の名前は、君の筆には届かないよ」  その言葉と共に、金色の瞳が一瞬、強く輝いた。    バリィンッ──!  音もなく、空間が裂けるように“綴り口”が閉じる。  怪異の姿は消え、床の半紙は灰となって舞った。  静寂が、戻る。   「……しらぎく……?」  膝をついたまま、薫が白菊を見上げる。  金の瞳はもう消えていた。いつもの、優しくておっとりとした、灰銀の瞳に戻っている。 「……あれ、薫ちゃん。どうしたの……?」  白菊は首を傾げた。 「……え、また……何か出てた? 僕、寝てた……?」 「………………」  薫は答えなかった。いや、答えられなかった。  身体が、まだ震えていた。  ──さっきの白菊の声。あの目。あれは、間違いなく“力”だった。  そして、その“力”が自分では止められなかったことが、何よりも恐ろしかった。    薫は震える手で、白菊の頬に触れた。 「……あんたは、ほんっとに……あたしの手を焼く男よ……!」  額をくっつけるようにして、そっと抱きしめる。  自分でも気づかないくらい、薫の指が、小さく震えていた。

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