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第二章 神籬(ひもろぎ)の巫
山間にひっそりと佇む、古びた神社。
参道は苔に覆われ、鳥居の朱は風雨にさらされ褪せている。けれど、その静寂のなかに、どこか張りつめた空気が漂っていた。
まるで、“人の世界”とは異なる結界に踏み入ったような、そんな感覚。
「……久しぶりだわ、この空気……」
楠木薫は、小さく息をついた。
白い日傘を畳み、長い髪を風に遊ばせながら、視線をまっすぐに石段の上へ向ける。
その隣には、少し落ち着かない様子の白菊がいた。
「……なんだか、空気が濃いっていうか……ひんやりするね。ここ、本当に……?」
「“あたしの巣”よ。実家。ま、ご挨拶はあんたにしちゃあ、ちょっと手厳しいかもだけど……」
薫はくすっと笑った。けれどその笑みに、ほんのわずかに緊張がにじんでいることに、白菊は気づいていた。
社殿の裏手にある、奥の祠。その扉の前で、薫はふと立ち止まる。
「……開ける前に、ひとつ言っとくわ。ここの主──うちの祖母は、あたしなんかよりずっと霊力が強い。神通力とか、呪い返しとか、あんたが思ってるような“優しいお婆ちゃん”じゃないわよ?」
「……薫ちゃんの、おばあちゃん……」
「そう。楠木 弓月《くすのき ゆづき》。“神籬の巫”と呼ばれた女。──あたしにとっては、ろくでもない教育係でもあるけどね」
薫が扉に手をかける。
ギィ、と軋む音と共に、扉の奥から現れたのは──
白髪をきっちりと結い上げ、純白の狩衣を纏った、背筋の伸びた老婆だった。
その瞳は、年齢を感じさせない鋭さを湛えている。
「──遅かったな、薫」
「……察しが早いのは相変わらずね、婆様」
弓月の視線が、薫の隣に立つ白菊へと移る。
「その者か。“視えてはならぬもの”を視た男は」
白菊が少し身を引く。だが、彼の眼差しには怯えではなく、どこか真っ直ぐな誠実さが宿っていた。
「……僕は、京極堂白菊といいます。薫ちゃんに助けられて……それで……」
「名乗るな」
弓月の声音が、鋭く空気を裂いた。
「名は力。“あやかし”に喰われかけた者の名など、呼ぶだけで穢れる。──黙って、此処に座れ」
そう言って、社の中心に置かれた白い敷布を指差す。
白菊は戸惑いながらも、薫にうながされて膝をついた。
弓月はその前に立ち、ゆっくりと印を結ぶ。風が一瞬止まり、木々がざわめきをやめる。
「“開眼”した者の中に、封じられていたものを視る。──薫。あんたもここに座りなさい。血族の器が必要になる」
「……はいはい。ったく、言い方がいちいち怖いんだから……」
静寂の中で、弓月が唱え始めた呪《しゅ》の言葉。
それは古代神語ともつかぬ、音の連なり。
白菊の頭上に、柔らかな灯が灯る。
そして──
――現れた。
白菊の背後に、まるで“もう一人の彼”が立っていた。
白菊に似た姿。けれどその瞳は鋭く、冷たく、神域のような静謐を纏っている。
「……これが……彼の中にいる……?」
薫が息を呑む。
弓月が、低く言った。
「“記録者《レコーダー》”だよ。かつて神に仕え、すべての“真実”を記し続けた異端の巫。その欠片が、今、この子の中で眠っていた……」
「真実を、記す……」
「彼が開眼したとき、“あやかし”に書かれるのではなく、“あやかし”を“読み取った”のさ。
……つまりこの子は、“見る”のではない。“読んでしまう”の。世界の裏を」
薫は思わず、白菊を見つめる。
「……白菊、あんた……」
「……僕、知らなかった。……でも、薫ちゃんがいてくれて、よかった……」
そのとき、弓月がぐっと白菊の手を握った。
「しかし“記録者”は、制御を誤れば、“書き直し”を起こす。現実の改竄──神の領域を侵す危険な力だ。……お前たちは、それを覚悟して進むのか?」
薫は目を細め、白菊の手を取った。
その手は、震えていた。だが、迷いはなかった。
「──覚悟なら、とっくにできてるわ。あたしが白菊を守る。何が起きても、絶対に白菊を“書き換え”させたりしない」
社の風鈴が、涼やかな音を鳴らした。
弓月は、ふっと笑った。
「……ならばよい。“神籬の血”の継承者として、その覚悟、しかと見届けよう」
こうして二人は、“記録者”と“巫女”としての因縁に向き合いながら、
再び“書く怪異”の謎に挑むことになる。
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