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第三章 名前を呑む墨

夜、神社の境内。  石灯籠にともされた火が、ゆらりと揺れていた。  白菊は本殿の前で、ひとり静かに腰を下ろしていた。  開眼以来、彼の身体には不思議な“共鳴”が残っている。視界の隅に、文字のような何かがちらつく。音のない声が、紙の裏から響いてくるような感覚。  ──僕の中には、何かがいる。  そう気づいたとき、背中に羽織った外套の匂いが鼻をかすめた。薫の香水だ。いつもと同じ、落ち着く匂い。 「……なに、黄昏てんのよ、あんた」  振り向けば、そこにいたのは、夜風に髪を揺らす薫だった。  白いカーディガンに、藍色のスカート。けれどその顔は、いつものどこか気の強い“薫”ではない。  少しだけ、沈んだ目をしていた。    薫は白菊の隣に腰を下ろす。 「……あたしさ、今だから言うけど。……昔、同じような怪異に遭ったことがあるのよ」  白菊が息を呑む。薫は夜空を見上げながら、ぽつりぽつりと語り始めた。   「──あれは、あたしが十歳の時。ちょうど夏の終わりで……母親が、突然姿を消したのよ。ある朝、社務所に行ったら、母がいた部屋が真っ黒な“墨”で満たされてて。そこに残ってたのは、半紙に書かれた“文字”だけだった」  薫の指が震えていた。  彼の瞳には、遠い記憶が揺らいでいた。 「その半紙にはね、“薫”って、墨で、でっかく、にじんだ字で書かれてたのよ。──名前だけ。あたしの名前だけが、そこに残ってた」  白菊の胸が、きゅうっと痛んだ。 「それからよ、あたしが“視える”ようになったのは。──多分ね、母があたしに“何か”を残して消えたんだと思うの。……自分を捧げてでも、あたしを守るために、“名を喰う怪異”と契約して……」  白菊はそっと、薫の手を握った。  その手は、氷のように冷たかった。 「薫ちゃん……」 「今回の怪異。“書いて呑む”っていうあの手口……どう考えても、同じ系統なの。あたし、ずっと“記録者”って言葉が引っかかってた。でも……今、確信したわ」    薫の瞳が、白菊を見据える。  その色は、揺れる炎のようだった。 「“記録者”は、かつてうちの神社に封印されてた怪異よ。──名前と存在を記し、永遠に書き留める“文字の巫”。……でも、それが暴走したとき、人間の名前を“喰い始めた”の」 「……薫ちゃんのお母さんは……その怪異に、“名前を捧げた”……?」 「ええ。自分の名前を怪異に書かせて、代償に“あたしの存在”を保った。……そして、今また、それがあんたに目をつけたってことは──」 「僕の中に、その怪異の核が……?」    そのとき、社の奥から、鳥居の鈴が勝手に揺れた。  風もないのに──不自然な音。  薫は立ち上がった。  夜空が、黒い墨を垂らしたように、ゆっくりと滲み始めていた。  ──来る。  墨が、空から染み出すように、文字となって境内に落ちてくる。  鳥居の額の上に、にじむように一文字。  「薫」    薫の肩がびくりと跳ねた。 「……やっぱり……あたしの名前も……“まだ食われてない”わけじゃなかったのね……!」    白菊が立ち上がり、薫の前に立つ。 「今度は、僕が守る番だよ、薫ちゃん」 「……あんた、あたしのこと……」 「大事だよ。ずっと、昔から。……僕、気づいてたよ。薫ちゃんが、いつも僕のそばにいてくれたこと」  薫の唇が、震えた。  言葉が、出ない。  けれどその瞬間、地面が砕けるように黒い墨の波が広がり、  白菊の背中に、“何か”が入り込んだ。  金の瞳が、再び開く。  白菊の口が、静かに動いた。 「──“記録者”、この場に顕現す。名なき者に、記述の権を赦さず──」    境内に、墨と光の陣が浮かび上がる。  過去に葬られた“母の喪失”、封じられた“名を喰う怪異”。  今、その全てが、ふたりの前に再び姿を現す――

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