6 / 8

第四章 記録者、名前を返せ

 墨の渦が、境内を飲み込むように広がっていた。  空は暗黒に染まり、音という音がすべて吸い込まれていくような静寂。  紙のように空間がめくれ、言葉にならない文字が空間を漂っている。    薫は、白菊の背に手を伸ばそうとして、息を飲んだ。  ──白菊じゃない。  そこに立っているのは、“白菊の中にいたもの”だった。  金の瞳が、墨の渦を見据えている。   「記録はされ、記録は歪められた。──“名前を喰うもの”よ。汝の書は禁を越えた」  声が響く。  白菊の口から発せられているのに、それはまるで神託のようだった。    そして、現れた。  墨の中から、ぬるりと這い出すように、一冊の巨大な書物。  まるで何千何万もの名前を喰らい、膨れ上がった異形。  表紙は皮膚のようにざらつき、ページの一枚一枚が“人間の名”で出来ている。    その書物の中央に、にじんでいた一文字があった。  ──「弓」    薫の瞳が、見開かれる。  「弓月」──母の名の一文字。   「……あたしの……母の名前……まだ、喰われたままってこと……?」    そのとき、白菊の身体が、ふらりと揺れた。  記録者の力が暴走し始めているのだ。  “名前”の持つ霊的重みが、白菊という器に負担をかけている。    薫は迷わず、白菊の肩を抱き寄せた。 「もういい!無理しなくていいのよ! アンタの名前まで書かれたら──!」    だが、白菊は静かに首を振った。 「……僕は、記録者の声を“聞ける”。……でも、相手の名前を知るには──代償が必要なんだ」 「代償……?」   「“僕の記憶”だよ」    薫の心臓が、冷たくなる。   「この怪異に、“薫ちゃんのお母さんの本当の名前”を記録させる代わりに、僕の中から──“薫ちゃんの記憶”を消す。それが交換条件らしい」    世界が、止まったように感じた。  薫は、首を横に振る。 「冗談じゃない……ッ!あたしの記憶なんて、そんな、勝手に差し出すんじゃ──!」 「でも、それで薫ちゃんの“お母さんの魂”が戻るなら──」 「戻ってもあんたがいないなら、何の意味もないのよ!!」    叫んだ薫の瞳に、涙がにじんでいた。  ずっと、言えなかった想いが、胸を突いて零れる。   「……あんたに、助けられたのは、こっちなの。中学の時からずっと……あたし、あんたのこと、好きだったのよ……!」    静まり返る空間。  白菊は、ゆっくりと目を見開く。  けれど──その瞳は、すでに金色に染まりきっていた。   「……記録、開始──“楠木 弓月”、返還する──」  墨の怪異が、もがくように書物の中でうねる。  白菊の中にある“記録者”の力が、怪異の書を“上書き”しているのだ。    ページが一枚、音を立てて開かれる。  次の瞬間──    墨の渦が爆ぜ、薫の身体を包んだ。    視界が、真っ白になる。      ──そして、戻ってきたのは。   「……薫ちゃん?」    白菊が、薫の名を呼んだ。  けれど、その瞳は灰銀に戻っていた。   「……誰、だっけ。……初めまして?」    薫の頬を、涙が伝った。  白菊の瞳に、自分が映っていないことが、こんなにも痛いなんて。    だがその指先は、確かに薫の手を握っていた。 「……なんとなく……君を、知ってる気がするんだ。あったかいっていうか、ほっとするっていうか……」   「……あんたって子は、ほんっとに……最っ悪に、優しいんだから」    薫は、微笑みながら泣いた。  白菊の中から、薫の記憶は消えた。  けれど、“薫を想う気持ち”だけが、名もなきまま、彼の心に残っていた。

ともだちにシェアしよう!