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第五章 君が呼ぶ名を、まだ知らない

季節が、少しだけ巡っていた。  薫の母、楠木弓月の魂は、怪異の書から解放されたあと、静かにこの世を去った。  彼女は最後に、こう残していた。 「──あの子を守ってくれて、ありがとう。今度こそ、“名前”ではなく“想い”で、結ばれて……」    それから、白菊は記憶を失ったまま、再び自宅へと戻った。  だが──    「……今日も、また来てくれたんだ」    玄関先に現れた薫に、白菊は柔らかく微笑んだ。  その微笑みは、まるで何もかもを覚えているかのようで、けれど彼はもう、“薫”という名前も、“過ごした日々”も知らない。    「……あたしが来ないと、あんた倒れそうでしょ。ほら、部屋ぐちゃぐちゃ」  「えへへ……お見通し」    白菊の部屋のテーブルには、紅茶と、少し崩れたケーキ。  どちらも、以前薫が好んで淹れていたものと、まったく同じ。  本人はそれを知らないのに、なぜか“同じもの”を選んでしまう。    「──不思議なんだよ。最近、夢を見るんだ。誰かと、怪異に立ち向かってる夢」  「その“誰か”は、女装した美人で、口が悪くて、でも超イイ女でしょ?」  「……うん! びっくりするくらいピッタリ!」    二人は笑った。  白菊の中に、確かに“薫”は残っている。  名前ではなく、“想い”として。    「……今日はね、持ってきたものがあるのよ」  そう言って薫が差し出したのは、少し古びた手帳だった。  中には、薫が“事件の記録”として残してきた怪異のスケッチと、ふたりの写真。  そこにはこう書かれていた。    『白菊へ。あなたの記憶が戻らなくても、あたしはあなたの隣にいる。   名前を思い出さなくても、何度だって名乗る。   好きって言われなくても、何度でも想う。』    白菊はページを、そっとなぞる。    そして、静かに言った。    「……ごめんね。君の名前、まだ思い出せないや……でも──」    白菊は、柔らかく笑った。    「君のことを、“すごく大切にしたい”って気持ちだけは、すごく、わかる」    その瞬間、薫の目に涙が浮かんだ。    ──たとえ記憶がなくても、  想いが残るなら、それは“名前より確かなもの”になる。    薫は笑って、頷いた。    「じゃあ、まずは……名前から、また教えてあげるわね」  「うん。教えて、君の名前」    「楠木薫よ。“あたしの大事な人”にだけ、教える名前」    二人の間に、夏の風が吹いた。  記憶を失っても、運命は何度でもふたりを引き寄せる。  ──“名を記す者”と、“名を守る者”。  彼らの物語は、ここからまた始まる。

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