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第六章 終章・記憶の指で書き直す

 その夜、空はまるで最初の頁のように静かで澄んでいた。  星ひとつない宵闇。  静けさに染まった神社の境内に、白菊の姿があった。    手には、一冊の白紙の帳面。  あの“書く怪異”から解放された、唯一残された“清めの書”。  本来ならば封印されるはずだったそれを、薫がこっそり白菊に預けたのだった。    「──君のことを思うたびに、何かが胸の奥で揺れるんだ。   でも、どんなに思い出そうとしても、名前だけが、どうしても……」    白菊はそっと、帳面を開いた。  風がぺらりとページをめくる。    墨のような夢、焦げたような記憶の欠片。  彼の中にあった“記録者”の力は、今はもう、穏やかに眠っていた。  けれど──ひとつだけ、彼の中に“残っている”ものがあった。    ──指先の感触。  ──唇に残るあの人の言葉。  ──何より、名を呼ばれるたび、胸に灯るこの想い。    「……あの人の名前を、僕の手で書きたい」    白菊は、墨を磨き始めた。  慣れない筆を、そっと手にとる。    「記録するんじゃない。“思い出す”ために」    ゆっくりと筆を走らせる。  震える指で、一文字ずつ──心でなぞるように。      ──楠  ──木  ──薫      その瞬間だった。    風が吹いた。  どこからともなく、金木犀の香りがした。    そして、白菊の胸に、鮮明な映像が流れ込んできた。  ──口の悪いけど優しい女装の探偵。  ──中学の頃、怪異から自分を守ってくれた人。  ──いつも隣で、怖がりな自分の盾になってくれた、ただひとりの人。    「薫……ちゃん……」    言葉にした瞬間、涙が頬を伝った。  想いが、記憶を呼び起こす。  失ったはずの景色が、胸の中に戻ってくる。      ──君の名前を、思い出したよ。      そのまま、神社の境内を駆けた。  月下、鈴の音が風に鳴る中、社務所の灯りが見える。    扉を開けた先にいたのは、カーディガン姿で窓辺にもたれていた薫だった。  振り返るその顔に、驚きと期待が入り混じっていた。    「……薫ちゃん……!」    名を呼ばれた瞬間、薫の目からも、こぼれ落ちるように涙が伝った。    「──ようやく、思い出してくれたわね」    白菊は駆け寄って、彼を抱きしめた。    「何度でも、思い出すよ。たとえまた全部失っても──   君の名前は、僕の心に、何度でも書き直すから」    その言葉に、薫はそっと目を閉じた。    「……ずっと、好きだったのよ。あたし、ずっと……」    「僕も。今度は、はっきり言える。──君を、好きだよ」    二人の想いが、ようやくひとつの頁に重なる。  名を記し、想いを重ね、記憶を越えてふたりはもう一度繋がった。    “名を奪う怪異”に抗い、“名で想いをつなぐ”ことを選んだ探偵と記録者。  彼らの物語は終わらない。  今度こそ、本当の意味で、ふたりで書き始めるのだ。    ──最初の一文字から。   Fin.

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