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第1話 僕とあに様
昼下がりの蝉の音に負けないように、神輿を担ぐ男衆の猛々しい掛け声が遠く響いているのを、僕は布団の上で耳を澄まして聞いていた。
8代続く老舗の卸問屋『花村屋』、その母屋にある二階の角部屋が、現当主の末子である僕・花村永太が生かされている部屋だ。もとは母の部屋であったが、産後の肥立ちが悪く、百方手を尽くしたそうだが、僕は母との思い出を作ることができないままの別れとなってしまった。
母の命と引き換えに(と耳にたこができるほどいわれ続けた文句であるが)生まれ出たのが、肺が弱く、よく熱を出しては心配をかけることだけが得意な僕なのだから、正直家族から疎まれてしまっても仕方がないのもよくわかる。医者曰く、成長とともによくなっていくだろうという見立てではあるが、小学校へ上がって数年経つ今でも、充分に登校できないでいる。
そんな僕が母の部屋を使わせてもらっていることに一抹のうしろめたさを感じることもあり、まれにある体調が良い日でさえもこの部屋から出たのは憚り以外では数えるほど。まぁ調子がいいときでさえ、窓から道行く人を見下ろすことができるかどうかといったところだから、もしかしたら家族は僕が元気な日があることすら知らないかもしれない。――――ただ一人を除いて。
男衆の掛け声が少しずつ近付いているように感じる。今日の神輿行列に、七つも離れた義兄の聡一が出ているはずだ。
聡一は、3年前に父が再婚した相手、つまり義母の連れ子で、僕とは正反対の健康な男子である。聡一は、他の兄弟たちとは違い、僕の部屋へよく通ってくれた。今日猫を見かけて、なでようとしたら噛みつかれて手が腫れたとか、三軒隣りのガキが泥だんごを投げてきたからと追いかけまわした挙句、ぴかぴかの泥だんごの作り方を教えてきたんだとか、他愛もない外の世界を教えてくれたり、本人曰く学び舎で習ったことはさっぱりわからんと言いながらも、優秀な成績をおさめているとお手伝いさんが話しているのを聞いたり、通っている剣術の道場では負けなしと、絵に描いたようないい男なのである。
そんな聡一は、僕の中で父より羨望の対象で、僕の世界であった。
僕は天井を見上げながら昨晩のことを思い出していた。僕の咳がひどいから近付いてはいけないと言われていたはずなのに、聡一は僕の部屋にやってきて、
「おい、明日は神輿を担ぐが、見れそうか」
廊下から襖越しに、小声で言ってくる。僕は返事の代わりに大きく咳をした。
「やはりなぁ……なら、仕方ないなぁ? 仕方ない仕方ない」
聡一が悪戯っぽく笑う声がする。あまり普段は聞かない笑い方に、僕は襖のほうに目を向けた。すぱんっと軽い音を立てて、襖が開く。その拍子で部屋の角にある行燈が少し揺れ、照らしだされた聡一の姿に、僕は目を見開いた。五分刈りの頭にねじり鉢巻きを締め、開いた法被の間から道場で鍛えた健康的な胸と腹が見え、白いふんどし姿の聡一の姿に、僕は思わず唾を飲み込んだ。弱った肺が、少し締め付けられるようだった。
「晴れ姿じゃ! 一番乗りで見せてやろうとおもってな」
聡一がはしゃいで言う。僕は高揚を抑えるように、こくこくと頷いた。
「明日は、お前にも聞こえるように、大きい声だすからな。お前も早ぅ元気になれよ」
聡一がいつもの調子に戻って、そっと部屋に入ってきた。僕の額や頬に優しく触れてくる。
「まだ少し熱いか……」
僕は、布団から手を出して枕の下を探り、たたんでしまっておいた手拭いを出した。聡一が不思議そうに手拭いを僕の手から受け取ると、手拭いを開いて中のものを見る。聡一の目が丸くなった。
「お前……」
聡一が僕のほうに目をやる。僕は少し恥ずかしくなって、微笑み返すことしかできなかった。
「一つ……借りが出来たな」
聡一がにやりと笑って、手拭いを丁寧にたたんだ。懐にしまおうとしたが法被だったためしまえない、と僕にわざとらしく肩をすくめて見せてくる。僕がくっくと笑うと、満足そうに笑って聡一は部屋を出て行った。
僕は昨晩の兄の姿を思い出して、僕はまた笑いを噛み締めた。昨日の姿の聡一が、うだるような暑さの中神輿を担いでいるのを想像し、誰よりも輝き、一所懸命に汗をかいているんだろうと思うと、少し誇らしい気持ちになる。それはつまり、そんな聡一を慕っているだろう誰かの目にも映っているということだ。
僕は少し息が苦しさを感じて、顔だけ窓のほうを見る。遠くから近づいてくる男衆の掛け声の中に、僕は聡一の声を探す。それを邪魔するかのように一条の夏風が風鈴を鳴らした。
その夜、少し肌が焼けて鼻や頬が赤く光る聡一が僕の部屋へやってきた。
「調子はどうだ?」
くずれた寝巻を直しながら、疲れたと言わんばかりに僕の隣に座りこんだ。僕は布団からゆっくりと体を起こす。それを見て聡一は、
「お、もう熱はなさそうだな」
と嬉しそうに言った。胡坐をかいて膝に肘をつき、頬杖をしながら僕を見てくる。
「あに様。あれは見れたの?」
僕は聞きたくて仕方がなかったことを早々に切り出した。しかし聡一は肩をすくめながら言ってくる。
「さすがににそんな時間はなかったよ。しばらく貸しておいてくれるか?」
「あげるよ」
僕は笑顔で返した。もともと貸したつもりもなかったので、返されても困る。聡一が頬杖をやめて、真面目な顔で言ってくる。
「馬鹿を言うんじゃない。お前にとっては形見も同然だ。受け取るわけにいかん」
「あに様だからあげたいんだよ。ほかの兄さんたちには絶対触らせないでね」
「しかしなぁ……」
聡一は困り顔で黙ってしまった。僕にとっては形見も同然という品ならば、もちろん僕と血がつながった2人の兄弟にとっても同じものである。一番母と思い出がないからと、父が僕に譲ってくれたものなのだ。それをほかの兄弟たちに知れたら、さらに反感を食うだろう。
「あに様と僕の秘密にしておけばいい」
そう伝えても聡一は渋い顔をなかなか崩さない。互いの視線が重なり、沈黙が下りる。しびれを切らした聡一が深いため息とともに、先に視線を外した。
「……わかった! この件は保留! 少なくともすぐには返さない。とりあえずそこで納得してくれ。 ……そんな顔するなって……お互いの落としどころが見つかるまでは俺が持ってるし、他の義弟……お前の兄ちゃんたちには触らせない。約束する」
僕のわがままをなだめるように、聡一がまた優しい声色で諭してくる。僕がこれにあらがえないことを知っててやってるんだから、あに様はズルいんだ。
「しばらくしたらまた勉強みてやるからな。だから今は安静にして寝ろ。あと、お前はもう少し陽に当たれ。学校に行くとき、友達と外で遊ぶときにばててしまう」
「……友達なんていないもん」
僕は聡一の言葉に少しむくれながらそう言った。そもそも学校にも行けていない、部屋からも出ていない自分にどうやって友達を作れと言うのか。聡一は腕組みしながら少し考えて、
「今の話じゃない。先の話だ。まずは体をよくすることに専念するんだ。な?」
また諭すように言ってくる。僕はまたむくれながら、布団に横になった。
わかってるよ。でも僕には、あに様がいればいいんだ。
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