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第2話 秋、それは氏神祭の季節

 あれから二度夏が過ぎ、秋。熱が出る頻度も少なくなり、まだもやしのような貧相な体ではあるが、小学校へも今のところは問題なく通えるようになった。なんとか聡一の助けもあって小学校の授業に追いつくことができたはいいが、正直小学校で勉強するより、聡一に勉強を教えてもらっていたほうがすんなり頭が受け入れるのだから、通う必要性を僕は感じていなかった。 聡一は日頃の成績のよさから、家族や教師からの強い圧力――もとい後押しがあって泣く泣く高等学校に進んだ。本人は勉強よりも早く両親の手伝いをしたいと言っていたが、義母上が押し切った。体を動かすことを性分としている本人にとっては有難迷惑甚だしいことこの上ないだろう。好きだった剣術道場も、さすがに高等学校へ進むとなると行き帰りの時間を考え、やめざるをえなかった。僕がかわいそうだと素直に口にすると、聡一は苦笑しながら、「大丈夫だ、兄ちゃんだからな。ただ、たまに愚痴を聞いてくれ」と答えた。有言実行というのかはわからないが、聡一は変わらず僕の部屋にきて、勉強を見てやると言いながら教科書を開いている僕の隣で上体起こしや腕立て伏せ、膝の屈伸運動などをしている。これが聡一なりの愚痴の吐き方なのかもしれない。  小学校へ行く道は、毎度気が重くなる。学校へ登校する道は緩やかな上り坂を行くのだが、幼少のころから布団とともに過ごす日が多かった僕には、校舎へ到着するだけで息が上がる。通い始めた最初のころなんか、下の兄である征二が行き倒れ寸前の僕を見ながらげらげら笑い、道の途中でおいていかれることもあった。それを知った聡一が征二を諭したらしいが、まぁ後から来た義兄のいうことを聞くには至らず、結局父と義母に怒られて泣きながら僕の部屋に謝罪にきた。絶対に反省はしてない謝罪であったが、僕は保身のために謝罪を受け入れた。  学校について、教室の一番後ろの席に座り、今日はどうやって時間をつぶそうかなどと考える。そういえば、そろそろ母屋の白熱灯を増やそうという話が出ていたはずだ。勉学を頑張る聡一の部屋にはもちろんつくと思うが、ほかの兄弟たちは喧嘩ばかりで前に行燈を倒してボヤ騒ぎに発展した際に白熱灯がすでに導入されている。僕の部屋にはつくのだろうか。勉強を頑張ったら白熱灯はついてくれるんだろうか。そうしたら、明るい部屋で聡一と一緒に勉強できるだろうか。いや、勉強頑張ってしまったら、聡一はもう自分の部屋に来てくれなくなってしまうだろうか。 「それは嫌だな……」 「何が?」 思わずこぼれた言葉に、反応が返ってきて体がこわばった。声のほうを向くと隣の席の女子が首を傾げてこちらを見ている。名を小田麻以子という。小田のおさげが一緒に揺れた。 「いや……べつに、独り言」 「えー? まるでかまってほしそうに言ってたじゃない」 「かまってほしいわけじゃない。本当に」 かまってほしい相手は一人だけなので。という言葉は飲み込んだ。他人に関わろうという気持ちがどうしても沸いてこない。 「ふーん? 今日は体調大丈夫なの?」 僕は関わろうとしてないのに、どうして関わってこようとする人がいるのかがわからな過ぎて、心がざわついていく。こういう気持ちになりたくないのに。 「大丈夫だよ」 「そう……」 僕はもう目を反らして机につっぷした。もう話しかけてきてほしくなかった。踏み込んできてほしくない。殻に閉じこもるように。 「悪くなったら言うんだよ」 もう僕は返答もしなかった。聡一は何をしているだろうか。心のざわつきを払拭するように、僕は遠くに思いを馳せた。今日も勉強は嫌いだと言いながら、勉強しているんだろうか。それとも、器用な人なのできちんと手を抜けるところは抜いているんだろうか。ずっと頑張って擦り切れてはしまわないだろうか。僕に聡一を守れるだけの力があればいいのに。  放課。僕はさっさと身支度を整えて帰路についた。帰りは緩やかな下り坂。心だけは上り坂。足取りも軽くなる。油断すると息が上がってしまうのが困りものだ。理一郎が通う中学校の前を通ると、すでに征二が理一郎と遊んでいる姿が見えた。それを横目に見ながら声をかけるでもなく歩いていく。  しかしながら今日の帰路は少しばかり様子が違った。帰宅途中にある神社の近くに差し掛かると、何やらいつもより騒がしい。金属をたたくカーンと何度も高い音を立てて、出店や櫓を組み上げている。そうか、もうすぐ氏神祭なのか。氏神神社の年に一回開かれる大祭りは、ここら一帯の商人たちがこぞって長い出店を並べ、大層活気のある祭りだそうだ。今まで角部屋を住処としていた自分にはほぼ縁のないものであったが、昨年は屋台で買ったものを聡一が買ってきてくれたのだ。体がよくなったら祭りにも連れて行ってくれると言っていた。聡一は氏神祭に連れていってくれるだろうか。ほかの兄弟たちも一緒になるのだろうか。それとも別の、誰か――。  ふとあの角部屋から見下ろした、着飾った男女の姿を思い出した。幸せそうに、気恥ずかしさを隠し切れないように連れ立って歩く二人の姿に、想像で聡一の姿が重なる。胸がぎゅっと締め付けられる。早く帰ろう。早く聡一に会いたい。  僕は久しぶりに走った。まだ聡一が帰る時間にはだいぶ早いが。気持ちを落ち着かせたい一心で走る。誰かが聡一の予定を知っているかもしれない。僕に話してないことを、ちがう誰かには――。そう考えて、僕は走ることができなくなった。肺がひきつるように痛い。家族でさえ、僕が知らないことを知っていることに、心がざわついている。どう考えてもあの角部屋で過ごした時間が長い自分と、5年前から食事を共にし、きちんと一緒に過ごしていた自分以外の家族とだったら、どちらがより聡一のことを知っているかと言われたら、勝ち目なんてあるわけないのに。  膝に手をついて、息を整えようとする。苦しい、苦しい。何が?肺が。心が。そうか、これが”どつぼにはまる”ということなのか。聡一に関わる全てが、僕を一喜一憂させる。その力の反動たるや、僕に受け止められるものではない。自分の貧弱さに辟易する。  大きく息を吸って、長く吐く。体を起こして僕は歩き出した。劣等感は仕方ない。いつか追い越せばいい。そのいつかは今ではない、ただそれだけのことだ。我慢して飲み込むことに関しては僕だって負けないはずだ。当日の予定がわからないなら、今は自分の体調を氏神祭に合わせて万全にしておく必要がある。逸る気持ちを抑えてゆっくりと歩き出した。  この時間は母屋に人がいないのでお店の裏手に回って、声をかける。 「ただいまかえりました」  お店の人がこちらに目をやり、口々に「おかえりなさい」と声をかけてくる。 「あの、三四(みよ)さんはいますか」  普段はすぐに引っ込む僕がまだいることと、声をかけてきたことに驚いたようだが、すぐに母屋の手伝いもしてくれている三四を呼んでくれた。三四は僕が生まれる一年前に花村屋に入った人で、年齢は知らないが、若く働き者で花村家としてもとても助かっている。僕の自室までご飯を運んできてくれたりしてくれて、正直、家族より心を許している。 「おかえりなさい永太坊ちゃん。何かありましたか?」 表のほうから三四が速足で来てくれて、心配そうに声をかけてくれた。頭からつま先までケガがないか見られる。 「けがや体調が悪いわけじゃないよ。もし知ってたら教えてほしいんだけど、今度の氏神祭、聡一兄さんは誰と行くか知ってる?」 「聡一さんですか? そういった話は聞いてないですが……。永太坊ちゃん、氏神祭へ行かれたいんですか?」 「うん。だから、聡一兄さんに連れてってもらえたら有難いから聞いたんだ」  三四はそうなんですね、とうなづいた。三四は満面の笑顔で続ける。 「確かに、永太坊ちゃんは聡一さんと一緒に氏神様へご挨拶されたほうがいいと思いますよ。聡一さん、永太坊ちゃんが早く元気になるようにってお百度参りに行かれてましたから」 「聡一兄さんが……?」  驚いて問いかけると、三四がしまったと慌て始めた。 「聡一さんには内緒でお願いしますね。ご存じなかったとは思ってなくて……」 「わかった。言わないよ」  僕は心が温かくなって母屋に走った。二階の角部屋まで軽やかにたどり着いて、感動でへたり込んだ。聡一が自分のためにお百度参りをしてくれていたという事実に、髪の毛から足先まで幸福感で満たされた。秘密にされていたという事実よりも、そこまで想われていたという事実に息が止まりそうだ。 ――ああ、早く聡一に会いたい。

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