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第3話 どうか連れていって

 聡一を待つ間、落ち着かない心のまま畳の上を転がっていると、気が付けば陽も傾いて夕餉の時間になっていた。いつも三四が僕の分のお膳を持ってきてくれるのだが、今日は三四でも聡一のものでもない足音が近づいてきたので、僕は身構えるように起き上がった。その気配は襖の前で座り、 「入りますよ」 と声をかけてきた。声の主がわかり、僕は姿勢を正した。 「はい」 丁寧な所作で襖が開き、義母の紀子が部屋に入ってきた。 「あら、まだ着替えていらっしゃらないの?」 言われて、まだ自分が詰め襟を着ていたことに気づいた。あわてて釦を外しながら謝る。 「すみません」 「皺になるので、なるべく早く脱いでくださいね。」 鴨居にかかった詰め襟用に腕を短く整えられた衣紋掛けに手を伸ばし、紀子が詰め襟をかけた。鴨居に衣紋掛けをひっかけようとするが、鉤金具が鴨居からずれて衣紋掛けごと詰め襟が落ちる。紀子がそれを拾い上げながら、 「永太さんの体調も落ち着いていらっしゃるので、今日からみんなで夕飯を食べるよう伝えに来たのです」 と伝えてくる。夕餉をみんなととるということを反芻し、他の兄弟たちの顔がちらつく。しかしながら、聡一の食事姿を見る機会があるということだ。いやだと思う反面、なるべく前向きな方向に気持ちを切り替える。 「わかりました」 「着替えが終わりましたら、下りてきてくださいね」 そういうと、紀子は部屋を出て襖を閉めた。遠ざかっていく足音を聞きながら僕は手早く着替えて、心を奮い立たせるために大きく息を吐いた。初めて夕餉を家族とともにすることになった。聡一まだ帰宅していない。僕の心の拠り所がいない場所へ行く。ゆっくり息を吸って、気合を入れて僕は部屋を出た。  しかしながら階段を数段下りたところで足取りがだんだん重くなる。階段を降りきる前に魚が焼ける匂いがして、兄弟たちの話声が聞こえる。覚悟を決めて、僕は居間へ足を踏み入れた。兄弟の視線がこちらに向く。征二が「えっ」と声を上げて口をつぐんだ。上の兄の理一郎からは冷たい視線で凝視された後、興味を失ったように視線をそらされた。 いい匂いの立ち込める居間に沈黙が下りる。座敷机に人数分の箸が並べられており、各場所に冷ややっこが小鉢に入って置かれていた。自分の箸の場所は見つけたが、隣が誰なのかがわからない。自分はだれの箸もわかってないんだなと思った。そこへ廊下から重い足音が聞こえてきて、父の利吉が居間へ入ってきた。 「おかえりなさい」 理一郎と征二が父に声をかける。僕も慌てて、もごもごと「お、かえりなさい」と声をかけた。父が上座へ行く前に、ふと僕に目を向けた。 「体調は、いいのか」 「はい」 僕は端的に答えはしたものの、父と目を合わせる勇気はなかなか持てず視線が泳いでしまった。視界の端で父が僕のほうを見て微笑んだようにも思えたが、確かめようと視線を向けてもすでにいつもの無表情で、確かめる術を失ってしまった。そこへ三四が焼き魚を載せた盆を持ってくる。置かれている箸の数は全部で七膳で、家族の人数より一つ多いことから、おそらく三四も一緒に食卓を囲んでいるのだろう。 「聡一はまだ帰らないのか」 「今日はいつもよりも遅いですね」 追加の焼き魚を運ぶ紀子が居間に入ってきて、そう答えた。きびきびとした所作で焼き魚を人数分並べていく。三四が運んできた焼き魚と合わせて六尾。おそらく聡一の分を持ってきていないのだろう。魚が置かれていない場所は、父の隣、僕の席から角を挟んで隣だった。ちなみに僕の隣は三四で、三四の隣に兄が2人並ぶ。紀子はまだ席に座っていないが、僕の向かいということだろう。 「年頃ですから、そういうこともありましょう」 と三四が笑いながら言う。僕はその一言で心がざわついた。聡一には好い人がいるのだろうか。またあの想像が脳裏にちらついた。そうこうしていると小鉢と大皿が並べられた。 「先にいただきましょうか」 紀子が父に促して、父は「いただきます」と応じた。一呼吸おいて、皆が「いただきます」と声を合わせた。  しばらく黙々と食べていたが、僕がいつも食べている量より少し多い。おそらく食べきれないと思って三四が調整してくれていたのだろう。少し満腹気味になり食が進まなくなってきたところで、父が口を開いた。 「学校はどうだ」 「はい。楽しいです。本日は友人と騎馬戦をしました」 理一郎がはきはきと答える。まさか帰宅するときに視界に入ったあの光景のことを言っているのではないだろうか。ずっと理一郎が騎手をやり、代わってほしいという学友と征二を上から叩いては走らせていたのを思い出す。征二の顔を見る限り、あながち間違ってなさそうで僕は身震いをした。 「征二は」 「はい。勉強に励んでいます」 父の問いに、征二も答える。それに対して紀子が涼しげな顔で、 「そうですか。では、もう先生から宿題の提出がよく遅れると言われることもなさそうですね」 と征二に一瞥もくれずに言う。征二は黙って麦飯を搔っ込んだ。この順番で行くと、次は僕の番になる。なんて答えたらいいのか考えながら、どうか自分にその話題を振らないでほしいと視線を半分残った焼き魚から視線を上げることができない。 「永太は」 「はい、えっと……」 もごもごと言いながら、答えを探す。 「……体を、動かすのがまだ、苦手です」 絞り出すようにそう答えると、理一郎と征二がくすくすと嗤っているのが気配でわかる。聡一のおかげで勉強については全く心配をしていないが、征二の手前同じ回答をしてどうなるか分かったものじゃない。回答の選択として間違ってはいないと思うが、勉強ができない兄二人に笑われるのは釈然としない。 「無理せず励みなさい」 「はい」 父はそう言って椀に口をつけた。また食卓に沈黙が訪れる。もう口にものを運ぶのも限界がきている。どうしようかと思案していると、勝手口が開いた音がした。 「ただいま帰りました」 聡一の声がした。心が躍る。廊下から聞きなれた足音が近づいてきて、鞄と学生帽を片手に聡一が居間に姿を見せた。廊下に膝をついて、 「遅れました」 と礼をする。顔を上げた聡一と目が合い、嬉しそうに驚いた聡一の顔を見て僕は心が温かくなった。三四が席を立って、台所へ向かう。 「あ、三四さん、遅れたのは俺なので」 「いいんですよ。おなかすいたでしょう。食べられるものからお召し上がりくださいな」 「ありがとうございます」 そういって、聡一は席に座った。  聡一は、僕の方に少し身を寄せながら、嬉しそうに小さな声で、 「みんなで食べられるようになったのか」 と言ってきた。あまりに嬉しそうに言うものだから、半分嫌なことは言えないまま、笑って頷いた。聡一の笑顔が心に沁みた。  そんなやり取りをみてか、紀子が箸を置いて聡一に言う。 「今日は遅かったですね?」 「はい。少しばかり、話を……話が弾みました」 聡一がそう答えると、紀子は盆に自分の済んだ皿を載せながらつんっとすました口調のまま続ける。 「無事なら良いのです。最近色々と物騒ですから」 「ご心配をお掛けしました」 僕は聡一の顔を見るが、聡一の表情からは何も読み取れない。いつも聡一が僕に見せる穏和な態度とは打って変わって、固い態度に違和感を覚える。 「ご馳走様でした!」 理一郎と征二が箸を音を立てながら置くと、走って居間を出ていく。紀子が眉をひそめたが、二人を諌めることはしなかった。 「まぁ聡一も年頃だ。あまり干渉してやるな」 「わかってます」 利吉が椀を置いて手を合わせた。紀子がその椀を盆にのせて片付け始めた。僕はまだ6割ほどしか済んでいない。みんなが次々と居間を去っていき、聡一と二人になった。 「どうした?」 聡一がいつもの調子で僕に声をかけてきた。僕はほっとして事情を説明すると、ははぁと聡一が腕を組んで、 「それはきっと母上だなぁ……三四さんが準備してたらたぶんそんなことにはならないだろう。たぶん理一郎や征二と同じぐらいの量にしたんだな。悪気があってしたことではないと思うが、堪忍な」 と謝ってくる。僕はあわてていじわるされたとは思ってないことを伝えた。 「大丈夫、お義母さんとあんまり話したことはないけど、僕にそんなことをする人ではないと思ってる」 「そうか……ありがとうな」 聡一が少し気が抜けたような顔をしている。三四が温め直したたと思われる焼き魚を聡一の前に置いた。 「すみません、ありがとうございます」 「いえいえ、いいんですよ」 「三四さん、永太のご飯のことなんですが」 「はい、量のことですよね。奥様がいったん出してみようというので、征二坊ちゃんと同じ量をお出ししました」 「そうか。なら承知の上か」 「徐々に増やすにしても、どれくらい現状食べられるのか見たいとのことでした」 「――だ、そうだ。残してよさそうだぞ」 聡一が言うので、僕は三四に皿を手渡した。三四は快く受け取って、 「無理はしなくていいですからね」 と言って膳を下げていった。聡一は手を合わせてから食事に手を付けはじめた。僕は、その姿をじっと見つめていた。食べ方の所作がきれいで紀子とよく似ていた。 「見ててもやれんぞ?」 とからかうように聡一が言ってくる。 「あに様」 「ん?」 僕は、意を決して聞くことにした。 「今度の氏神祭には、あに様はどなたかと行かれるのでしょうか」 聡一がぴたりと動きを止めた。その数瞬の間で、僕は理解した。理解した上で、すがる思いで、僕は続けた。 「……連れて行ってもらうわけには、いかないでしょうか」 聡一は少し空を見上げて、「うーん」とうなった。祈るような思いで聡一を見る。胸が張り裂けそうで、胃がひっくり返りそうだ。 「少し、考えさせてくれるか。行けたとしても、野暮用を終わらせる必要がある」 野暮用とはいったい何なのか、ということを聞く勇気は、もう僕にはなかった。

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