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第4話 その感情の名は
夕餉の量に気持ち悪さを覚えながら床に入ったせいか、僕は夜中に目を覚ました。もう一度寝入ろうとするが、どうにもうまくいきそうにない。体を起こして、窓のほうを見る。まだ日は上がってすらおらず、真っ暗だ。
しばらくぼうっと窓のほうを見ていたが、尿意を覚えて憚りに立った。きしむ階段をそっと下り、縁側を歩いていき、突き当りにある厠で用を足した。秋の夜中はやはり少し冷える。何か羽織ってくればよかったと思いながらまた縁側を歩いていると、ふと蔵が目に入った。少し、戸が開いている気がする。
縁側の兼用の履物を履いて、興味本位でそっと蔵に近づいた。うっすらと蔵から明かりが漏れている。
蔵の重い戸をそっと開けると、中には見知った後ろ姿が見える。寝間着に羽織姿の聡一だった。
僕は音をたてないように蔵の中にはいった。忍び足で近づく、あと五歩……あと一歩、聡一の羽織を摘まもうと手を伸ばし、僕は伸ばした腕をひかれて体勢を崩した。聡一が振り返りざまに僕の手首をつかんで引き寄せた。
「夜更かししている子供はお仕置きが必要か? ん?」
からかうように言う聡一の腕の中で、僕は耳が熱くなるのを感じた。
「なんでわかったの?」
「蔵の中は空気があんまり動かん。戸が開いたらわかる」
簡単に種明かしをされたが、振り向きざまに手をつかんで引き寄せるなんて自分にはできそうにない。そもそも聡一を引き寄せる力なんて無いのだが。
「それはそうと、なんで起きている?」
「何故か起きてしまって、厠に立ったら蔵が開いてて」
「なるほどな」
「あに様は?」
兄の固い腹に抱き着きながら聞くと、聡一は自嘲気味に笑って、聡一の背後に目をやる。視線をたどるように兄越しに覗き見ると、蔵の棚に煌びやかな西洋の小物入れが開かれていた。陶器のようにつるりとした白い箱に金細工で足がつけられ、同じ装飾が箱の角にあしらわれたもの。普段はあまり目にする機会がないものだが、その小箱に刺されている鍵を、僕はよく知っている。僕が一昨年の夏、手ぬぐいに包んで聡一に渡したものだった。
聡一の実父が流行り病で亡くなる前は、小物細工職人だったそうだ。何人か職人を抱える作業場もあり、巷ではそれなりに名の通った人だったらしい。中でも珊瑚を使ったものをよく好んで作っていたとのことで、それを花村屋にも少量おろしてくれていたのが花村家とのつながりだった。大黒柱である聡一の実父が亡くなり、紀子が店を切り盛りしていたそうだが、なかなか経営がうまくはいかなかった。とうとう材料の仕入れが難しくなってきた五年前に職人を路頭に迷わせるわけにいかないと、その作業場を存続させるために融資を申し出たのがうちである花村屋。今でも素晴らしい小物が店頭に並んでいるが、その中に珊瑚のものはもう並ぶことはないだろう。より関係を強固にするために、後妻として入ったのが聡一の母である。僕は母の形見の中に、きっと聡一の父が作ったであろう珊瑚のかんざしがあることを知っていた。これは、聡一にとっても形見のようなものになるのだろう。連れ子としては、利吉に実父を思い出す品を見せてほしいとは言えない。それは実の母においても同じだっただろう。
白い小箱に入っているのは黄みがかった薄紅色の珊瑚をあしらったバチ型簪。煌びやかで豪奢だが派手過ぎず品があり、素人の僕から見ても素晴らしい職人芸だと感じた。
「ありがとうな。本当に」
聡一が物憂げに簪を見ている。
「いいんだよ。僕はもっとあに様にもらってる」
しばらく二人でかんざしを眺めていたが、聡一の体温が心地よくて眠気が戻ってきてしまった。欠伸を噛み締めると、気配を察したのか聡一が自身の羽織を脱いで僕にかけてきた。
「ほら、もう寝るぞ」
そういって、小箱の蓋を閉めて鍵をかける。以前僕が鍵を渡したときにくるんだ手ぬぐいで丁寧に鍵を包んで、懐へしまった。今度は法被ではないからしまえたな、などと思ったけど口には出さなかった。そんなことよりも、羽織にうつった聡一の体温があたたかい。
二人で蔵から出て、聡一は僕の部屋の前まで送ってくれた。僕は羽織を脱いで返そうとすると、聡一がそれを制止する。
「いい、また明日取りに来るさ。早く布団に入れよ」
そういうと、廊下をさっさと歩いて行ってしまう。僕は、こういうところにころっと惚れてしまう人がいるんだろうなぁと思いながら、部屋に戻った。すっかり冷えてしまった布団の上で羽織を脱ぐ。羽織をたたもうと膝に広げておいた。
自分の羽織より二回りは大きい聡一の羽織をまじまじと見て、僕は気持ちの赴くままに羽織に顔を埋めた。肺いっぱいになるまで息を吸う。明日取りに来る事実はうれしいが、この羽織は名残惜しい。幸せいっぱいになってこのまま眠ってしまいたいと思う気持ちをぐっと我慢した。返さないとありがたみも薄れそうだと眠さも相まって斜め上の方向で自分を納得させる。上体を起こして手早く羽織をたたみ、枕元に置いて冷えた布団にもぐりこんだ。
翌朝、消えない眠気に布団から出たくなくて寝返りを打つと、昨夜たたんだ羽織が目に入った。しばらく羽織を見た。夕餉を共にしたのだからきっと朝餉も一緒だろうかと考えると、余計に布団にくるまってしまいたい衝動に駆られて動けない。
「だめだ、起きなきゃ」
自分に言い聞かせる。聡一ならきっと起きる。例え嫌だったとしても起きる。自分を鼓舞して起きた。ひんやりとした秋の空気を感じたが、かまわず寝間着を脱いだ。腕に少し鳥肌が立つ。腕をさすりながらシャツを取り出そうとしたところで、廊下を歩く気配がする。よく聞きなれた足音は聡一のものだ。
「永太、起きてるか?」
「起きてます」
慌ててシャツの第一釦を外そうとするが、焦るせいでうまくいかない。
「入るぞ」
襖が開いて、高校の詰襟姿の聡一が入ってくる。
「まだ着替えてなかったのか」
と言いながらかまわず襖をしめて、聡一は僕の布団をたたみ始めた。
「いいよ、僕がやるから」
僕はようやくシャツの釦を外して腕を通そうとしたところで、聡一が待ったをかける。不思議に思って聡一の方を向くと、聡一は驚いた表情をしていた。彼の手から布団がするりと滑り落ちる。それに構わずに聡一が僕に近寄ってきた。
「手、見せてみろ」
そういうので、シャツを持ったまま両手を聡一の前に出した。出してみて僕もわかった。右手首にくっきりと痣のような痕がついている。まるで強く握られたような痕であった。はて、昨日はなかったと思うが。
「あ」
僕は思わず声をあげた。昨晩の蔵で、聡一につかまれた箇所と同じであることを思い出した。聡一も同じことを考えたのか、申し訳なさそうな顔をしている。
「ごめんな、痛いか?」
「全然痛くない。あに様は悪くないよ。僕がそもそも驚かそうとしたのが悪いんだし」
「しかしな……」
聡一の顔がみるみるしょぼくれていく。自分の貧弱な体を心底呪った瞬間だった。
「あに様。それ以上はだめ。僕は楽しかった。男に傷はつきものってあに様も前言ってた」
「それは剣術の稽古のことであってだな」
「いいの! 僕がいいからいいの! ほら、着替えるんだから先に行ってて!」
聡一の背中を押して、部屋から追い出す。シャツを着る前に、右腕の痕を見る。左手で痕に合わせて右手首をつかんでみようとするが、その痕すらやはり大きい。
この痕がしばらく残っていればいいのになんて、そんなことを考えてしまう自分の脳みそに違和感すら覚えなくなっていた。
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