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第5話 狂気の世界へようこそ

 朝餉の量は普段通りぐらいで、朝から吐くなんていう事態にはならなかった。ましてや普段でさえ学校に行くのに息が切れるのに、満腹で行こうものなら学校までたどり着くことはできないだろう。一緒に出発している兄二人の姿はもう見えない。普通に歩いていて離されているわけではなく、積極的に置いて行かれているわけだが。  寝不足で若干体は重いが、心は軽い。早く帰って聡一に会いたい。毎日そう思いながら学校へ出発し、勉強をし、好きでも嫌いでもない脱脂粉乳つきの給食を食べ、呼吸を乱しながら体を動かし、ただ帰るだけの変わり映えのない日々も、聡一に会えると思うことで頑張れるというものだ。  今朝は軽かった心も、氏神祭を2日後に控えた今日は、周りが浮き立つようになってきてしだいに重くなっていってしまう。聡一は氏神祭に連れていけるとは一言も言ってくれなかった。野暮用とはなんなのか。それは明日ではだめなのか。そんなに時間がかかる用事なのか。今日には返事はもらえるんだろうか。帰路について尚とりとめもなく考えている自分もそんなに好きになれない。  二階の角部屋に到着して、畳んである羽織が視界に入る。羽織の前に座って、じっと見入る。焦がれる気持ちに蓋ができない。この苦しさはいったい何なのか。皆経験するものなのか。聡一について考えると、天にも昇る気持ちになったり、地獄の底に突き落とされたり、感情の起伏が激しすぎる。宿題をしようかと教科書を開くが、どうしても手につかない。かといって寝るのも何か違う。本でも読むか。何かいい本はないだろうか。  僕は立ち上がって、簡単に何か読めそうなものはないかと家の中をさまよい歩く。理一郎と征二の部屋にはきっと漫画があるだろうが、きっと貸してはくれないだろう。かといって父上の書斎にある本は難しすぎて読める気がしない。僕はお店のほうに顔をだしてみた。夕方の前、お店も片付けに入って穏やかな雰囲気になっている。誰か僕が読むのにちょうどよい本はないか聞いてみる。一番若い、聡一とあまり歳の変わらない従業員の哲郎に声をかけた。 「哲郎、僕にも読めそうな面白い本とかない?」 「坊ちゃんが好きそうな本ですか……坊ちゃん大人びてますからねぇ。小学生向けの本はもうあまり面白味を感じないんでしょう」 「まぁ、そんな感じ」 僕は心が落ち着かないので、何か読めないかと思っただけということは伏せた。哲郎は僕の言葉にきちんと向き合って考えてくれた。 「普段どんなものを読むんです?」 「うーん、冒険ものとか」 「なるほどねぇ。今手持ちに冒険ものはないなぁ」 「何ならあるの?」 「流行りの恋愛小説ですよ。女学校で流行ってるって妹が言うもんだから、ちょっと貸してもらったんでさぁ」 恋愛小説、なるほどそれは読んだことがないかもしれない。でも妹さんからの借り物をまた貸ししてもらうのは少し気が引ける。 「じゃぁ、僕の仕事が終わるまで読んでてもいいですよ!」 「ありがとう」 哲郎について行くと、哲郎は自分の鞄から流行りの恋愛小説を手渡された。表紙には『甘き恋』と書かれていた。著者は知らない。 「まだ僕は読んでいる最中なんで、しおりは外さないでくださいね。あと難しい漢字はそんなにないと思います」 「大丈夫、出てきても調べるよ」 部屋に持ち込むのも少し気が引けたので、哲郎の鞄が置いてある棚のすぐ隣の床に座って読み始めた。あまり読みなれない小説に、文体に、頭をひねりながら読み進める。床の冷たさを感じなくなり、尻が平らになるんじゃないかと思うぐらいの間読みふけったおかげで、小説の終盤まで読むことができた。  手元の暗さを感じ、はっと顔を上げると、そこには紀子が立っていた。 「こんなところで本を読んでいたら、体の芯が冷えてしまいますよ」 どうやら怒ってはいないようだが、声色に温かさが乗ってない。正直怖い印象しか持てないが、紀子が単に表現が不器用なだけの優しい人であることは何となくわかっていた。僕がついこの前まで熱を出していたためにそう言うのだろう。 「すみません」 僕は立ち上がって紀子の顔をまっすぐにみる。紀子は僕と目を合わせた後、僕が持っている本に視線を移した。題名が気になっているのか、僕と視線を合わせていた時間よりも本に注視する時間のほうが断然長い。 「哲郎から借りました」 「別に聞いていませんよ」 紀子がついと視線を背ける。なんでこの人こんなにわかりやすいんだろうか。段々面白くなってきて、僕は続けた。 「『甘き恋』という本だそうです」 題名を聞いて紀子は明らかに反応したが、視線はこちらを向けてはくれない。しばらく紀子の横顔を眺めていたが、長い沈黙のあとに紀子は口を開いた。 「面白いですか」 聞いたあとに、紀子の耳がだんだん赤くなっていっている。僕は笑い声を噛み締めながら、 「そう、ですね。とても、おもしろいです」 と答えた。声が半ば上ずってしまった。紀子に悟られないようになるべくそっと深く息を吸って吐き、平静を装おうと努めた。 「恋愛小説は初めて読みました。恋とは興味深いですね。お義母さんも『甘き恋』は読んだことがありますか?」 「ないですね」 紀子が今度は即座に答えてくる。ここで、「読みたいですか」なんて直球を投げると、紀子は絶対読みたいはずなのに読みたいとは答えないだろう。僕はもう紀子のほうは見れなかった。今紀子のほうを見たら確実に笑いが暴発してしまう。僕は聡一ならなんて言うか思案して言った。 「……僕は面白いと思いましたし、女学校でも流行っているそうですよ。お義母さんも、機会があればぜひ読んでほしいです」 紀子はこちらにちらりと視線を向けて、 「そうね、機会があれば読みましょう」 そう言い残してお店のほうに向かって行った。  僕もさすがに宿題に戻ろうと思い、本を哲郎の鞄の中へ戻して店のほうに顔をだした。日誌を書いていた哲郎に手振りで本を鞄に戻したことを何とか伝えようとしたが、哲郎は日誌とにらめっこ状態で気づいてもらえなかった。ほかの従業員がほほえましそうにこちらを見ており、哲郎の肩をたたいてこちらのほうを見るよう促してくれた。哲郎と目が合うと、さっきと同じように身振り手振りで伝えると哲郎は笑いながら手で丸をつくって応えてくれた。  店の裏口から母屋へ向かう。部屋へ向かいながら、|教科書《甘き恋》で得た知識を反芻する。恋というのが、相手の一挙一動に一喜一憂し、相手のことで頭が支配され、その瞬間が苦しくて切なくて幸せで満ちている。そして、恋に落ちたあとはもう沈み続けるしかないものということになってしまう。自分の部屋の窓から外を眺めた。宿題をしに戻ってきたはずなのに、一度思案を始めてしまうと、どうにも手が付きそうになかった。もう夕日が赤く山の端を染めあげ、夜を押し返そうと抗っているようにも見える。夜が優勢になりつつある空をしばらく見て、僕はため息とともに桟に手をついた。  聡一はまだ帰ってこないだろうか。僕の予想はあっているんだろうか。きっと聡一を見たら、僕はこの気持ちに名前がついてしまうんだろう。これが恋だったならば、僕の世界はなんて狂気に満ちているんだろう。 恋とは、正気の沙汰ではないのかもしれない。

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