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第6話 失意の夜に
夕餉には間に合わなかった聡一が、寝る前の時間に僕の部屋を訪ねてきてくれた。普段聞きなれた足音も、鼓動が高鳴ってしまう。
「永太、入るぞ」
そういって、襖を開けて聡一が入ってきた。風呂はだいぶ前に入ったはずなのに、体が熱くてたまらない。聡一の顔を見て、僕はもう心の中で天を仰いだ。狂気の園が大手を振って迎えに来ている。聡一の周りが輝いて見え、そこだけ空気がまるで清浄なものであるかのように感じる。
僕は、開けた窓にしなだれるように寄りかかりながら聡一を見つめていると、聡一は真面目な声色で言ってきた。
「こら、夜風は当たったらだめだと言っているだろ」
「ちょっと、暑かったから」
そう言うと、聡一は速足でこちらに近づいてきた。聡一の急接近に心臓が跳ねたが、聡一は有無を言わさず窓を勢いよく閉めて、僕の顔を覗き込んでくる。
余計に火照りそうなむず痒さが胸に走る。聡一のしっかりとした大きな手が僕の額を覆う。
「熱はなさそうだな。でも顔が赤いな……」
額の次は頬に手を添えられる。もう苦しい。爆発してしまいそうだ。誰か助けてほしいが手を離すのも名残惜しくてもうどうにもならない。
「熱はないよ。大丈夫」
「ほんとか?」
「本当。で、どうしたの?勉強見に来てくれたの?」
叫びだしたい気持ちをなんとか抑え、努めて冷静に言う。聡一は僕の頬から手を放して、僕の前に座りなおした。言いづらそうに何度か咳払いをして、しばし黙る。もったいぶられると、もう嫌な予感しかしない。
「明日の、祭りの件なんだが」
心が締め付けられる。続きを聞きたくない気持ちでいっぱいだが、そうもいかない。聡一は、少なくとも僕に謝ろうとしているのが表情から見て取れる。
「……どうしても、用が断れなかった。昼間は家の手伝いをする予定で、夜に連れていきたいと思ってたんだが……どうにも……」
聡一の声が尻すぼみしていく。申し訳なさそうにうつむいていて、責める気にはならない。だが、
「用というのは……手伝いのことですか?」
どんな理由なのかぐらいは、聞く権利があると思う。前回も野暮用と言っていたし、それをおそらく今日断ろうとしたのだろうということも、そして断れなかったんだろうということもなんとなく予想はつくが、それでも自分より優先しなければならない予定というのが気になってしまう。
「いや、明日はもともと花村屋は夕方前に仕事は終わる日だから」
「では、なんです?」
僕は聡一の目を見たかったが、叱られる子供のように視線をあわせてはくれない。聡一を困らせてしまっているのが、少し心苦しい。でも、ここはどうしても譲ることはできない。聡一は長い沈黙のあと、自身の目を覆うように手を当てて答えた。
「……先輩の……………」
「うん」
促すように僕がそう言うと、聡一が息を大きく吐いた。ゆっくり2秒数えたぐらい息を止めてから、大きく息を吸いこんで、
「先輩の妹に、会ってくれないかと、言われた」
心がきしむような音がした。一気に世界の色が褪せていく。それなのに、聡一だけは自分の視界でまだ鮮やかに存在している。すがるように自分にとって何か心が救われるような言葉を待ってしまう。
「今年の神輿行列で、気分が悪くなってしまった女性を助けたんだが、それが先輩の妹だったらしい。それ以降、ことあるごとに家に誘われているが、いろいろ予定を入れて断っていた。今回も、お前と一緒に行こうと思って断ったんだ。だが、今回だけは頼むと、世話になっている先輩にそう頭を下げられた。どうにも断れなかった」
僕が先に約束していたのに。そんな言葉が頭をよぎった。でも目の前の、僕との約束を果たそうとなんとか頼み込んでみたのだろう聡一の姿を見ると、どうしても言えなかった。夕餉の時間に間に合わないぐらいの長い時間をかけて僕との約束を守ろうと努めてくれた人に、どうしてそんなことを言えようか。むしろ腹立たしいのはその女のほうである。聡一が断りづらいだろう自身の兄を使って聡一を誘い出そうとしている。卑怯者め。自分で誘わずに権力で相手をねじ伏せようとする。そんなやつ、聡一に釣り合うはずがない。粉をかけるなんて烏滸がましい。あぁ語彙力が足りない。罵倒するに適する言葉を持っていない。自分がそんなところで自分の至らなさに悔しさを感じると思ってなかった。
約束を破ったことのない男が項垂れている。僕はなんて声をかけようか迷っていた。
「……仕方ないと思うよ。だから、元気出して、あに様」
「でも」
「あに様は僕に責めてほしかったの?」
そう伝えると、聡一は困ったようにこちらを見てくる。覆われていた目が揺れている。涙が出ているわけでもないし滲んでいるわけでもないが、その瞳に辛さを湛えている。
「僕は責めないよ……あに様、自分を許せないんでしょ? だから、責めてほしいんでしょ? でも、僕は責めてあげないよ」
聡一は僕の言葉に驚いたように見てくる。僕は寂しさを笑顔で隠して、聡一の手に手を重ねた。
「どうしても許してもらったってことにしたいなら……なんだろ、お願いでも聞いてもらえばいい?」
「お願い?」
口をついて出てきた言葉に、聡一が反応する。何も考えずに言った言葉だったので、考えてしまった。ここで恋心の話をしたら、先輩の妹とやらと同じになってしまう。
「ちなみに明日……先輩の妹とどこに行くの?」
聡一に聞くと、ばつの悪そうな顔をする。やはり、氏神祭か。確実に着飾った妹様と聡一が氏神祭を二人で歩くわけだ。手でも握るんだろうか。『甘き恋』に出てきたような花火と告白と口づけと……。
僕ははっとした。気づいてしまった。女学校で流行っている『甘き恋』。『甘き恋』に出てくるのは、お祭りに二人きりの告白場面。女のほうから告白して、告白を受ける返事を男が返す。花火が二人を祝福するように打ちあがり、口づけをする。これだ。妹様がしたいのは、この場面なのだ。すべてに合点がいった。兄である先輩をつかってでも、この魅力的な場面を演出するのが目的か。なんて小賢しいやつだ!
「あに様は、妹さんに会うっていうことがどういうことなのか分かったうえで行くんだよね?」
「ん……? いや、助けてもらったお礼がしたいとのことらしくて、食事だとか贈り物だとか、そういうために助けたわけじゃないと断ったら、礼も何もさせてもらえないのは立つ瀬がないと言われて、ではせめて氏神祭の屋台を回っておごらせてほしいと……」
聡一の答えに僕は深いため息をついて頭を抱えた。何故この義兄は、こと恋愛においてこんなに鈍くなってしまうんだ。『甘き恋』を読む前の僕でさえそれぐらいはわかりそうなものなのに。
「……先輩の妹さんって、おいくつなの」
「なんだよ……いきなり」
聡一が眉をひそめて僕のほうを見てくるが、僕はいいから、と答えを促す。
「たしか、俺の1つした…だったと思う」
年齢だって釣り合ってるじゃないか。普段の察しの良さはなぜ発揮されないのか、僕には全く理解できない。口をついて出てきそうになる言葉をぐっとこらえた。そんなところも可愛いとか思ってしまうからもう僕も手遅れだろう。
「…………あに様、もしもだよ? もしも、告白されたらどうするの」
「こ、こくはっ!? な、なに言ってるんだまったく。というより永太からそんな言葉がでてきてちょっと驚きを隠せな――」
「いいから! どうするの!」
僕の勢いに押されてか、聡一は腕組をしながら頭を揺らし、眉間に皺を寄せて考え始めた。僕はそれを見ながら待っているが、聡一のそんな仕草すらいとおしいと思ってしまう。恋心を自覚してからの開き直ってしまった自分が妙に高揚していることに戸惑いを隠せないが、そんな自分が嫌いではない。
「あんまりピンとはこないけど、たぶん、断るんじゃない、か?」
聡一が自身で言うようにピンときてない顔でそう言った。僕は疑り深く食い気味に確認する。
「ほんとに? 相手が美人で、浴衣で、告白からの花火でも!?」
「し、質問が具体的……」
「雰囲気にのまれちゃったりしない?」
僕の質問攻めに、聡一は笑いながら僕の頭を少し乱暴になでる。
「いったいなんの心配をしてるんだか! 俺はだれとも付き合う気なんてないよ」
流れ弾に当たる感覚というのはこういうことなんだろうか。自分に対して言っているわけではないのにも関わらず、深く突き刺さる鋭利な言葉に、僕はその場に崩れ落ちた。
「お、おい……そんなに今回は強くしてない……はず、なんだが……痛かったか?」
聡一が心配そうに僕のほうを覗き込もうとしている気配を感じる。僕は床に突っ伏した状態で、大丈夫と返した。
「お願い……。ちょっとでも、いいなって思っても……付き合ったりしないで……」
こんな情けないこと言っちゃうけど、僕だけのあに様でいて。
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